私だって、戦います
眉をぎゅぎゅぎゅと吊り上げた吉花は、大きく息を吸い込んで腹に力を込めた。
「なんで……なんで、そんなひどいことばっかり言うんですかっ!」
突然の大声に、影の黒い羽がぶわりと膨れる。驚いているのだろうか。表情は伺えないが、こぼれる悪態はぴたりと止まった。
対する吉花は、力を入れすぎて涙のにじむ目で影をじっとりと睨みつけて続ける。
「私が大したことない人間なのはわかってます! 得意なことだってないし、要領だって良くないです。仕事ではよくミスしてしまうし、それですぐ落ち込むのがうっとうしいのもわかってます……」
出だしの勢いはどこへやら。みるみるしおれていく吉花の様子に、影がぞわりと身震いをした。吉花の心を弱らせる言葉を吐こうと言うのだろうか。かぱり、黒いくちばしを開いたとき。
半べそをかいた吉花が垂れていた頭をがばっと上げた。
「でもっ! できないなりに頑張ってるつもりなんです。得意なことはないけど、はじめてのことでも挑戦してみています。役立たずかもしれないけれど、足手まといにはならないように頑張っているつもりです!」
いつになく力の込もった吉花に、影は開いたくちばしを挟む隙を失ったらしい。さらに、輪郭がぼわぼわと煤けてきているのだけれど、興奮した吉花は気づかない。
「なのに疲れて家に帰れば、役に立たないだとかうじうじ悩んで暗いやつだとか、嫌なことばっかり言われて。そんなのは自分でわかってるから、わざわざ言ってくれなくていいんです! 落ち込むのも復活するのも勝手にするから、ほっといてくださいっ」
吉花が喋るたびに、影は端から色を無くしていく。強い口調で言葉をぶつけるたびに、影の形はじわじわと崩れていく。
「悩んでばかりいてもしょうがないって、わかってるんです。上手くできなくても、とにかく動いてみるってきめたんです。やってみたいことだって見つけたんです。だから、もう私に構わないでください!」
ぶつけるように言いきったときには影はほとんど色を失って、ぼんやりとしか見えなくなっていた。
吉花がそのことに気がついたとき、戸口の方から突然がらんっと大きな音が響く。
見れば、戸を抑えていたつっかえ棒が土間に転がっている。その側には、いつの間にそこに居たのだろう。顔を手ぬぐいで隠した誰かが……。
「吉花さんっ!」
誰かの顔を確かめる間もなく、ぐわらっと勢いよく開いた戸から飛び込んできたのは、葉月だ。
「吉花さん、大丈、夫……?」
いつになく真剣な表情をみるみる消していく葉月の視線をたどれば、部屋のすみにわずかに残る影にたどり着いた。かすかに残る黒いもやを視界に捉えたかと思うと、影はゆらりとゆらめいて煙のように消えてしまった。
「……」
影の消えた夜明け前の吉花の部屋に、沈黙が落ちる。しかし、すぐにドタバタと騒がしい足音がいくつも聞こえてきた。
「吉花! だいじょぶ!?」
「助太刀するぜぃー!」
「こういう場合は、まず暗視ゴーグルで相手の姿を確認してからですね……」
口々に言いながら葉月の後ろに顔をのぞかせたのは、辰姫、赤塚と水内という同じ長屋に住む面々だった。辰姫と赤塚は見慣れた着物姿だが、水内は頭に双眼鏡のようなものをくっつけている。
まだ夜も明けないというのに元気に現れた人びとに、吉花は驚き目をぱちぱちさせる。
すると、わいわい騒ぐ三人をかき分けて、墨染めの僧衣をまとったヨルが姿を見せた。
「これこれ、突然来てそう騒いでも困るというもの。見れば、妖は失せた様子。ならばこの場は葉月に任せて、我らは妖が近隣に潜んでおらんか、調べるとしよう」
影の居たあたりに目をやったヨルがそう言うと、辰姫たちは了解、行くぜぃ、いよいよこのゴーグルの出番ですね、とそれぞれ口にして去っていく。続いて、戸口にひっそり立っているのっぺらぼうが、土間に転がる棒をそっと壁に立てかけてから吉花の部屋の敷居をまたぐ。
戸を押さえていたつっかえ棒を外したのは、この控えめな妖怪なのだろう。のっぺらぼうは、ぺこりと頭を下げてから、がやがやと去っていくヨルたちの後を追って出て行った。
「……あー。今さらだけど、お邪魔してもいいかな?」
急に静かになった部屋で、葉月が遠慮がちに声を上げる。部屋に飛び込んできてからずっと、入り口に立たせっぱなしだと気がついた吉花は慌てて脇によけ、膝をついて葉月を迎え入れる。
「あ、はい。どうぞ上がって……」
ください、と言おうとした吉花は、最後まで言えずに動きを止めた。
「無事で、良かった……」
葉月の声が耳の後ろで聞こえる。体は吉花の前にあるのに。前というか、目の前というか、腕が吉花の頭を抱えていて葉月の胸板に鼻がぶつかっているというか……。
「……っ??!?」
抱きしめられている。
そのことに気がついた途端、吉花は燃えた。燃えたかと思うほど、体が熱くなった。一瞬のうちに体は灼熱、頭は燃えかすになってしまう。
何も考えられないでいるうちに、葉月は吉花の姿を確かめるように背中を優しくなでる。そしてもう一度、良かった、とつぶやいて吉花の体をきつく抱きしめた。




