86・姉の聖女の力を封印してしまった
「なあ、ミア~、元気出せよ」
羽交い絞めにされた状態で、ユリアンがミアを見上げる。
「元気いっぱいに殿下をつかまえておりますけど?」
今日も元気に第三王子の侍女業務だ。座学の嫌いなユリアンが逃亡するのをつかまえる簡単なお仕事。
「つかまえる力が弱いし、おれに追い付くのも時間がかかったぞ」
「そうですか?」
「おれはお見通しだぞ。なんで元気ないんだ。つんけんした聖女は魔女になってあにうえの婚約者じゃなくなったじゃないか。まさか、あにうえのことが嫌いになったとか?」
「や。それはないです。大丈夫です」
「そうか」
ユリアンは安心したようながっかりしたような、歳のわりに複雑な顔をした。
「恋敵がいなくなったんだから、もっとよろこべ」
「そんな単純じゃないですよ。殿下じゃないんですから」
「おれのどこが単純だ。ミア、おまえなんにもわかってないぞ」
「はいはい」
ほんとにおまえはー!とぎゃーすかわめくユリアンを教師の待つ学習室に放り込んで扉を閉める。廊下の壁に寄りかかるようにして、ミアは窓の外を見た。窓の外は初冬の寒々とした庭が広がっていて、鳥の鳴く声しか聞こえなかった。
王宮は息苦しいが、ここにいると外の喧騒が届かなくてとても静かだ。
静かだからこそ、あれからカレンベルク家の家族がどんなに大変だったか考えてしまい、胸が苦しくなる。
(家族――)
カレンベルク家に五年暮らして、父もドロテアもフローラもアウレールも、みんなすっかり家族になった。
ただ一人、アンネリーゼを除いて。
アンネリーゼは食事も家族ととらなかったし、侍女を次々と変え使用人とも親しまず、屋敷では誰ともろくに話さなかったのではないだろうか。ミアだってヘッダに毒を盛られて以来アンネリーゼが怖くて怖くて、避けまくっていたし。
やさしいフローラはそんな状況に、日々心を痛めていたのだろう。
(ごめんねフローラ)
何もする気になれず、とぼとぼ廊下を歩いていると、女官長がミアを見つけていそいそと近づいてきた。
「聖女ミア。少々、お越しいただきたいところが」
「はい。どちらでしょう?」
「地下でございます。まずは、王妃殿下の執務室へ」
地下へ下りる階段は下からしんしんと冷気が立ち上ってくる。
まばらな燭台の乏しい明かりと、閉ざされた黴臭い空気。自分の足音が耳につく。
「足元に気をつけろ」
王妃が振り返ってミアを気づかってくれる。ミアが騎士服ではなくドレスだからだろう。
「大僧正が先に行っている。アンネリーゼは落ち着いているが、少々驚くことがあるかもしれん」
「目が赤いことですか」
「それもあるが」
本来アンネリーゼの瞳の色は、冬の湖面のような冷たい青だ。宴の日、広間で自分の手首を切って皆の前で癒して見せた直後、それが赤に変わってしまったという。
赤い瞳は――魔性の徴だ。魔物は皆、目が赤い。
「アンネリーゼお姉様は……どうして魔性に」
「力が強大だとまれに呑まれることがあるそうだ。過去にも数例ある。兆候は以前からあったようだ。聖女の力を用いたアンネリーゼの横暴を聖堂に訴えた者がいて、大僧正が非公式に精察したらしい。危険な域まで聖水が濁ったため、大僧正が彼女についてまわっていたのだが、それを快く思わない貴族がいてな。あれだ。アンネリーゼに手伝わせてディートハルトを殺そうとした奴ら」
ラングヤール侯爵とバルチュ伯爵だろう。
彼ら宮廷の重鎮は、疑われつつも決定的な証拠は掴ませず、今ものらりくらりと罪をかわし続けているという。
「狸どもがアンネリーゼの行動から悪行がばれると恐れたのか、聖堂の見張りを制限してきてな。アンネリーゼは危険な状態で半ば野放しになった。聖堂が大貴族に屈せざるを得ないのは、力の強い聖女が大貴族の縁者ばかりだからだ。第三位の聖女はラングヤール侯爵の長男の嫁だしな」
「聖女バルバラですね。聖女ブリギッタのお母様……。聖堂も貴族社会なのですね」
「そうだ。ある意味、アンネリーゼは硬直した階級社会の犠牲者かもしれぬ。アンネリーゼが己の力の強さに拘るのは、聖女の力すなわち権威となるからであろう」
長い階段は終わり、ほの暗い石の廊下に続く。
どこからともなく罵倒する声が聞こえる。喧嘩でもしているのかとミアは思ったが、声は一人の男のものだ。
何を言っているのかと耳をすます。
耳障りな反響の中、「聖女は売女だ」「魂が腐ってる」「私を食い物にしやがって」などとわめいているのが聞こえた。
「あれはヴァッサーだ。アンネリーゼの刺客が来てから毎日あんなだ」
ミアは北領の悪徳商人ヤン・アルホフが、ヴァッサー伯爵のことを「君には想像もつかないようなえらい人」と言っていたのを思い出した。
想像もつかないようなえらい人の末路がこれだ。
「ヴァッサー伯爵はどうなりますか」
「魔物を用いて人間を傷つけるのは重罪だ。貴族籍は剥奪となろう。北領は差し当たり王領となる」
長い石廊を先へ進む。ヴァッサーの声が遠ざかる。
空いた牢をいくつも通り過ぎた廊下の最奥、行き止まりとなったところに、ほのかな明かりに浮かび上がる大僧正の姿があった。
「お待ちしておりました。聖女ミア」
「大僧正様、アンネリーゼお姉様は……」
「こちらに」
大僧正が牢の中を視線で指し示した。
ランプの明かりが届くか届かないかのところに、しわになったドレスの裾が見える。元は艶やかであったはずの絹地はくたびれ、装飾のリボンとレースがだらしなく垂れさがっていた。舞踏会用のドレスであるということは、アンネリーゼは宴の晩から着替えをしていないのだ。
異臭がする中、牢へ近寄る。
魔物の気配がうごめいている。
遠くから響くヴァッサーの悲痛な罵声と、カリカリと小さく何かを引っ掻く音。
(何の音?)
大僧正がランプを近づけ、ミアは目を凝らして鉄格子の向こうを見た。
長い髪を乱れるにまかせた姉が、長く伸びた爪で腕を引っ掻いている。袖はしみだらけのズタズタの布切れになり果て、爪が皮膚を直接傷つけていた。ミアはアンネリーゼが爪を染めているのかと思ったが、ドレスに合わない血のような色はおそらく魔障による変色だろう。
アンネリーゼがミアの気配を察して顔をあげた。
その顔を見て、ミアは危うく声をあげそうになった。
整った顔をいくつもの擦傷が走り、滲み出る血が肌を赤く染めていた。
アンネリーゼは焦点の合わない赤い瞳でミアを見て、ふと何かに気付いたように右手で顔を覆った。
そして次の瞬間にはもう、傷はすべて消えていた。
「痒いの」
鈴を転がすような声でアンネリーゼが言う。
「とても痒いのよ」
アンネリーゼが再び顔を伏せ、腕を掻く。傷を癒したばかりの顔も掻く。
血が滲み、ぼろ布になった袖をまだらに染める。
「大僧正様。お姉様は一体……」
ミアはやっとのことで声を出した。声の震えは止められなかった。
「力を使うこと自体が快楽となっているのです。ご自身を傷つけては癒し、傷つけては癒し、ここ数日ずっとこの状態です。今はまだ、掻き傷をつける程度ですが……」
もっと大きな自傷をする可能性があると、大僧正は暗に語っていた。
「今のアンネリーゼ様は、力を使えば使うほど魔に取り込まれます。戻れなくなる前に止めて差し上げなくてはなりません。聖女ミアをお呼びしたのはほかでもない――」
大僧正はそこで、続く言葉を引き渡すように王妃を見た。
「聖女ミア」
まっすぐミアを見て、王妃が言うべきことを引き継ぐ。
「アンネリーゼの聖女の力を封印しろ」
忘れもしない十歳のあの日。
アンネリーゼはミアに、「フローラが聖女になったら、力を封じなさい」と命じたのだった。
そのアンネリーゼの聖女の力を封じる。
姉が自身の拠り所としていた癒しの力を。
「かしこまりました」
ミアは王妃に丁寧に一礼し、アンネリーゼに向き直った。
美しく尊厳に満ちていた二番目の姉が、行き場のない浮浪児のように体を掻きむしっている。彼女が決して手を差し伸べることのなかった不幸な人々のように。
ミアはフローラを思い浮かべた。
アンネリーゼのために泣く三番目の姉を思い、ミアの目にも涙があふれた。
「アンネリーゼお姉様。どうか戻ってきてください」
フローラのために。
あなたを愛するフローラのために。
今もあなたのために泣いている人のところへ、どうか戻ってきて。
なくしていた心を取り戻して、帰ってきて。
わたしたち、家族のところに。
ミアは鉄格子の間から、アンネリーゼに向かって手を伸ばした。
ミアにしか見えない絡んだ糸を、まとめて掴むように握り込む。糸は太く、しっかり密に絡んでいて、アンネリーゼの力がいかに大きいかよくわかった。
ミアは糸をぐいっと手繰り寄せた。ブツブツと嫌な手応えとともに、糸がちぎれてアンネリーゼから離れ、ミアの手の中にするりと収まって――消えた。
異変を察したのか、アンネリーゼが勢いよくミアのほうを向く。
「かえして!」
引っ込められたミアの手を追いかけるように、アンネリーゼが鉄格子に飛びかかった。彼女の体がぶつかる金属音が周囲に響く。
「かえしてちょうだい! かえして!」
爛々と光る赤い瞳がミアをとらえる。顔には爪で傷つけた生々しい傷がいくつもあり、今度は癒されることなく血を滲ませていた。額から一筋の血がつうっと垂れ、ミアは見ていられなくなって顔をそむけた。
「かえして! わたくしの力よ! かえして、かえして、かえして!」
「返せません!」
ミアは大声を出した。
キッと顔をあげ、血塗れのアンネリーゼを見据える。
「今はまだ返せません! でもいつか、お返ししたい」
「かえして!」
「アンネリーゼお姉様。あなたに力をお返しできる日を待っています。カレンベルク家のみんなと一緒に、待っています」
涙声にならないようにそれだけ言って、後はもう、ミアは泣くしかできなかった。




