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江戸、はじめました  作者: exa(疋田あたる)


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毎日、楽しいです

 吉花は毎日が楽しかった。

 恋人、友人、仕事とどれをとっても恵まれていて、笑顔の絶えない日々を過ごしている。

 付き合い始めたばかりの葉月は忙しい合間をぬって、吉花との時間を作ってくれる。これまで行ったことのない店に連れて行ってもらったり、珍しい店を教えてもらったりするのは楽しいし、葉月と二人ならば何もない小道をただ歩くだけでも幸せだった。

 葉月が仕事でいないときには細川の家で料理を習ったり、辰姫と町をぶらぶらする。細川に習った料理を葉月に作って感心されたり、辰姫と歩いていると赤塚やヨルが声をかけてきて、退屈する暇もない。水内と長屋で顔を合わせれば、色んな妖怪に似合う眼鏡について話したりして良好な関係を保てていると思う。

 小料理屋にも新しいアルバイトが増え、目が回るようだった日々も落ち着いた。新しく入ったのは、覚えがよく人柄も良い女の子なので、吉花の負担はぐんと減った。厨房にも手伝いが入り、店主の気持ちと体力にも余裕ができて以前のようなまったりしたお店の雰囲気が戻ったと、常連客にも歓迎されている。

 私生活も仕事も充実しており、妖怪騒ぎもない。毎日が楽しいはずなのに、吉花はひとりになった瞬間にこぼれるため息を止められない。


「……はあ……」


 今もまた、ため息がもれる。

 西日の射しこむ部屋の中。手には葉月にもらったばかりの新しい髪飾り。小ぶりな菊の花をモチーフにした飾りは、控えめながらも愛らしく、気軽に使いやすい。

 髪飾りに不満はない。吉花の名にちなんで吉祥花を選んでくれる葉月の気持ちも嬉しいし、季節を選ばない飾りを用意してくれる心配りはまだまだ和装に慣れない吉花には有り難い。

 葉月とのお出かけも楽しかった。そろそろ冬の用意しないと、と一緒に県から貸し出される火鉢を受けとりに行ったり、着物の下に着る防寒用の肌着を扱う店を見に行った。それから秋の味覚が食べごろだと、焼きさんまや栗ご飯、ふかし芋を楽しんで帰ってきて、別れ際に可愛い髪飾りをもらったのだ。嬉しくて、


「はあ……」


 けれど、ひとりになって葉月のことを思い出せば、吉花はついついため息をつく。

 贈り物をもらうたびに、食事をおごってもらうたびに葉月が正社員として働いていることを意識してしまうのだ。

 吉花だって働いている。けれどそれはアルバイトとしてで、正社員の葉月とは収入には大きな差がある。江戸の町人への手当があるからアルバイト代だけで人並みの生活をできているけれど、葉月のようにたびたび装飾品を買うほどの余裕はない。

 宵越しの金は持たねえ! と言い切る赤塚ほどの思い切りは持てないし、かと言ってこの町を出て新しい仕事を探す決心もつかない。

 葉月に相談すれば気を遣わせるだろうし、まだ学生の辰姫に言っても悩ませるだけだろう。似たようなことで悩んでいた細川ならば少しは相談しやすいけれど、稲荷と幸せそうにしている細川に愚痴のような話をして困らせたくはない。話せば一緒になって考えてくれるだろう人は他にもたくさんいるけれど、優しい人たちをつまらない悩みに突き合わせるのは気が引けた。

 そうしてうじうじ悩んでいると、吉花はこの町に来た経緯までさかのぼって自己嫌悪してしまう。なりゆきで働き始めた小料理屋の仕事もずいぶん手際がよくなったと思っていたのに、先日入ったばかりのアルバイトの子が数日で仕事に慣れてしまうのを見て、小さな自尊心はたちまちしぼんでしまった。結局、就職活動がうまくいかないからとこの町に逃げ込んだときからたいして成長していない自分に、吉花はがっかりする。

 こうしてひとりで思い悩んでいるところも、この町に来たばかりの頃から成長していない。そんなことに気がついて、またため息をこぼすのだ。


「……はあ、私ってなにができるんだろう。なんの役に立つのかな」


 自分自身が情けなくてついこぼした独り言。

 夕日に染まる部屋にむなしく消えるはずだったつぶやきに、誰かが言葉を返す。


「なにも、なんにもできない。なんの、なんのやくにもたたない」


「えっ?」


 不意に聞こえた小さな声に驚いて、吉花はあたりを見回すけれど、長屋の自室には誰もいない。

 小ぶりなかまどの中や隠し戸の向こうのトイレをのぞいても人はおらず、狭い部屋に隠れる場所など他にない。

 外の声が入ってきたのだろうか、と戸口から顔を出してあたりを伺うけれど人影は見当たらない。

 空耳だろうか。それとも、考え込みすぎていよいよ幻聴が聞こえたか。

 首をかしげていると、夕焼け空に鐘が鳴る。


「あ、もう行かなきゃ」


 今夜はいっしょに湯屋に行こうと、辰姫と約束をしているのだ。そのための準備をしようと思っていたのに、ぼんやりとしているうちに時間が経っていたらしい。

 慌てて身じたくを整えると、吉花は待ち合わせ場所に急ごうと土間に足を降ろす。葉月と選んだ肩掛けに頬を寄せて引き戸を閉めるころには、妙な声のことなどすっかり忘れてしまっていた。

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