嬉しいサプライズ、です
葉月と夕食を共にした翌日。
仕事を終えて帰った吉花の部屋に、日暮れとともに影が現れる。
「おまえなんていらない。おまえのかわりなんていくらでも、いくらでも」
小料理屋の仕事でミスをした今日は、それがいつにも増してこたえる。
影の言う通りだ。働きはじめて半年ほどが経つというのに未だにミスをするなんて、自分は本当に役に立たない。他の子を雇ったほうがお店のためになるんじゃないか。
ひとりの部屋でそんなことを考えて、吉花は暗い気持ちになってしまう。
「だれもおまえがひつようじゃない。だれもおまえをまっていない。いない、いらない、いーらない」
影の言葉で、落ち込む気持ちが増して行く。沈んだ気持ちが黒い塊になって、胸の底に積もっていくようだ。
重みを増して行く胸が苦しくて冷え切った両手を押し当てれば、ぎしぎしと軋むような錯覚におちいる。
自然と下がる頭が、もう外に出るのをやめようか、と訴える。
このまま体を丸めて部屋にこもっていようか。そうすれば辛いことは起こらない。そのほうがみんなに迷惑をかけない。わたしがいなくても、だれもこまりはしないから……。
「吉花、あーそーぼっ」
自分の殻に閉じこもりかけていた吉花の部屋に、突然がらりと戸を開けて入ってきた者がいる。辰姫だ。
あまりに唐突な登場に驚いたけれど、明るい声に名前を呼ばれて、吉花はしゃんと背筋を伸ばすことができた。
「お辰さん、いらっしゃい」
着物の裾を払いながらこっそりと確認すれば、部屋の隅に澱む影は掻き消えている。外套のフードを目深にかぶった辰姫の顔は見えないけれど、部屋の隅を気にする様子もないから、きっと気づかれていないだろう。
そう結論づけて、吉花は辰姫を明るく迎え入れる。
「でも、突然どうしたんですか。しばらく学校の試験で忙しいのではなかったですか?」
「終わった! でも夜にひとりで遊ぶのはダメ。吉花と遊ぶのはいい!」
どうやら、試験期間が終わったので遊びに来たらしい。けれど、辰姫はまだ学生なので夜遊びはできないからと、吉花のところに来たようだ。
「そうですか。今日は葉月さんもお仕事ですし、赤塚さんもいないのでお外は行けませんけど、それでも良ければ……」
水内は眼鏡を広めるべくいつでもふらふらしているし、ヨルはいつでも神出鬼没だ。この町にいるかすら、わからない。
だからと言って、陽の落ちたこの時間帯に辰姫とふたりで出かけるわけにもいかない。
吉花ひとりで夜歩きしたり、女の子だけで暗くなってうろつかないこと! と葉月に約束させられているのだ。どうしても夜中に出歩く用事があるときに葉月が付き添えない場合は、大家の田谷さんに付き添ってくれるよう、葉月がお願いをしに行ってくれた。田谷さんによろしく言う葉月の半歩うしろにいた吉花は、にまにま笑う田谷さんの視線がむずがゆくて仕方なかった。
そのときのことを思い出して赤くなる頬をそっと手を添えて隠している吉花に、辰姫がにっと笑ってうなずく。
「吉花がいればじゅーぶん!」
「それは嬉しいですけど、私にばかり構わず学校のお友だちと遊んだりするのも、楽しいと思いますよ?」
なついてくれる辰姫の様子は嬉しいけれど、自分に構っているせいで辰姫の交友関係に支障があるかもしれない。もしかして、このところ自分の元気がないと葉月から聞いて、無理をして会いに来てくれているのではないだろうか。自分のせいで、辰姫に負担をかけているのでは……?
ぱちんっ。
再び考えに沈みかけた吉花の顔の前で、辰姫の手が小気味よい音を響かせた。
目の前で打ち合わされた手を見つめて、吉花はぱちぱちと何度か瞬く。
「学校の友だちは学校で遊ぶ。吉花はここじゃなきゃ遊べない。だから、ここで遊ぶ!」
呆気にとられる吉花の前で、辰姫はふんっと荒い鼻息で言い切る。おかげで吉花の思考は沈む先を見失い、辰姫の言葉を素直に受け入れた。
そして、心にわだかまる言葉をぽろりと落とす。
「……お辰さんは、私と遊んで楽しいですか?」
「楽しい! 吉花、好き。吉花、いないと寂しい……」
思わずこぼれた吉花の問いに、辰姫は一も二もなく答えを返す。迷いなどかけらもない。
それどころか、吉花のいない状況を想像して寂しげにしょんぼりと肩を落としている。その様は演技などではなく、本当に寂しげだ。
そんな辰姫を見て、吉花の胸はほんわりと暖かくなる。胸の底に溜まった重たい気持ちが、ほんの少し軽くなる。
「私も……私も、辰姫さんがいてくれて嬉しいです」
吉花は辰姫の手をそっと握る。嬉しい気持ちが、吉花の背中を後押ししてくれる。
いまなら、いつも言えずにいた思いを伝えられそうで、吉花は胸に浮かぶままに言葉をつむぐ。
「いつも遊んでくれて、とても嬉しく思っています。この長屋はいい方ばかりだけれどみなさん男性なので、辰姫さんが来てくれるとなんだかほっとするんです」
必死に思いを伝える吉花の手を、辰姫がぎゅっと握る。そこから勇気をもらって、吉花は続ける。
「だから、何もできない私ですが……辰姫さんのお友だちでいても、いいですか……?」
ためらいながらも吉花が言い切ると同時に、その震える体に辰姫が飛びついた。
驚く吉花をぎゅうぎゅうと強く抱きしめて、辰姫はうんうん頷く。
「吉花と友だち。ずーっと、友だち!」
きつく抱きしめられているから顔を見ることをできないけれど、いつになく弾んだ辰姫の声から喜びの気持ちが伝わってくる。
抱きしめられたままの吉花は、胸に湧き上がってくる嬉しい気持ちを込めて、辰姫を抱きしめ返すのだった。




