【番外編終了】 数学のリュウと語学のダイスケ。アヤカとのデートを賭けた知恵比べ ③
ボディガードと狙撃手。
若くしてその仕事に就く2人の普段は見せない表情に微笑みを浮かべながら、ナオキはアヤカの方を見た。
細い金髪にキラキラとした青い瞳。
妖精の血を引く彼女は、まるで木々の間から現れた神秘的な妖精のような風貌をしているが、ナオキたちの前ではよく笑い、よく表情を変えるごく普通の少女だった。
リュウとダイスケは、大学受験に頑張る彼女を応援し、支えてきた。
その2人が主張する議題について思考を巡らせ、その本音を想像すると思わず笑いが込み上げ、科学者としての探究心がくすぐられる感覚がした。
(2人の保護者としては不適切かもしれませんが…もう少しだけ、本音を見せてもらいましょうか)
そんな事を考えながら、ナオキは一歩前へ出て2人に語りかけた。
「さて2人とも、次は僕から出題します。リュウ君とダイスケ君は、アヤカさんの物理的な魅力とその表現を見事に議論しました」
「最後の議題はアヤカさんの寝ぐせとどなり声、どちらがより美しいかを議論していただきましょう」
ナオキが再び宣言するように左手を前に出すと、リュウとダイスケは静かに頷き、互いに目を合わせ最期の勝負に挑む決意をした。
「またその話題に戻るの…?」
「あなたを奪い合っての議論なのよ…優しく見守りましょう」
カレンにいつにない優しい声でなだめられ、アヤカは半べそをかいた。
「カレンちゃん…ただ議論に興味があるだけでしょ?」
「ここまでは互角だな?リュウ」
ダイスケ少し息を切らしながら、敬意を表するように笑みを浮かべた。
「学問で、ここまで熱くなったのは初めてだよ…」
疲れと、若干の満足感に満たされながらリュウも少しだけ笑みを浮かべた。
お互いに拳を前に出し、軽く当てると2人は前を向いた。その瞳には互いへの賞賛と、絶対に負けないという闘志の炎が宿っていた。
「まず、アヤカの寝ぐせの美しさについて語る前に、フラクタルジオメトリー…つまり自然なパターン形成により寝ぐせが形成される自己相似性について理解することが大切だ」
リュウは黒板にフラクタルジオメトリーに基づく髪の形成メカニズムを説明する図を描きながら話し続けた。
「寝ぐせとは、一晩寝ている間に髪が自然に形成する形のことを指す。これは無意識的に起こる現象で、アヤカの真実…つまり無意識の表現という自然な現象だと言える。更に…」
リュウは心理学的な希少性に関する影響力についても記載していった。
「アヤカは早起きだ。寝起きを見られる率は極めて引く、その希少性も考慮する事が大切だ」
リュウの発言にカレンが手を上げた。
「リュウ、その言い方だと少し不明瞭だわ。フラクタル…つまりアヤカの一日の生活スタイルを詳細に記載して、どう寝ぐせに反映されるかを説明するべきじゃないかしら?」
カレンの指摘にリュウはポインターで反対の手のひらを叩きながら、軽く目を閉じ答えた。
「俺はアヤカのボディガードだ。アヤカの個人情報の露呈は断固拒否するよ」
「リュウ…」
アヤカは真剣に自分を守る発言をする彼に少しだけ胸が高まる感覚を覚えた。
リュウは仕切りなおして議論の続きを話し始めた。
「話を戻すけど、アヤカの寝ぐせの特徴はその自然な乱れ方と一日の活動の痕跡が反映されているところだ。つまりアヤカがどんな寝姿で、どんな夢を見て、どう感じたかなど非常に個人的な情報を提供してくれるんだ」
「それはプライバシーの侵害じゃないかな?!」
アヤカが再び涙目になりながら突っ込みを入れるが、彼が反応する事はなかった。
目の前の議論に集中するリュウの脳内は、真っ直ぐとダイスケの方に向けられ、次にどう出てくるかの模索で埋め尽くされていた。
「完全に議論に没頭していますね」
ナオキが苦笑しながら呟くと、アヤカは諦めたように肩を落とした。
「アヤカのどなり声より、アヤカの寝ぐせの方が魅力的であると宣言する!何故ならそれは、アヤカ自身の真実、無意識が形成した自然の美と言えるからだ!」
再び牙を向いたリュウの主張を聞き、ダイスケは奮い立たされたかのように黒板に向かって歩き出した。
「アヤカの寝癖は美しい…それは認める。けどな…」
ダイスケは黒板にさまざまな記号を書いていった。
「アヤカのどなり声の美しさは、フランスのセミオロジー…つまり記号学から見ればその瞬間の感情の表現による一つの記号なんだ」
チョークが黒板を叩く音と共に、ダイスケはリュウへのけん制ともとれる、鋭い視線を向ける。
「寝ぐせは一晩のアヤカを示すものだが、どなり声はその瞬間の生き生きとしたアヤカを表現している」
彼は記号の下に、更に音楽理論に基づいた音と声の発する信号についての数値を書き込んでいく。
「セミオロジーの観点から見れば、生姜焼きをつまみ食いした時のアヤカの声は、その瞬間のアヤカの心情を直接に伝える【記号】であり、それこそがアヤカの魅力を最大に引き出す要素だと言える」
カレンが再び手を上げた。
「セミオロジー…つまり音と声が合わさることにより発信される一種の記号という考え方は理解できるけど、それがどなり声である必要はどこにあるのかしら?彼女の普通な優しい声では駄目なの?」
カレンの質問にダイスケは軽く目を閉じ、腰に手を当てて少しだけ上を見上げた。
「…アヤカはいつも愛情を持って接してくれてる。それは怒る時も変わらない。そうだろ?」
「ダイスケ…」
穏やかな表情で語る彼を見て、アヤカの心に、自分のことをそんな風に見てくれていたんだという感謝の気持ちがよぎった。
「アヤカの芸術的といえるこの表現は、優しさに添えられた怒り…スパイスがあってこそ完成する母性ってやつだ。それはつまみ食いをした時の微妙な心理状態、条件で起こる複雑な【記号】なんだ!」
「それはつまみ食いをしていい理由にはならないよね!」
アヤカが再び涙目になりながら突っ込みを入れるが、目の前の議論に集中するダイスケの脳内は、真っ直ぐとリュウの方に向けられ、自身の主張に対する確かな確信で溢れていた。
「感情が紡ぎ出す音楽、記号と言葉が生み出す芸術!否応なく引き込まれる声の魅力…だから、アヤカのどなり声こそが最も美しいと、俺はここで明言するぞ!」
ますますヒートアップする2人の議論は、更に深みを増し、止まることなく続いていく。
「ではアヤカの寝ぐせについて更に深く追求してみようと思う!」
リュウは再び黒板に何やら書きだした。
「ダイスケが言うセミオロジーの観点は興味深いけど、アヤカのどなり声は、一瞬の感情を表現するものであり、その瞬間だけのアヤカを表している。それに対して、寝ぐせは一晩という時間を通じて形成されるものなんだ。カオス理論に基づくと、この微細な変化はアヤカの精神的な状態に影響を及ぼすのではないかと考えられる」
「なるほど、リュウ…お前の言いたいことはわかる。でもここで語るべきはどなり声と寝ぐせのどちらがアヤカの魅力をより表現しているかという問題だろ?ここで重要なのは、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームの概念を考えること…「どなり声」という言語のパフォーマティビティを考えるべきだ。それは人間の感情、状況、そしてアヤカの直接的な反応を表している。寝ぐせも美しい。それは認める…でもな、どなり声は瞬間的な感情を捉えているのが魅力だ」
「ダイスケの言う言語ゲームの概念もわかるよ。でもそれはあくまで瞬間的なものであり、寝ぐせの持つ複雑性と比較すると一面的に見えてしまうよ。寝ぐせはアヤカが自己を表現する一つの方法で、それがフラクタルのパターンに従って表現されるならば、それはある種の数学的美しさとも言える。違うかな?」
「ねえ、カレンちゃん…2人が何を話してるかわからないよ」
カレンがリュウの方を見ながら説明する。
「簡単に言うと、リュウはアヤカの寝ぐせにアヤカの一日の生活や癖が詰まっていると言っているの。彼はそれをちょっと難しく、パターンが繰り返し出てくるような形、つまり「フラクタル」っていう数学的な形に例えているわ」
続いてダイスケの方を見て説明を続けた。
「一方、ダイスケはアヤカのどなり声がその瞬間の感情をすぐに表していると言っていて、その考えを「言語ゲーム」っていう哲学の考え方に繋げている。要するにその瞬間の感情を言葉で表現することが大切だと言っているのよ」
そしてメガネをかけ直すように左手を上げ、真剣な眼差しで言葉を続けた。
「長い時間を表現していて複雑な寝ぐせが美しいと言うリュウ、その瞬間を直接的に表していてシンプルなどなり声が美しいと言うダイスケ…。それぞれの視点があって、どちらが正しいかは個々人の判断に委ねられるわね」
「カレンちゃん、すごくよく分かった!ありがとう」
アヤカは満面の笑みで答えた。
「でも、それって…好みによるって事だよね?この議論の落としどころはどこになるの?」
「………」
カレンは無表情のまましばらく考え、口を開いた
「ソクラテスが言っていたわ。知恵とはあくなき探求の賜物だと」
彼女の緑色の視線は激しい議論を交わすリュウとダイスケに向けられる。
「…つまり終わりがないってことだよね」
アヤカの突っ込みに、彼女は返答することはなかった。
「でも、でも…そんな複雑な事考えなくていいと思うの!だって、寝ぐせやどなり声って、そもそも私の魅力を測れるものなのかな!?」
混乱するアヤカがさすがにかわいそうになり、ナオキは少しだけヒントを与えようと口を開いた。
「まあ、2人ともそれが嬉しかったんでしょうねえ…」
ちらりとアヤカの方を見ると泣き顔がぴたりとやんだ。
「嬉しい?」
きょとんとした表情で見つめてくる彼女の頭には、大きな?マークが浮かんでいた。
つまるところを言うと
彼女をいつも近くで見ているリュウは、家で1番早く起きるアヤカの寝起きにたまたま遭遇し、いつもと違う無防備な姿にかわいいと感じたという事を言いたかったわけで
親の愛情を知らないダイスケは、アヤカに優しく叱咤されたことに彼女の母性を感じ嬉しく、ついちょっかいを出したくなってしまう
寝起きが無防備でかわいかった
愛情込めて怒る姿がかわいい
2人の主張はそんなところだろう…。
ナオキはそれをアヤカに伝えるか悩んだが、しばらく考えて伝えない事にした。
思春期の少年らしい、素直に伝えられない微妙な心が垣間見え、大人が干渉するべきではないと考えたのだ。
「2人とも、優秀すぎて忘れてましたが…やっぱり14歳の少年ですね」
終わらない議論を繰り返すリュウとダイスケを眺めながら、ナオキは小さく笑った。
「しかし、そろそろ夕刻になりますね。生徒は帰宅する時間ですが…」
およそ3時間に及ぶ知恵比べに痺れを切らしたカレンは先に講義室を後にしたが、目の前の2人の議論はまるで終わる様子がなかった。
「でも、どうやって止めたらいいのかな…」
困った様子のアヤカを見て、ナオキは優しく語り掛けた。
「簡単ですよ、2人とデートしてあげれば良いじゃないですか」
その言葉を聞き、アヤカは笑顔で頷いて2人のもとへ走っていった。
リュウとダイスケの毎日は仕事で溢れている
毎朝のトレーニング
ミッションの為の受験勉強
リュウが自分の為に美術の実技に出て、アヤカの知らない所で単位を取る為の勉強をしている事だって、彼らからしたら仕事のうちとアヤカは理解していた。
でも、だからこそ彼女は今を一緒に楽しみたいと思った。
毎日渡すレモンウォーターや、美味しそうに食べてくれる朝ごはん、仕事のお供にしてくれるハンドドリップコーヒー。
ひとつひとつがアヤカにとっては大切な時間で、彼らの時間を共有し一緒に生きて行ける事に喜びを感じていた。
(私の魅力が寝ぐせと、どなり声なのはショックだったけど…)
苦笑して、2人を見る。
いつになく生き生きと語る姿を見て、リュウは数学、ダイスケは語学を学ぶのが好きな事。そして2人にもきっと、夢がある。
それを知る事ができた気がして、少しだけ嬉しく思っていた。
(また今度、一緒に講義受けたいな)
同い年でボディガードと狙撃手という仕事に就くリュウとダイスケにほんの少しでも安らぎを与えられる存在でいたい。
アヤカはそう感じながら、2人の肩を叩いた。
次の投稿は6月7日予定です。




