胸に決めた誓い
午前の講義を終え、リュウとアヤカはいつものように学校の屋上で一緒に昼食をとっていた。ダイスケは午後まで続くという理由から、今日の昼食は2人だけの時間となった。
リュウの心は複雑だった。ダイスケと再び顔を合わせたいという願望と、それに伴う気まずさとの間で、彼の内面は激しく揺れ動いていた。
「リュウ、肩のその子…」
アヤカに肩の女の子の存在を指摘され、リュウは自分の肩に視線を向けた。
女の子は微細な羽をぱたぱたと動かし、リュウの黒髪で遊んでいた。風に揺れる彼の髪を優しく撫でるのが、彼女の楽しみのようだ。
「うん、ずっとここにいるんだ」
女の子はリュウと目が合うと、嬉しそうに微笑んだ。
「リュウ、この子が見えるの?」
この女の子は、リュウにしか見えていない。ダイスケやナオキ、大学の生徒達も気付かない。唯一気付いたのはアヤカだけだ。
「俺とアヤカにしか見えてないのか…」
「そうみたい。精霊みたいなものなのかなぁ…」
「何か違うところがあるのか?」
アヤカは少し困惑した顔をしながら、小さな女の子をじっと見つめていた。
「私が見てきた精霊たちは、いつも色を放つ小さな光のような存在で…。その子みたいに形がはっきりと見える精霊は珍しいの」
アヤカが覗き込むと、女の子はリュウの髪の毛で顔を隠した。その姿に、アヤカは小さく笑い、「驚かせてごめんね」と言って目線を逸らす。
「精霊さんくらいかな…形がはっきりしてたの」
精霊さんとは、アヤカの守護精霊の事で3年前アヤカの羽となりそれ以来姿を見せなくなった。ぼんやりと人の形をし、淡い白い光を放つ存在…リュウはそれをアヤカに見せてもらったことがある。
しかし、リュウのそばにいる女の子は、性別さえも明らかなほどに形がはっきりとしていた。アヤカは首をかしげながらその子の方をちらりと見た。
「もしかして、リュウの守護精霊なのかな」
「俺の守護精霊?」
リュウは3年前アヤカに蘇生されたことで、再生した体の一部が妖精化している事が先日のナオキの検査で判明している。
「体の一部が妖精になったから、俺にも守護精霊が付いたって事か…?」
ゆっくりと頷いたアヤカが視線を逸らし、それと同時にひやりとした風がリュウの頬を撫でた。
冷たい風は、アヤカの悲しみの感情に反応した水の精霊が起こす現象だ。
(アヤカが気にする事じゃないんだけどな)
リュウはシオンと対峙した時、自ら精霊に「契約」を申し出た。自分の体が変わることも、未知の力である「時の矢」も、リュウにとっては一切怖くなかった。
ただ一つ、怖い事。それは、アヤカを失う事…それだけだ。
「アヤカは、俺が怖い?」
ソフィーに初めて会った日、自身の体に初めて物理的な変化をもたらした「妖精化」のあの姿。ダイスケやナオキ、そしてアヤカが見たら…どんな反応をするだろうか。
あの時ガラスに映った自身の姿は、まるで…
(あれはまるで、非適合者みたいだった)
リュウはそれを、皆に言うことが出来なかった。代わりに、「新しい力が手に入った」とだけ伝えたのだ。それを伝えた時のナオキの心配そうな顔が今でも頭に焼き付いている。
「怖く、ないよ」
アヤカの返事にリュウは微かに微笑んだ。
「じゃあ、俺がどんな姿でも、傍にいてくれる?」
少しだけ沈黙が流れ、アヤカはリュウの瞳をじっと見つめた。
「私はずっと、ここにいるよ」
人間の瞳の奥の「心の色」妖精のアヤカにはそれが見える。
リュウの心の色がお気に入りの彼女は時折瞳を覗き込んでくるが、アヤカのライトブルーの瞳にじっと見つめられるのは、リュウは以前から少しだけ苦手だった。
「…あれ?」
何かに気が付いたように首をかしげるアヤカ。
「リュウ、何かあった?」
アヤカはいつもリュウの瞳を覗き込むと、うっとりとしながら瞳を輝かせるが、今日は少しだけ寂しそうだ。
(変化…そういえば)
昨晩、自分の中に渦巻いていた黒い感情。自身の書いたノートの数式がぼやけ、理解できなかった事。そして鏡越しに見た自分は、まるで自分ではないような感じがした事を思い返す。
しかし、これをアヤカに伝えるべきだろうか。一晩ぐっすり眠ったら、ノートの数式は自分が書いたものとはっきり認識できたし、あの時は体調が悪かっただけかもしれない。
「昨晩は、ちょっと疲れてたかな」
「…そっか。気のせいかな」
柔らかな風が吹き、アヤカの細い金髪をかきあげた。少しだけ冷たく感じるそれは、アヤカが不安を感じている事を伝えているようだった。
「リュウは、私の妖精姫の姿を見て…綺麗だって、言ってくれたよね」
妖精姫の姿のアヤカ――ブルーのドレスに身を包み、精霊たちの光に囲まれた姿。アヤカを助け出した時に一度だけ見せてくれたその姿は、夜の闇に美しく、幻想的に映っていた。アヤカはその姿を気にしているようだが、リュウは言葉通り、綺麗だと思った。
リュウが頷くと、アヤカは柔らかく微笑んだ。
「私も同じ。リュウがどんな姿でも、リュウはリュウだよ」
そう言ってアヤカはリュウの髪に触れ、優しく撫でた。
(アヤカ…君がいてくれれば、俺はいくらでも強くなれる)
アヤカの手から伝わる暖かさに目を閉じ、しばらくその心地よさに身を預けた。
でも、もしこの女の子が守護精霊でないとすれば、彼女は一体何者なのだろうか?あの時、自分の身体に何倍ものエネルギーが満ちていることを感じた。そしてその後体を襲った焼けるような感覚。
(正体はわからない…でも、必要な時にはこの力を使おう)
そう、心の中で決めた。
「ね、この子の事なんて呼んでるの?」
アヤカに言われ、一瞬返答に贈れたリュウは肩の女の子に視線を向けた。
「ああ、名前だね…」
「そう、名前!つけてあげたらどうかな」
リュウはうーんと唸りながら、女の子の方へ視線を向けた。リュウの髪に触れながら、先端を揺らして笑顔を浮かべる女の子…少しだけ小学校の頃のアヤカに似ている気がした。
「アヤカ、考えてくれないか?」
「私が考えていいの?」
リュウが頷くと、アヤカはしばらくリュウと女の子を交互に見つめ、考えた。
「うーん…リュウのパートナー、だもんね」
「パートナーかは、わからないけど」
思わず苦笑いをうかべるが、先日の妖精化の力はこの子が与えてくれたもの…そう、捉えて良いだろう。やがてアヤカが思いついたようにぱっと笑顔を浮かべた。
「ソフィ。どうかな」
ソフィは「知恵」を象徴する言葉だ。アヤカに伝えられた名前を聞いた女の子は、体を揺らしながら笑顔を浮かべた。
「気に入ったみたいだ。ありがとう、アヤカ」
ほっとしたアヤカはソフィに指を差し出した。
「よろしくね、ソフィ」
ソフィはおずおずと手を出し、少しだけアヤカの指に触れた後、リュウの後ろに隠れた。その様子が可愛らしく、2人は顔を合わせて微笑んだ。
*
昼下がりの大学。講義を終えたダイスケは、遅い昼食へと向かっていた。
扉を押し開けると、視界の端にカレンの姿が映る。彼女はその場で立ち止まり、軽く息をついていた。
「おーい、カレン」
ダイスケの声は、カレンの硬直した体を少し弛ませた。微かな緊張が彼女の顔に現れ、鋭い視線でダイスケを睨みつけた。
「あなた、本当に私の事敵と認識していないのね」
皮肉混じりの言葉を放つ。だが、ダイスケは手を振りながらいつもの笑顔を向けた。その様子を見たカレンは敵意よりも驚きと諦めが混じった表情で肩を落とす。
「何か御用かしら?」
彼女の声は少し重たかったが、ダイスケは気にせず話しかけた。
「弁当一緒に食わないか?」
軽く言い放つダイスケ。カレンは一瞬、何か言いかけたが、その言葉は宙を舞い、やがて首を垂れて頷いた。
「カレンも特待生なのか?」
「そうよ」
「俺たちみたいに任務じゃなくて?」
2人は並んで廊下を歩きながら、会話を交わす。ダイスケからの問いに、一瞬黙ったカレンだったが、すぐに口を開いた。
「半々といったところかしら。私はシオンにあなたたちの動向を探るよう頼まれてる…けど怪しまれないようそれなりの成績は収めないといけないわ。その点ではあなたたちと同じよ」
カレンがちらりとダイスケの方へ視線を向けた。しかし彼は相変わらず笑顔だった。
「本当にわからない人ね…これだけわかりやすく言ってるのに」
カレンはため息をつきながら、呆れたように呟いた。
「間もなく世界樹の扉が見つかる…シオンは手がかりを見つけたと言っていたわ」
そう言うと立ち止まり、ダイスケに自分の左腕を見せた。
「お前、その石…」
カレンの左腕には光る石。その見慣れた輝きにダイスケの表情が凍りつく。
「これは人工的に妖精の力を与える石。あなたたちが戦っていた地下の非適合者はこれに適合しなかった者…私は、選ばれたの」
言い返さないダイスケの様子に、少しだけカレンの口からため息を漏れた。
「イサム博士がこの研究をした理由は2つある…一つは超人的な力を持つ人間を作り出す事。もう一つは…」
そのまま厳しい視線をダイスケに向けた
「世界樹のある精霊界に行く人材を作り出す為」
「世界樹…?」
ダイスケはリュウとアヤカからその話を聞いたことがあった。
精霊界は世界樹という世界を見守る大きな木・世界樹が存在する空間で、その木から妖精が生まれ、やがて帰る。巨大なエネルギーで世界を支える存在だ。
「精霊界ってのは、妖精の力を持ってないと行けないのか?人間でも妖精の力を持ってたら行けるって事か?」
「ええ。人間でも妖精の力を持っていれば行ける…それは実証済みよ」
何に?そう聞こうとしたがカレンは更に言葉を続けた。
「リュウとアヤカは行くことが出来る…でも、ダイスケあなたは…」
ダイスケは自分の鼓動が早くなるのを感じた。
あまりにも突然に、そして避けられない現実が彼を突きつけられ激しく動揺した。リュウとアヤカは先に進むことが出来る…自分だけがここに留まらざるを得ない。それはまるで深い海の中で息をすることなく沈んでいく感覚のようだった。
表情が硬くなったダイスケを見て、カレンは少しだけ心が痛むのを感じた。
「さすがに、これは効いたみたいね」
小さくため息をつき、彼から視線を逸らした。
「ダイスケ…あなたは弱い」
カレンの言葉が冷たく響き、彼女はそのままダイスケの前を通り過ぎ去ろうとする。
ふと、カレンの足が止まった。
「カレン…お前」
カレンの前にはリュウとアヤカが立っていた。
「リュウ、この間はありがとう」
いつも通り表情を変えず話すカレンにリュウは厳しい視線を送った。
「ダイスケに何の用だ?」
2人の間にピリついた空気が流れる。
アヤカは焦っていた。
先日彼女に初めて会った時、確かに自分も警戒した。しかし、一緒にお弁当を食べている時のカレンはダイスケの言う通り、とても悪い人間には見えないと感じていた。
「少しお話してただけよ…」
カレンはそう言うと、ひとりで彼らの間を通り抜けて行った。
3人の姿が見えなくなったところでカレンは立ち止まり、少しため息を漏らした。
「自ら情報開示なんて…らしくないわね」
自分に対して棘のある言葉をつぶやいた。
敵であることを理解しながらもダイスケは常に陽気で、それが彼女にとっては眩しく感じられた。世界樹の事を告げた時の彼の顔を思い出すと、微かに首を垂れ、目を閉じた。
少しだけ、癒されていたのかもしれない。
そう、思いながら先日彼と過ごした時間を思い出した。何故なら彼女に陽気に近づいてくる人間は誰一人いない…もしくは死んでいった。
「弱い者は淘汰されるだけ…」
自身を鼓舞するように呟き、拳を強く握りしめた。
「私は…強い」
彼女は目を開き、前を見据えた。
一歩、また一歩と歩いていく彼女の背中は、孤独と強さを併せ持つ一人の戦士のようだった。




