カレーを作ろう
「組織の人間に見つかったんだ」
リュウのその言葉は夕暮れ時の部屋に、暗く沈んだ静寂をもたらした。
「リュウ君が以前所属していた闇の組織ですか?」
ナオキの問いかけにリュウは深く、ゆっくりと頷いた。
「恐らく芹沢さんは、野外合宿で僕を襲うように戦闘員に指示を送ると思う。わかるんだ、以前自分がいた組織だから」
その暗示的な言葉は緊迫した空気を更に濃厚にした。
「ダイスケ、頼みがあるんだ」
「なんだよ」
ダイスケの黒い瞳はリュウを静かに観察していた。かつてのリュウは、組織に所属していた頃の事を思い返すだけで震え上がることが多かった。しかし、今の彼の目には以前のような恐れや不安の影は見えず、その変化にダイスケは淡い驚きを感じていた。
「もしもの時は、アヤカを頼んでもいいかな」
ダイスケの目がしばらくリュウを見つめた後、わずかに舌打ちし、やがて小さく頷いた。
*
快晴の空。
青く澄んだ空の下で、プライベートスクールの生徒たちは楽しみにしていた野外学習の日を迎えていた。
スクールバスは彼らを山岳地帯へと運んでいく。
山岳の入り口からキャンプ場までの道のりは、豊かな自然と共に歩む学びの時間。生徒たちの目には、山の緑の中に点々と咲く花や山菜がキラキラと輝く。
先導する教師・辻本の後ろには、学級委員のサツキが続き、最後尾を副委員長の中本ショウがしっかりと固めていた。
「この花見て。すごくきれい!」
アヤカが指を伸ばして指さしたのは、小さくて紫色の花。
「ミヤコワスレっていう花だね」
山岳地帯で見かけた植物をリュウが記録する。これも大切な学習のひとつだった。彼女の前にはまだ咲いていないつぼみがひとつ。
アヤカが嬉しそうに頭を揺らしながらその花に愛しく思う気持ちを向けると、ひとつだけつぼみだったミヤコワスレが徐々に花を咲かせ始めた。
彼女の特異な体質。花に生命力を吹き込むこと。リュウはその光景を見ながら優しい微笑を浮かべるが、もしクラスメイトの目に触れば、それは奇妙な光景に映るだろう。
「アヤカ、人に見られるよ」
「あっ!ごめんなさい」
指摘をされ、はっとしたアヤカは「またやっちゃった」と呟きながら小さく笑う。
「みんなに置いてかれるよ、行こう」
リュウに手を取られ、森を歩く。その瞬間の彼女は幸せを感じさせる無邪気な笑顔が広がっていた。
山の清々しい空気にキャンプ場への足取りが一段と軽かった生徒たち。皆がテントの準備に取り掛かる中、料理担当であるリュウとアヤカは、ユミ、フウカと共に火起こしの作業に取り掛かった。
「羽瀬田君、お料理できるの?」
「うん、少しね」
ユミの皮肉めいた言葉にリュウは返事をそっけなくし、火起こしの準備に集中した。彼女はその様子に少し不服そうな視線を送ると、気を取り直したかのように調理場に立った。
普段はストレートなセミロングヘアの彼女が、今日は可愛らしいヘアゴムで二つ結びにしている。その様子を見ながらアヤカはほっこり微笑ましく思っていた。
(ユミちゃんも、フウカちゃんも、おしゃれしてきてるんだな)
アヤカ達の通うプライベートスクールでは、制服についても厳しく指導されている。
この野外合宿は私服を披露する絶好の機会でもあり、クラスのアイドルの中本ショウを中心に女子たちが自分のファッションセンスを競うような雰囲気もあった。
アヤカは自身のシンプルなコーディネートを眺めて考えた。彼女の選んだ服は機能的なショートパンツと淡いグリーンのシャツ。シンプルだけど好きな組み合わせ。しかし、周りの華やかな格好を目の当たりにすると、少しだけ心が揺れた。
(私も、かわいい髪型とかしてくればよかったな…)
キャンプに浮かれるあまり、全く考えていなかったことを少しだけ後悔する。いつも通りのストレートヘアの金髪を手で持ち、少しだけため息をついた。
「羽瀬田くん、包丁は危ないから私がやるわよ」
野菜を切ろうとしたリュウから包丁を取り上げ、フウカがたまねぎのみじんぎりを始めた。まな板にいびつな形の玉ねぎが広がって行く様子を見ながら、リュウがボウルを差し出すとフウカは「ありがとう」とちょっと得意そうに笑った。
アヤカはそっとリュウに耳打ちした。
「リュウの方がもっと上手なのに。」
「中本君に手料理を作ってあげたくて、一生懸命なんだよ」
軽く笑いながらリュウがそう言うと、アヤカはユミとフウカの方を見た。ショウを取り巻くユミとフウカの少し不器用だが、一生懸命な姿ににアヤカは微笑む。
(私もリュウに料理してもらって嬉しかったな…好きな人のために作るお料理、きっと特別な気持ちだよね)
2人を見ながら心がじんわり温かくなっていくようだった。そしてリュウの方をちらりと見た後、彼女は自分の心臓に手を当てた。
「リュウ!私もやってみたい!」
「え」
リュウは驚いた顔でアヤカを見つめた。
包丁を手に取り、まな板の前に立つアヤカ。リュウは焦ったように、彼女の背後に立つ。
(えーっと、これが包丁で)
アヤカは包丁の刃の向きを確認すると、キラリと光る刃を見つめ、次にまな板の上の玉ねぎに目を向けた。
(手を切らないように、ゆっくりと…)
まな板の端をしっかりと固定し、切断線を確認しながらゆっくりと切り始める。そのぎこちない動きにリュウは心配そうに見守っていた。
「ちょっと待った!」
一生懸命なアヤカに申し訳ないと心の中で思いながら、アヤカの手を取り、やさしく包丁を下げた。
「アヤカは僕とご飯の準備をしよう…」
アヤカは驚いたようにリュウを見上げ、大きな息切れをしながら自身の手を持つリュウと目の前の野菜を交互に見つめた。
彼女が自身の包丁扱いが未熟だと気づいたのは、それからしばらく後のことだった。
「どうして急に包丁なんて…ケガをしたら大変だろ?」
「ごめんなさい」
落ち込んだように謝罪するアヤカに、リュウはやや申し訳なさそうに、しかし温かい微笑みを浮かべた
「誰か料理作ってあげたい人でもいた?」
「えっ!!」
アヤカが赤くなる。その様子を見て少しだけ考えながら、リュウはお米の袋をアヤカに差し出した。
「じゃあ、美味しいご飯を一緒に炊こうか。きっと喜んでくれると思うよ」
アヤカは深くため息をついたが、目の中にはほんのりとした喜びが灯っていた。
(本当に言いたいのは、リュウのことが好きってこと…)
そんな思いを抱えつつも、彼と一緒の時間を楽しむ彼女の表情は、幸せそうな笑顔が浮かんでいた。
リュウとアヤカ、そしてユミとフウカは力を合わせて15人分の食事を作った。
出来上がったカレーの蓋を開けた瞬間、立ち込める良い香りにアヤカははしゃぎ、いつもはアヤカに近づかないユミとフウカも気付けば共に喜びを共有していた。その姿を見てリュウは一筋の安堵と微笑を浮かべる。
しかし彼女たちのはしゃぐ姿を目の前で喜びつつ、リュウはちらりと調理場へ目をやった。目に映るのは皮を厚く剥かれたじゃがいも、ちらばったみじんぎりの玉ねぎ、焦げたお肉などなど。
(3人とも、料理が出来ないとは思わなかったな)
疲れの痕を感じながらも、喜ぶ3人を見て心の中でやれやれと呟く。やがてユミとフウカは我先にと言わんばかりにカレーを皿に盛り付け、ショウのもとへ向かっていった。
(後片付けは、する気がなさそうだな)
心の中でそんな突っ込みを入れながら、苦笑したリュウはごみ袋を手に調理場へと歩いていく。
「結局リュウに全部作ってもらっちゃったね」
アヤカがごみ袋片手にリュウのそばで掃除を始めた。
「アヤカは、誰かにカレー持っていかなくていいの?」
アヤカは少しだけ頬を赤く染めたが、黙って片づけを手伝う彼女にリュウは微笑んだ。
出来上がったカレーライスは、クラスメイトに振舞われた。案の定女子2人はショウの所に集まり、ショウは彼女たちに変わらぬ温かい笑顔を向け、ユミとフウカも満足そうに微笑んでいたのだった。




