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江戸、はじめました  作者: exa(疋田あたる)


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悩んで、ぐるぐるします

(ど、どうしよう……!!)


 つい閉めてしまった戸の内側で、吉花は戸に張り付いて固まっていた。

 どうしてこんなことをしたのか、自分でもわからない。今すぐ出て行って、乱暴な態度を赤塚に謝ろうか。そして、葉月にも挨拶すべきだろうか。いやしかし、どんな顔をして出ていけばいい。笑顔で葉月と話せるだろうか。悩む吉花の頭に、先日の光景が思い出される。

 やっぱり無理だ。せっかく忙しくして考えないようにしていたのに、忘れられていない。平気な顔をして会うことなんて、できそうにない。

 吉花が戸に張り付いたままぐるぐる考えているうちに、赤塚が葉月に気が付いたのだろう。明るく声をかけているのが戸越しに聞こえた。それに返す葉月の声は、小さく不明瞭で聞き取れない。

 疲れているのだろうか。やっぱり、本当に仕事が忙しいのかもしれない。心配になる吉花だったが、戸を開けて葉月の顔を見る決心はつかない。

 そうこうしているうちに、二人の声が遠ざかっていく。よく響く赤塚の声もすぐに聞こえなくなったから、二人は部屋に帰っていったのだろう。夜の長屋がしんと静まる。

 吉花はもやもやした気持ちを抱えたまましばらくその場に立っていたが、ちりん、と風鈴の鳴る音に我に返ると、のろのろと寝る支度をはじめるのだった。



 翌朝、吉花の目覚めはすっきりしなかった。布団に入ってもなかなか眠れず、もんもんとしていたからだ。

 体はしっかり疲れていた。小料理屋で朝から働き、少しの休憩をはさんで夕方からは妖怪話の聞き込みの手伝いを連日続けていたのだ。布団に入った途端に頭がぼんやりするくらいには、疲れていた。

 けれども、ぼやけた頭に葉月の顔がちらついて眠れない。うとうとしたかと思うと、葉月の顔を見て逃げるように戸を閉めてしまった自分の行動が思い出されて、また目が覚める。

 そんなことを繰り返しているうちに闇色の空が群青に染まってきて、吉花は寝ることを諦めて布団を片付けたのだった。


「……ひえまきに水あげよう」


 布団を片付けて着替えた吉花は、手持無沙汰になる。洗濯をするにもあたりはまだ薄暗く、水音が他の住人の眠りを邪魔するかもしれない。かといって朝食にするにも早すぎるので、ひょろひょろとした芽が生えている小さな鉢植えを手に立ち上がる。

 水売りから買って貯めている水がめが空になっていたから、ひえにあげる分だけほんの少しの水を外の井戸で汲もうと思ったのだ。

 からら、とできるだけ音を立てないようにして戸を開けて、吉花は井戸に向かう。

 静かだ。ものの影が濃い青色に見えるほどに陽はまだ遠く、ほとんどの人が眠っているのだろう。いつもであれば聞こえてくる人の暮らす音や気配は感じられない。闇の中ならば恐ろしく思うだろう静寂も涼やかな朝の空気のためだろうか、心地よい。


(あー、なんだか体の中のもやもやが溶けてく気がする……)


 汲み上げた井戸の水の冷たさと澄んだ空気によって、吉花の寝不足気味な体と頭の重さがいくらか晴れていく。それが気持ち良くて、吉花は湿らせたひえまきの鉢を手に乗せたまま、井戸の横でぼんやりとする。

 森が妖怪に会ったのもこれぐらいの時間だろうか、などと考えながら薄まっていく藍色を見ていると、不意に長屋の方で物音がして、吉花ははっと振り返る。

 ひとつの部屋の戸が開いて、ふらりと人影が出てくるのが見えた。

 葉月だ。

 片手で額を押さえて、ややふらつきながら敷居をまたいでいる。俯き加減で歩いているから、吉花に気づいていないようだ。

 吉花はどうしていいかわからずに、井戸の横でしゃがんだまま固まっていた。そうしているうちに、二人の距離はみるみる縮む。

 あと一歩で手が届く、というところで、ようやくしゃがむ人に気がついたらしい。葉月が足を止め、のろのろと顔を上げる。

 驚いた顔。少し顔色が悪いだろうか。久しぶりに見た葉月の顔を吉花はじっと見つめる。いろいろ聞きたいことがあったような気がしたが、それらの言葉はどこかに沈んでいるようで出てこない。代わりに吉花の口から出たのは、素直な心配の言葉だった。


「お元気……じゃなさそうですね、あんまり。お仕事、忙しいんですか?」


 気遣わしげな吉花に、葉月は歯切れが悪く答える。


「いや、仕事はだいぶ片付いてきたんだけど、ちょっとね。その、昨日は飲みすぎてしまって……」


 その言葉に、吉花の胸を占めていた心配の気持ちは霧散した。

 葉月と知らない女性のことであんなに悩んで、葉月のことを心配してこれほど胸を痛めていたというのに。当の本人は、仕事ではなくお酒の飲み過ぎで具合を悪くしているだなんて。

 吉花はなんだか悔しくなって、ひえまきの鉢を胸に抱えて勢いよく立ち上がる。


「あのっ」


 なにか言いかけた葉月は見ずに、吉花はさっさと歩きだす。


「お酒はほどほどにして、しっかりお仕事してくださいね! それじゃ、お大事に!」


 そのまま振り向きもせずに部屋に戻り、ぴしゃりと戸を閉めるのだった。

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