江戸、終わります!
葉月の腕の中で、どれほどの時間が経っただろう。もう何時間もこうしているような気もするし、ほんの瞬きの間のような気もする。ただ、夜明けが近いのだろう。暗かった部屋がいつの間にか薄明るくなってきていた。
冷え込む時間に葉月と二人、火も起こさぬ部屋でじっとしているというのに、寒さは少しも感じない。むしろ暑いくらいだけれど、嫌な気持ちではない。
「…………はぁ〜」
不意に、葉月が息を吐く。
つめていた息とともに腕も抜いて、ずるずるとしゃがみ込んだ。土間に膝をついた葉月は、吉花の頬に手を添え、下から見上げる形で吉花と額を合わせる。
「さっきの黒い影はね、妖怪だったんだ。人をそそのかしたり心を傷つけて駄目にさせる、下級の天狗なんだって」
近すぎる距離に視線をさまよわせていた吉花は、葉月の言葉で頬の熱が冷めた。
黒い影。あの影のことを知られていた。影に言われたように暗い、鬱々とした気持ちを抱えていることを長屋のみんなに知られてしまった。明るくて元気な付き合いやすい女ではないと、葉月に気づかれてしまった……!
色を無くした吉花に、葉月は静かに続ける。
「妖怪は、どれも人の気持ちが積もり重なって生まれるものという説があるんだよ。のっぺらぼうやぬりかべは、暗がりにこんなものがいたら怖いな、という思いからできているんだって」
そっと額を離した葉月は頬に添えたままの手を動かして、呆然とする吉花と目を合わせる。
「あの影は吉花さんの暗い後ろ向きな気持ちが積もって集まって、形を成したんだよ。きっとひとりの部屋で、たくさん悩んでいたんだね。なのに、どうして……」
どうして、のあとに続くだろう非難の言葉を想像した吉花は、葉月の険しい顔を見ていられなかった。けれど頬に添えられた手がうつむかせてはくれなくて、吉花は固く目を閉じる。
「どうして、相談してくれなかったの」
「……え?」
思っていたのと違う言葉に、吉花は驚いて目を開けてしまった。その拍子に、葉月の手からもするりと抜け出る。
そうして見えたのは、眉間にしわを寄せて不機嫌そうな葉月の顔。けれど、よく見ればどこか拗ねたような顔にも見える。
「あの、怒ってないのですか……?」
おそるおそる聞くと、葉月の顔は見る間にふてくされてしまう。への字にした口をとがらせて、視線はどこか明後日の方向を向いている。いつになく子どもっぽいしぐさに目を丸くする吉花に構わず、葉月はしゃべり出す。
「怒ってるよ。そりゃもう、怒ってますとも」
じっとりとした目で吉花をねめつけてから、葉月は続ける。
「しばらく前から様子が変だなーと思ってはいたけれど、なにかあったならきっと相談してくれるはずだと信じて待っていたんだよ? なのに、何も言ってくれないし。悩みごとでもあるのかなあ、と思って食事に誘っても明るく楽しい話題ばかりで、愚痴のひとつもこぼしてくれないし」
そう言う葉月は、膝を抱えて恨みがましい顔で吉花を見ている。
「待ってるあいだに吉花さんはどんどん弱っていくし。なのに、心配しようとすると何でもないだなんて言って話してくれないし。俺が元気づけようと思っていたのに、みんなに気づかれて助けられてしまうしさあ」
不満を垂れ流している葉月だが、その内容は吉花の思っていたものと違っていた。
「ええと、愚痴を吐いても、嫌だと思わないのですか?」
「言ってもらえないほうが嫌だよ」
「弱音ばっかりだと、鬱陶しいと感じませんか?」
「弱いところを見せてくれたほうが嬉しいよ」
問いかけに間をおかず返してくれる葉月に、吉花は勇気を出して質問する。
「あの、駄目なところばかりでも、嫌いにならないで、いてくれますか……?」
どうにか口にした問いに、答えはすぐに返らない。
祈るような気持ちで待つ吉花に、葉月はますます顔をしかめてから口を開く。
「俺ははじめから、器用じゃないけど一生懸命な吉花さんが好きなんです。愚痴のひとつやふたつこぼしたところで、嫌いになる要素なんてありません」
むすっとした顔で言われた言葉を理解した途端、吉花の目から涙がぼろりと落ちた。
ぎょっとした葉月の顔を見ながらも、もう吉花は気持ちを抑えられなかった。
「ほ、ほんとは、ずっと相談したかったんです。不気味な声が聞こえて怖かったし、不安だったんです。でも、でも相談したら、私が暗い考えでいっぱいの嫌なやつだって思われるかも、葉月さんに嫌われるかもと思って、言えなくて……」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、吉花は胸のうちを垂れ流す。言葉をまとめる余裕などなく、思うままに口にする。
「だけど葉月さんやみなさんに勇気付けられて、この町を出て、自分に自信をつけてこようって決めました!」
「えっ?」
驚きの声を上げる葉月に、吉花は涙をぬぐって笑顔を見せる。
「あの、私いつの間にか、この町が大好きになってたんです。この町と観光客の方の橋渡しができるようになりたいと思っていて。私の言葉で町の素敵なところを伝えるために、英会話を習いに行こうと思っているんです!」
町の外にある葉月の家の近くで英会話教室を探せば、今より会える時間が増えるかもしれない。そう続けようとした吉花の言葉は、葉月の声にさえぎられる。
「そんな。もっと吉花さんといっしょに過ごせるよう、この町で働くために異動願いを出したのに。もうすぐ引き継ぎが終わるのに……」
ショックを受けて固まった葉月は少し沈黙したあと、にっこり笑って立ち上がると、吉花の手を引いて引き戸に手をかけた。
「番所の森さんに、良い英語の先生を紹介してもらおう。あの人、市の職員だから顔がきくだろうし。なんなら、市民向けの英会話教室を開いてくれるようにお願いしてもいいね」
「え、あの! そんな、そこまでしなくても……!」
やけに乗り気な葉月を引き止めようとした吉花は、振り向いた葉月の寂しげな顔を目にして言葉に詰まる。
「吉花さんのいない町なんて、俺が嫌なんです」
きっぱりと言われてしまって、吉花は反論の余地を失った。
そうして良い笑顔の葉月が動いた結果、吉花は昼は小料理屋の給仕、夕は教会でシスターの補助のアルバイトをしながら、実地で英語を学ぶことになる。
そこでもまた、妖怪が出たりさまざまな問題が起きたりするのだが、それはまた別のお話。
私こと春名吉花は、これからも江戸で、がんばります!




