第15話 形を失った男
「……知ってますか? アルハズラッド氏」
「アルハズラッド……」
蚊の鳴くような声が言った。
僕が辛抱強く次の反応を待っていると、その肉塊は不思議なことに、ぼこぼこと奇妙に蠢きながら、次々と色や形状を変化させていった。それはウニのようにいくつもの針を持った球体だったり、頂点同士がくっついた立方体の集合だったり、大きな甲虫だったり、ヒキガエルだったり、仔猫だったりした。
その様子は、まるで忘れかけていた自分の形を、かつて持っていた自分の形を思い出そうとしているかのようだった。
やがてひときわ長い時間をかけて、肉塊は人間の形を成した。それは青白い肌を持つ、面長の痩せた男だった。若いようにも見えたし、年老いているようにも見えた。超然としているようでもあったし、茫然としているようでもあった。
「随分と長い間、その名で呼ばれることはなかった……。君は……人間か? それとも、猫か……」
男性は言った。彼は一糸まとわぬ姿で、力なく座り込んでいる。
「もしかして、あなたがアルハズラッド氏ですか」
アルハズラッド氏は正気を失ってしまった、とネメオス所長は言った。しかしまさか、人間の姿まで失っているとは思わなかった。
「ああ? お前か、あのワケ分かんねえ幻覚を見せたのは」
喧嘩腰で詰め寄ろうとする夏音さんを抑え、僕はアルハズラッド氏との会話を試みる。
「あの、僕たちは別にここを踏み荒らそうとか、あなたを傷つけようとかいう意図はまったくないんです。確かに銃は持ってますけど、これはあくまで自衛のためで……。ええと、なんの目的で来たかっていうと、あなたのお知恵を借りたいんです。バステト秘典のことで」
こちらの言葉を聞いているのかいないのか、アルハズラッド氏は床の一点を見つめたまま、ほとんど身動きしない。
夏音さんが鼻を鳴らす。コミュニケーションが成立するかどうか、疑わしく思っている様子だった。それでも諦めるにはまだ早いと、僕は言葉を重ねた。
「僕の母はミルカという名前で、以前このあたりでバステト女神の祭司をしていたんんです。その娘、つまり僕の妹が、最近になってフェリス秘密教団に攫われてしまいました。フェリス秘密教団は、同時にバステト秘典も入手したと聞いています。僕は教団がなんのために妹を攫ったのか知りたい。バステト秘典の内容とか、祭司の血縁であることが、なにか関係あるんじゃないかと思ってます。それが分かれば、教団相手でもやりようがあるかもしれない。なんとか妹を助けたいんです。知ってることを教えてください。お願いします」
アルハズラッド氏はしばらくなにも言わなかった。僕は彼が正気を失っているゆえにほとんど話を理解しておらず、またこちらの要望に応える気もないのではないかと考えはじめた。せっかく大変な思いをしてまで彼を見つけたのに、まったくの徒労だったとは……。
しかし長い沈黙のあと、濡れたスポンジから、吸いきれなかった水の一滴が落ちるかのように、アルハズラッド氏はぽつりと言葉を発した。
「ミルカという名前には、覚えがある……」
「僕と攫われた妹の母親です」
アルハズラッド氏は顔をあげ、僕の目を見据えて小さく頷いた。
「……話そう。話せると思う。……バステト秘典が見いだされ、ミルカの娘が攫われた。……そういうことだったかな?」
はじめに比べると、やや思考が明瞭になってきたようだ。その話しぶりはまだ少し不確かだったが、瞳には理性の光が宿りつつあった。
「君は、フェリス秘密教団と言ったな。……ああ、ミルカがここにいた時代にも、似たようなカルト組織があった。シャビスカ……そう、シャビスカという名の猫が、ミルカを攫ったのだったか。かの猫もまた、バステト女神の、祭司の血を継いでいた……」
「母が攫われたのは、ネメオス所長と親しかったからだと聞きました」
「ネメオス……ううむ……それも真実ではあっただろう。しかしシャビスカの狙いは……おそらく別にあった。私はかつて、まだ若かった彼女と話し……その野望の片鱗を知る機会があった……」
「野望?」
僕は話が核心に迫るのを感じた。
「人と猫、ミルカとシャビスカ……かつて分かたれたものが再び一つとなり、バステト女神そのものになること……。不完全な自らの存在を、完全な存在へと昇華させること……。
シャビスカは〈夢幻世界〉の猫を母に持ち……〈覚醒世界〉の猫を父に持つ。それゆえ半端者として蔑まれ……それゆえ強い権力を渇望した。自ら神にならんと欲するほどの……」
「自分自身がバステト女神になる? 言ってることは分かりますが……、そんなことができるっていうのを、そのシャビスカは本気で信じてたんですか?」
アルハズラッド氏は否定も肯定もしなかったが、態度からして、彼がシャビスカの野望をただのたわ言だと考えていないのは明らかだった。
「そんな、じゃあ姫花はやっぱり生贄じゃないですか」
「生贄ではない……バステト女神は生贄を求めない」
「細かい所はどうだっていいんだ」
僕が思わず語気を強めたので、アルハズラッド氏の表情に怯えが浮かんだ。
「……すいません。興奮しすぎました」
乗り出しかけた身を引き、彼が落ち着くのを待つ。
「ネメオスも……彼もまた、ミルカが攫われたときは必死だった……。私は既にこの有様だったから、なんら助けにはなれなかったが……。ともあれ、シャビスカの企ては、一度失敗した。しかし、バステト秘典を手に入れたならば……」
成功してしまうかもしれない、とアルハズラッド氏は言った。
「そのシャビスカってのは、教団のいまのトップだ」
夏音さんが口を挟んだ。
「つまり省吾の妹さんを助けるためには、やっぱ教団と殴りあわなきゃいけないってことか」
「なにかいい方法は――」
僕は期待を込めてアルハズラッド氏を見つめたが、彼は消耗したように項垂れたまま、再び虚無的な状態に戻ってしまった。人間の形すら徐々に失われ、もとの原形質へと還りつつある。
「奇跡を起こす魔法の呪文もなし。敵がビックリするような奇抜なアイデアもなし。まあ、逆に言えば腹が決まってよかったんじゃねえの。頼れるのは腰にぶら下げた銃だけってことが分かってさ」
実際、夏音さんの言う通りだった。教団と敵対せずに姫花を取り戻す方法はなく、暴力に頼らず解決できる見込みも極めて薄い。三十年来の野望を成就させんとする邪悪な猫、シャビスカ。彼女との激しい争いは避けられないだろう。
さきほどまでガレージの屋根を叩いていた豪雨は、いつのまにか止んでいた。
「そろそろ行くか、省吾。帰ってまた所長と相談だ」
これ以上留まっても、有意義な話は聞けそうにない。僕はピンク色の震える肉塊と化してしまったアルハズラッド氏に礼を言い、別れを告げる。
あんなに濡れていた服は、いつのまにか乾いていた。
夏音さんと一緒にガレージから出る。外から見てみれば、それは小さな売店の廃墟だった。敷地の内外を隔てる柵からは二十メートルも離れていない。
霧はすっかり晴れていた。雲間から差す陽光が心地いい。
「本当に全部幻覚だったんですかね?」
「知らん。そういえば、ジジイ殴り損ねたな」
「結局、夏音さんはなに見たんですか」
「言いたくねえっつったろ」




