91・フェリクスとフローラ
そのころ第二王子フェリクスは、倒れたフローラが運び込まれた部屋の前で一人佇んでいた。
自分は一体何をやっているのだろう。廊下に立っていたって彼女の姿は見えない。だからと言ってドアを開ける勇気もない。そもそも彼女に会ってどうするというのか。
兄ディートハルトは果敢に暴動の中へ飛び込んで行ったが、フェリクスは従者が止めるのに従い、離れた場所で騒動を傍観していた。
フローラが声を限りに姉を守ろうとしたときも。
アンネリーゼが身を挺して妹を庇ったときも。
何もせず、黙って見ていた。「行かれてはなりません」と言われたから。
(もし兄上が悪行をなし魔性に堕ちて、アンネリーゼのように民衆に罵られたら)
自分はフローラのように、暴徒の前へ出て兄を守ろうとするだろうか。
大好きですと全身全霊で叫べるだろうか。
大好きと叫んで大嫌いと返されて、それでも大好きと言えるだろうか。
他者に憎まれ石打たれてまで、大好きと言えるだろうか。
フローラのアンネリーゼへの愛情にフェリクスは心を貫かれてしまった。
尊いと思った。
(フローラ。傷を負ったアンネリーゼが蹴られながらもそなたを守ったというのに、私は周囲に諾々と従いただ見ているだけで……)
フェリクスは踵を返してドアの前から去った。
フローラの顔を見る資格など、自分にはない――。
「よおフェリクス。こんなところで何やってんだ」
廊下の角を曲がろうとしたらディートハルトと鉢合わせした。兄王子は聖女ミアと一緒だった。
「いえ……。通りかかっただけです」
「フローラお姉様の様子を見にいくところなんですけど、フェリクス殿下も姉にお声掛けしていただけませんかっ?」
妙にキラキラした目で聖女ミアが身を乗り出してくる。
「私ごときがフローラ殿にかける言葉など何も……」
「『私ごとき』だなんて! フェリクス殿下はハルツェンバイン全未婚女性の憧れの的ですよ! ……あ、わたし以外の」
ディートハルトが睨んだためか、ミアが身をすくめる。
二人の仲睦まじい様子に、フェリクスはくすりと笑った。婚約者のむごい仕打ちに兄が傷つかずに済んだのは、聖女ミアのおかげだ。近ごろ皆が口々に言うように、聖女ミアは兄の妻となるべきだろう。
ならば、自分の妻は……。
「ご一緒します」
フローラの顔を見る資格など、自分にはないと思ったばかりなのに。
彼女に会う誘惑に、どうしても勝てなかった。
病室のフローラはまだ眠っていた。
聖堂で見たときより細面になっていたが、笑顔の彼女とは違うこの世ならざる美しさを纏っていた。
フェリクスは静かに眠るフローラから目が離せなくなった。
美しいと思った。ただひたすら美しいと。
「もう、フローラったら。みんなの憧れフェリクス殿下が来てくれたのに、寝てるんだもの。もったいない。ああもったいない」
「こらミア、つつくな。あんな酷い出来事があったんだぞ。無理に起こしたらかわいそうだろ。大抵の女性は心も体も君よりか弱いんだ」
「おでこの怪我、はやくきれいに治してもらえるといいなあ……。アンネリーゼお姉様が復帰したら一発なんですけどね。アンネリーゼお姉様、思ったよりはやく復帰できそう……フローラのために」
「……そうだな。驚いたけど、フローラ嬢のためなら、反省できそうだな」
「反省してはやく人に戻ってもらわないと、わたし力を返す許可がでないんだから」
「反省すれば戻るもんでもないらしいけどな」
「じゃあ、どうすれば戻るの?」
「平穏無事な生活を送ってれば、時間の問題らしいけど。一年後か十年後か、それは精霊の思し召しだ」
「そんなあ。初代ディータス国王はすぐ戻ったのに~」
「あれは神話だから。聖人がちょちょっとなんかすれば戻るんだよ」
「聖人なんて神話の世界にしかいないじゃない」
「封印・解除の聖女だって神話の世界にしかいないと思ってたけど」
「じゃあ聖人探しましょう。聖人」
「いやもう神話はいいって……」
二人の親しげな話し声を耳に心地よく聞きながら、フェリクスはフローラの寝顔に見入っていた。
彼女に心を奪われて、いつの間にか二人が会話をやめていたのも気付かなかった。
「フェリクス、どうしたんだ……?」
ディートハルトがおずおずと話しかけてくる。
「美しいなと思いまして……。彼女は、とても美しいですね」
「そうでしょうそうでしょう! フローラお姉様の美しさはそれこそ精霊も真っ青の……えっあっ、なに? ディー、腕引っ張らないでよ~」
なぜか兄が聖女ミアの手を引っ張って、一緒に部屋の外へ出て行ってしまった。
*****
ディートハルトに腕を引っ張られるまま、ミアはフローラが眠る部屋の外に出た。
「もう。なんなの、ディー」
「フェリクスがフローラ嬢を見て美しいって言った!」
「なんかおかしいのそれ。百人中百人がフローラ見たらそう言うと思うけど」
「フェリクスは違うんだ。あいつはちょっと特殊で、人間の個体に対して美醜の感覚がないんだ」
「なにそれ。ご自身が美し過ぎるから麻痺してるとか? ……あり得るかも」
「とにかく! 特定の誰かを美しいって言ったのがはじめてなんだ。これはもしかしたらもしかするかも」
「なんと」
フェリクス殿下に、本格的な春の到来――!
ミアは頬がにや~っと緩むのを止めることができなかった。
「よっしゃーーーー待ってました! そうこなくっちゃあ!」
その後、恋に落ちたフェリクスが婚約を巡ってはじめての「反抗」をし、やっと長男との対立が和らいできた王様の眉間のしわは、新たな苦難に伸びる暇がなくなってしまった。




