芹沢ユウジという男
追加エピソードです。これ以降は修正と追加を本日1時間置き位に全部で6本アップします。
「澤谷さんは、反対するだろうな」
リュウの手には学校から受け取った、野外合宿の参加の同意を求めるプリントが握られていた。今回のイベントは山でのキャンプであり、プライベートスクールの生徒たちが自然とクラスメイトとの共同作業を学ぶことを目的としている。
しかしアヤカの身を案じる澤谷に良い返事をもらえるかどうか。アヤカがクラスメイトとのイベントを心から楽しみにしていることを知っているリュウは、気が重く感じながら澤谷の仕事部屋のドアを叩いた。
「入りなさい」
澤谷の柔らかみを持つ声とともに招き入れる声が聞こえた。そっとドアを開けると、そこには澤谷をはじめ3人の男が座っていた。
「…………」
部屋に入った瞬間、リュウの表情が凍り付いた。一瞬体が動かなくなり、心臓が高鳴る音だけが頭の中に響いていた。
「リュウ君、どうした。入りなさい」
澤谷に言われ部屋に足を踏み入れる。
「リュウ、シオンさんは以前紹介したね。もう一人紹介しよう。私の仕事仲間の芹沢ユウジさんだ」
目の前に立つ男、芹沢ユウジ。心が動転し、不安が高まるのを感じつつ、それでも体を動かし頭を下げた。
「羽瀬田リュウです。よろしくお願いします」
彼はどう反応するだろう。その質問と不安がリュウの心を圧迫していた。
「澤谷さんからあなたのお話は聞いておりますよ。実際にお目にかかれて、嬉しく思います」
芹沢ユウジは澤谷と同じ壮年の、やせ型で長細い顔をしており、きれいにセットされた灰色の髪に緑色の瞳。威厳を感じさせる重厚な口調。
その細身な体からは想像できない威圧感を放つ男だった。
「失礼。どこかで会った気がしましたが、気のせいでしょう」
丁寧な口調でそう言うと、リュウの頭に優しく手を置いた。
「いずれ、私のボディガードもお願いしますよ、少年」
ユウジはそう言うと部屋を後にした。
「それでは、芹沢さんに指示されたとおりに手配しますね」
シオンの黒いコートがリュウの横を通り過ぎた。
その時リュウは彼の周囲に小さな光を目にする。それはかつてアヤカが喜びを感じた時と同じような輝きに感じられたが、その光は深く、漆黒とも言える色で彼を暗く照らしているように見えた。
(精霊…?)
そう思い振り返り、再びシオンの後姿を見るがその光は確認できなかった。
(見間違いか…?)
「すまないね、リュウ。何か用件があったのだろう」
澤谷の声に我に返り彼の方へ向き直った。
「すみません。学校からの連絡事項です」
リュウは若干の不安を感じつつ、学校から受け取ったプリントを澤谷に渡した。
「野外合宿、か」
少し考え込んだ澤谷は、料理当番の項目にリュウとアヤカの名前があることに気付く。
「料理当番か、君にぴったりだね」
小さく笑われ、リュウは僅かに顔を赤くした。
「料理当番であれば、僕がアヤカさんの身の回りと食事の管理が出来ます。ですから…」
「アヤカが君の料理が食べたいとでも言ったのだろう?」
澤谷の言う事は図星だった。焦りが滲み出たリュウの様子に笑顔を浮かべながら、澤谷は書類に印鑑を押した。
「構わないよ、君に任せよう」
そう言いながら書類をリュウに渡すが、彼は念を押すように言う。
「しかし、アヤカは最近体調が悪い。もし何かがあったら、すぐ連絡するように。いいね」
以前、アヤカは突然の発熱と体調不良で倒れた。当時の彼女を思い浮かべながら、リュウは深く頷いた。
リュウが出て行ったあと、澤谷は窓越しに日が落ちる空を見た。葉巻を手に取り火をつけると、それを吸い、ゆっくりと吐くと、煙と共に一瞬浮かんだ自身の邪魔な思考を頭からかき消していく。
「アヤカ、もうすぐ。もうすぐだ……」
澤谷はぼんやりと夕陽を眺めた。窓ガラスに映る彼の表情は、少し奇妙な笑顔を浮かべていた。
「君が組織から逃げたことは把握しておりましたが、こんなところで顔を合わせるとは…不思議なものでございます」
澤谷の仕事部屋を出てすぐ重々しい声が響き、リュウは足を止めた。
腰の後ろに手を添え、まるで紳士のように立っている芹沢ユウジは片手に持った杖で広い廊下の床を叩きながら面白いものを見つけたような不敵な笑みを浮かべている。
(やっぱり、気付かれていた…)
彼の緑色に輝く瞳がリュウをじっと観察し、緊迫した空気が漂う中、リュウは内心でそう呟く。冷たい汗が彼の額から滴り、静かに地面へと落ちた。しばらく重たい沈黙が続いた後、やがてユウジがそれを破った。
「影縫いの現在のトップは私です。つまり君への対応は私の一存で決める事ができる…理解できますね?」
ユウジはリュウの前へと歩み寄り、その横顔をじっくりと観察する。そして少し腰を落とすと低く、深い声で、彼の耳元で囁くように言った。
「逃げた者がどうなるか、把握してますね?」
息も出来ない程の緊張。その言葉に表情を変えずに前を見つめるリュウの様子を見て口元だけ笑みを浮かべると、屋敷の外へと歩みを進める。
「君の後任は娘のカレンが務めております。君よりずっと有能だ。大切な仕事仲間である澤谷さんに免じて、今日は特別に見逃しましょう」
その言葉は強い緊張感と恐怖を植え付け、芹沢ユウジが去った後もしばらくリュウはそこから動く事が出来なかった。
「リュウ!」
声に心を引き寄せられるようにリュウが振り返ると、その先にはアヤカの明るい笑顔が広がっていた。
「野外合宿にこの服着ていこうと思うの。どうかな?」
嬉しそうに語る彼女の左腕には先日プレゼントしたブレスレットが小さく光を放っており、それを見て少しだけ心が和んだリュウは笑顔を浮かべる。
「すごく似合うよ」
アヤカはその言葉に嬉しそうに体を弾ませた後、思い出したようにリュウの近づく。
「お父さん、なんて言ってた?」
「大丈夫。澤谷さんも行ってきなさいって」
アヤカはそれを聞きほっとしたように笑顔を浮かべる。しかしその後何かに気が付いたようにリュウの顔をじっと見つめた。
(急にどうしたんだろう)
アヤカの天真爛漫な笑顔とは裏腹に、その瞳はまるで心の奥底を覗き込まれているような、不思議な感覚に陥る。リュウは彼女のそのライトブルーの瞳にじっと見つめられるのは、少しだけ苦手だった。
「リュウ、何かあったの?」
アヤカの言葉にリュウは心の内で慌てる。
「何か、って…?」
明らかに動揺した様子でそう言うリュウの様子にアヤカは首を傾げた。そしてリュウの胸に手を当てて、「う----ん」と唸りながら、再びリュウの瞳をじっと見た。
急に自身の体に触れられたリュウは、その視線から逃げるように彼女から視線をずらした。
(どうしたら、いいんだ?)
動けないままじっとしているリュウを見ながら、アヤカは彼の心の動きを見ていた。
(リュウの綺麗な心の奥に隠れたものが、少しだけ震えてる感じがする)
「う----ん」
アヤカはしばらく考え込むように、目を閉じた。
(精霊たちは、近づくと喜んでくれるけど…学校のクラスメイトのみんなはそれぞれ違ってて、近づくと離れる子もいれば、喜ぶ子もいる。人の心って、不思議)
そして、目の前のリュウの瞳を再び見つめる。
(リュウは、一番不思議。こんなに綺麗な色なのに、どうして奥底にあるものが見えないんだろう)
「アヤカ、そろそろ」
リュウの焦りを含んだ言葉にアヤカは我に返るように顔を上げた。そしてしばらく考え込んだ後、ぱっと笑顔を浮かべる。
「リュウ、精霊たちの声を聞きに行こう」
「え?」
彼女は一体何を考えていたんだろう。そう思いながらリュウは彼女に手を引かれ一緒に中庭へと歩いて行った。
夕闇が迫る頃、木々が揺れる中庭。豊かな芝が広がり、花に囲まれたその場所。アヤカは嬉しそうに自身の体を軽く躍らせながら、その中心に歩いていく。
(アヤカに初めて会った場所だ)
中庭で白いワンピースを着た彼女が風を起こし、花を咲かせていたあの日を懐かしく感じる。
アヤカが静かに目を閉じ、手を合わせると、プライベートスクールの制服が風になびき、細い金髪がふわりと風に舞った。鼓動のような音が響き、中庭の木々が揺れ出し、喜びの声をあげるように音を奏でていく。
(あの時の風だ。でも…今日の風は少し冷たいな)
自身の黒髪を揺らす風を感じながらそんなことを考えていると、アヤカが目を閉じたまま語り掛ける。
「気持ちいいね!」
その言葉に頷くと、アヤカはほんのりと瞼を持ち上げ、リュウを細く見つめた。
「リュウの周りにいる精霊たちの、心配そうな声、聞こえる?」
アヤカは妖精。でも、父親が人間。浮世離れともとれる彼女の振る舞いは、人間と妖精の間にいる彼女に独特の感受性をもたらしていると、リュウは感じていた。
(アヤカだけに見える「精霊」という存在がそうさせているんだろうな)
そう思いながら、今吹いている風に静かに注意を向けた。
「今日の風はちょっと冷たいけど、これの事かな?」
その言葉にアヤカは頷いた。
「精霊って、僕には見えないけど…どんな姿をしてるんだ?」
リュウの言葉にアヤカは気持ちよさそうに風に髪をなびかせながら語りだす。
「普段は小さな光の姿をしていて、時々心を現してくれるの。火や、水や、風は精霊たちが喜んだり、泣いたり、笑ったりすると動く、心の声みたいなものなんだ」
彼女はリュウの方へと歩み寄り、左肩を指し示した。
「ここにもいるよ」
彼女の指を向けられ自身の肩を見つめたが、そこにはなにもなかった。
「どうして僕の肩に?」
「リュウの事が気に入ってるみたい」
リュウはその言葉に少しだけ心が温まる。それと同時にアヤカの吹かせた心地の良い風が少しだけあたたかくなった気がした。
「あ!リュウが少し元気になったって、みんな喜んでる」
彼女は微笑み、空を指さす。
リュウは彼女の指先を追ったが、そこには何もない。きっと彼女の指先には自分には見えない精霊という存在がいるんだろうと思いながら、その細い指の先を見つめた。
(君はこうやって精霊と心で語り合ってるんだね)
リュウは最近やっと理解した。彼女は精霊と同じように、リュウとも、クラスメイトとも、寄り添い心を通わせようとしていた。
それは彼女にとっては、ごく当たり前の挨拶のようなものだったと今なら思うが、初めてそれをされた時リュウは戸惑った。
でも、今は
(すごく、心地が良い。これが妖精や精霊なんだな)
まるで心の奥が光で照らされていくように、彼女に笑顔を向ける。
「そっか。じゃあ、ありがとうって伝えてくれるかな」
「もう、伝わってるよ」
彼女の周りに集まり心の声に反応し、風や光を放つ精霊という存在。アヤカのふわりとした笑顔と同じように、それは不思議と心地の良さを感じさせるものだった。
(精霊か。そういえば…)
リュウはふと、昔の事を思い出した。
(ユメも妖精や天使の絵本が大好きだったな)
リュウにとって、一番大切であり、今でも心の奥底に刻まれている妹のユメ。薄い色素の髪にほんのりピンクがかかった、愛らしい髪色を思い出しながら、少しだけ心が穏やかになった感覚がした。
帰り道。
都会の喧騒を眺めながら、リュウは久しぶりにゆっくりと以前身を置いていた闇の組織「影縫い」の事を思い出した。リュウが在籍していた当時は幹部の一人だった男、芹沢ユウジは今の影縫いのトップが自分だと言っていた。
(芹沢さんに見つかった…もしかしたら、組織の暗殺者が襲撃してくるかもしれない)
2年前の事を思い出した。
ユメがいなくなり、目的も生きる意味も失くし、無我夢中で組織から逃げたあの日。当時は彼らに見つかった時の事を考えるだけで恐怖で体中が震えあがっていた。
しかし、今のリュウにその恐怖はない。
(その時は…)
都会の空を眺めながら、誓いを立てるように呟く。
「アヤカ、君だけは何があっても必ず守る」
芹沢ユウジの補足
細身で長身。常に背筋を伸ばしており、紳士的な雰囲気。長細い顔をしており、細目で瞳は緑、髪は綺麗に整えられた灰色。
黒いスーツを着用しており、片方の手は常に腰の後ろ手に回している。
丁寧な口調だが、威厳を感じさせる重厚感を持つ、壮年の男性。




