あなたと話してると、調子が狂う
次の朝、太陽が窓から差し込む頃になっても、リュウの目はまだ開かなかった。
「どうしたんだろう、リュウ…」
「さすがに、おかしいですね…そろそろ講義が始まる時間です」
アヤカは震えた声でリュウの手を取り、ナオキが心配そうに時計に目をやった。ダイスケは目を覚さないリュウに少しだけいらだったようにため息を漏らした。
「アヤカ、今日は俺と講義出るぞ」
「でも、私芸術の講義だよ。ダイスケは…」
「俺はいいんだよ。アヤカは実技やらないと単位取れないんだから、そっちが優先だ」
扉が荒々しく閉まる音が響き、ナオキはリュウの様子をしばらく観察した。彼の細胞の一部を採取する為爪の一部を切り取ると、パソコンを叩き、以前のリュウの検査結果の画像を映し出した。
(リュウ君に、何か変化があったのか…?)
深く考え込むうちに、後ろに気配を感じ振り返る。
「おや、今日は何の御用でしょうか」
「倒れたのか…データを取らせてもらうぞ」
古ぼけたスーツと白髪交じりのダークブラウンの髪がナオキの前を横切り、無表情のまま部屋に入っていく。その無機質な瞳は、見覚えのある人物を模しているかのようだった。
「こんにちは、ミツルさん。その姿はイサム博士の真似でしょうか?」
ミツルと呼ばれた男は無言のまま丸眼鏡をかけなおすと、まるで起きる様子のないリュウを見て少し眉を顰めた。
ナオキは細胞生物学と心理学を研究する科学者だ。人間を観察し、その仕草から相手の本音を予測する事は彼の癖のようなものである。
しかしミツルだけは例外だった。毎回違う姿で現れる彼は、その仕草や口調まで完璧に模倣する。だからナオキは彼の「本当の顔」を理解することはできなかったのだ。
そして、毎回変わるその姿は、いつもナオキの過去の知り合い…もしくは、周りの人間の未来の姿を模倣しているようだった。
「あなたはどうしてそこまで僕について詳しいんでしょうね。その模倣する力は未来の科学を象徴しているかのようですが」
「……」
ミツルはナオキの皮肉に一切反応しなかった。
イサムの姿を模倣している時に語り掛けたのが失敗だったかと息をつき、やがてパソコンに向き直ったナオキは、キーボードを叩きながら、いつもの穏やかな口調で話しかけた。
「あなたには感謝していますよ。その情報のお蔭でこの大学に行きつくことが出来ました。ですが…僕が許容したのは3人のデータのみ。それは忘れないでくださいね」
ミツルは微かに頷くと、黙って再びリュウの体を調べ始めた。ベッドの上で無防備に眠り続けるリュウの安息を祈るように、その場の静寂は深まっていった。
*
ダイスケとアヤカが美術室に到着すると、講義室の前に見覚えのある人物が立っていた。
長い黒い髪に緑色の瞳。2人はその少女に見覚えがあった。
「お前…何しにきたんだ?」
アヤカを背に隠し、けん制するように睨みつける。対する目の前の少女は無表情のまま、まるで興味がないと言わんばかりにダイスケから視線を逸らした。
「覚えてくれていて、嬉しいわ。私はカレン…特待生同士、よろしくね」
淡々と語るカレン。嬉しいわと語りながら一切の興味を示さないその態度は、あからさまにダイスケを見下しているかのようだった。そんな彼女を無言で見つめ、やがてダイスケはアヤカの手を引き込美術室に入って行った。
「アヤカ、俺から離れるなよ」
「うん…」
講義が始まり、この日リュウの姿がないことについて数人の生徒がささやきを交わしている。それに対し適当な会話を交わしながら、ダイスケはカレンの動向を見守っていた。
「どういうつもりなんだ…」
このハーモニア大学に来てから数カ月。今まで姿を現す事がなかった彼女が突然接触してきた事に、ダイスケは違和感を感じていた。不審に思っていると、カレンがキャンパスを持って隣にやってくる。
「隣、いいかしら」
「どうぞ」
エスコートするように手を差し出すダイスケに、軽くありがとうと言い、カレンは腰かけた。
美術室の静かな時間。3人はただ、黙って絵画を描いていた。軽くピリつく緊張感の中、アヤカはハラハラしながら2人の方へ視線を向け、当の2人は言葉を交わす事もなく自身の絵画に集中している。
ふと、カレンはダイスケにしか聞こえない小さな声で囁いた。
「あなただけ、普通なのね」
ダイスケはほんの一瞬だけ反応が遅れたが、すぐに気を取り直し、いつもの笑顔で返した。
「何が?」
「リュウもアヤカも、人とは違う力がある。あなただけが、ふつうの人って事よ」
カレンは、先程からダイスケに対する一切の興味を示さない。そんな彼女がわざわざ自分にだけ嫌味を投げかけてくる事…「普通」の意味。ダイスケは少しだけ考えた。
リュウの強さを支えているのは地味な日々の努力の積み重ねだ。でも、それはリュウであり、自分は違う。
「普通の何がいけないんだ?俺は俺、リュウはリュウ、アヤカはアヤカだ」
そう、言いながら絵筆をカレンの方へ向けると、まっすぐとカレンの顔を見つめ言葉を続けた。
「君も君。そうだろ」
カレンの緑色の瞳が微かに揺らぎ、眼鏡をかけなおすように左手を上げると絵画の方へ目を移した。
「私は強い…淘汰される側ではない。でも、あなたは弱いわ」
カレンは再びダイスケの弱さを指摘した。それを聞いた時、言葉の背後にある本音が少しだけ見えた気がした。
(こいつ、俺を弱いって言いたいんじゃなくて、自分が強いって言いたいんだな)
「うーん、俺…君が戦ってるところ見た事ないけど…たぶん強いんだろうな!」
絵筆を動かしながら、軽く言い放つ。カレンの方にゆっくりと瞳を向けると、絵筆が一瞬ぴたりと止まったが、すぐに再開した。
「なあ、カレン」
「何かしら?」
互いにキャンパスへ目を向けたまま交わされる会話。淡々と作業を続けるカレンにダイスケは笑顔を向けた。
「強いのはいいけどさ、せっかく美人なんだしもう少し笑った方がかわいいぞ」
楽しげに言われ、再びカレンの手が止まった。
「………かわ、…いい…?」
驚き交じりの声が漏れる。
若干こめかみをひきつらせながら、カレンはダイスケの方を初めてまっすぐ見た。発言した本人が勝ち誇ったかのような笑みを浮かべると、少し悔しそうに彼を睨みつける。
「あなた、私が敵だという事を自覚しているのかしら?それともバカなのかしら」
「君ほど頭良くないから、バカかもしれないな」
即答で返され、カレンはそれから無言で絵画に集中し、ダイスケは少し安心した表情で絵筆をキャンパスに向けた。
講義が終了を告げるチャイムの音が鳴り響き、皆が一斉に片付けを始める。
「ダイスケ、何話してたの?」
アヤカが少し心配そうに話しかけてきた。対するダイスケは先程の彼女とのやり取りを思い返し、少しだけ考え込んでいた。
「うーん、あいつ思ったより悪い奴じゃないんじゃないか?」
2人の会話が聞こえていなかったアヤカは不思議そうにダイスケの顔を見た。
「なあ、カレン!」
ダイスケが声をかけると、カレンは頭を振ってダイスケの方を向いた。一息ついたあと、口を開く。
「何か用かしら?」
「弁当一緒に食おうぜ」
ダイスケの提案にカレンもアヤカも固まった。
「………は?」
カレンの眼鏡がずり落ち、一瞬の間の後に気を取り直すように眼鏡をかけなおした。腕を組み、見下すようにダイスケに忠告する。
「この大学のセキュリティを過剰に信じすぎよ。私はいつでもあなたからアヤカを奪うことができるの」
「よし、決まりだな。アヤカ屋上に行くぞ」
カレンの挑発はさらりとかわされ、ダイスケはアヤカとカレンの手を取り屋上へ歩いて行った。
「ちょっと、ダイスケ…」
屋上へ向かいながら、焦ったようなアヤカの言葉が階段に響く。彼女の事も無視して、ダイスケは2人を屋上へと連れてきた。
「理解できないわ!あなた…私は敵なのよ」
少し息を切らしたカレンにダイスケは笑顔を向けた。
「いいな、今の顔。さっきの顔よりずっといいぞ」
そう言ってダイスケは座るとお弁当を広げた。呆気にとられたカレンは、しばらく呆然とした後、少しだけ自分の顔に触れた。
「ほら、食おうぜ…アヤカ」
「う、うん」
アヤカはダイスケの隣に座り、お茶を注ぎ始めた。
「カレンちゃんも、どうぞ」
一杯のお茶を差し出され、カレンは言葉を失った。
「…カレン………ちゃん…?」
カレンは項垂れながら、深くため息をついた。そして諦めた様子でダイスケとアヤカの前に座る。
「何を企んでいるの?」
自分のお弁当を出し、広げながらカレンはダイスケに向かって疑念を込めた質問を投げかけた。
「さあな。でも君、悪い奴じゃないだろ」
彼は相変わらず笑顔だった。カレンは一瞬、その言葉に疑いの視線を向けたが、この男に理屈は通用しないと判断したのか、諦めたようにお弁当を食べ始めた。
「お前、野菜ばっかりだな。米食べないの?」
野菜が嫌いなダイスケは、カレンのお弁当を覗き込みながら顔をしかめた。
「腸内環境を整える為に野菜は必須よ。あなたこそお肉の食べすぎなんじゃないかしら?」
ダイスケのお弁当は生姜焼きや、玉子焼きなどがふんだんに詰め込まれ、野菜は少しだけと、見事に茶色一色で染まっていた。対するカレンのお弁当は、生野菜にサラダチキン、糖質はジャガイモやバナナと、PFCバランスの黄金比のような食材で固められている。
「今日の弁当は特別なんだよ。な、アヤカ」
「腕によりをかけたからね!」
昨日の約束通り、アヤカは今日のダイスケのお弁当に彼の好きなものをたっぷり詰め込んだ。ダイスケが喜んでいる様子を見て、彼女はほっとしたように微笑み、思いついたように自身のおにぎりを一つ手に取った。
「そうだ!カレンちゃん、おにぎり一個あげるね」
「…え?」
アヤカが満面の笑顔で差し出したおにぎりは、クマのデコレーションが施されているものだった。
「………かわいい」
ぽつりとそう呟いたカレンを見て、ダイスケとアヤカは微笑んだ。
「でもさ、その、なんでクマなんだ?」
「ダイスケ、ネコきらいなんでしょ?」
「いや、そうじゃなくてさ…」
そんな会話が交わされる中、カレンはふと、我に返ったように目を閉じた。
「り、理解できないわ。糖質過多はエネルギーの過剰摂取になるわ…非効率的よ」
そう言いながら再度、くまモチーフのおにぎりに目を移す。
「でも…これはいただくわ」
そう話すカレンの瞳は、少しだけ穏やかになったように感じて、ダイスケとアヤカも笑顔になった。
昼食を終え、講義に戻る3人。
カレンはお弁当箱を片付けると、2人より早く屋上を後にした
「おにぎり、ごちそうさま。…でも、次に会った時は敵だと思ってちょうだい」
「また一緒に弁当食おうな!」
この男は人の話を聞いているのだろうか…。言葉を制するようにそう言われて、カレンは再び肩を落とし、苦笑いをした。
「あなたと話してると、調子が狂うわね」
そう言ったカレンの顔は、少しだけ微笑を浮かべていた。
ダイスケとアヤカは、彼女の後ろ姿を見送りながら、彼女とまた会える日を待ち遠しく感じていた。




