85・堕ちた聖女
王都大聖堂。
準聖女控えの間のフローラの棚は、今朝も手つかずだった。
(フローラ様、今日もいらしてない……)
ヤスミンは手荷物のない空の棚を見つめて立ち尽くしていた。フローラの欠勤は連続三日目だ。こんなことははじめてだった。
「ヤスミン、ちょっとー」
準聖女仲間に呼ばれて棚を後にする。
「準聖女を五人、聖女アンネリーゼの間によこしてですって」
「五人? 五人もなにするの?」
「それが変なの。聖女ラスタがあの部屋に入るんですって。だから、模様替え?」
「え?」
聖女アンネリーゼもここ数日聖堂に来ていない。しかしフローラと違って、アンネリーゼが来ないことは珍しくないので、気にしていなかった。
「聖女アンネリーゼはどうされたの?」
「わからないわ。お輿入れじゃないのってみんな言ってるけど、それなら前触れもなくいなくなるかしら?」
第一王子の婚約者なのだから、妃になったらもう聖堂には来ない。しかし結婚の儀の話など全く聞いていない。いくらなんでも、王子が国民に極秘のうちに結婚するなどありえない。
「ご病気……とか?」
「聖女アンネリーゼが?」
「そうよね。治せてしまうものね。よその聖堂にお移りになられたとか?」
「聖女アンネリーゼが?」
「そうよね。ありえないわね」
あのプライドの高い聖女アンネリーゼが、王都大聖堂以外で癒しを行うとは思えない。
「お輿入れのご準備でお城に入られるとか?」
「そんなところじゃない? いつかはいなくなる方だったから別にいいけど、なにか一言くらいあってもよかったのにね」
「そうね……」
なんだか胸騒ぎがした。本当に結婚準備のためなら、フローラが喜び勇んで報告してきそうなものなのに。
ヤスミンが人数を揃えて聖女アンネリーゼの間に向かうと、老尼僧が待っていて、大僧正様から大切な報告があるから先に礼拝堂前広場へ行けと言われた。
「きっと聖女アンネリーゼのことね」
「そうね」
それまで何も知らされていなかった準聖女と僧たちは、そこで異例の精察の儀の結果を知らされることとなった。
聖女アンネリーゼが魔性に堕ちた、と。
アンネリーゼの聖水は、月のない夜の闇のように真っ黒に染まったという。
*****
「結果の公布が義務とはいえ……残酷な話だ」
ミアの私室である侍女部屋に、アウレールが来ていた。
宴の最中にアンネリーゼに魔性化の兆候が現れ、急遽王都大聖堂にて精察の儀が行われた。アンネリーゼの聖杯は完全な魔性化を示す黒に染まったと、早馬で城に知らされた。
正式な精察の儀は結果の公布が義務付けられている。
舞踏会から一週間経った今、城下は堕ちた聖女の話題でもちきりだった。
「フローラはどうしてます? 三日前の『アンネリーゼお姉様をお救いしたい』って手紙が最後なんです」
「今朝は、誰もいないアンネリーゼの部屋の前で泣いていた。食事もほとんどしていなくて……」
「わたし、カレンベルク家へ行きます」
ミアは椅子から立ち上がった。今すぐにでも家へ戻ってフローラを元気づけたかった。
「駄目だ」
アウレールが駆け出しかけたミアの手をつかむ。
「どうしてですか?」
「王都民からの非難が酷い。聖女の家系が魔女を出したんだ。今のカレンベルク家は、未来の王妃が来るところじゃない」
「でも……! ドロテアお姉様だってきっと心労で」
「ドロテアには僕がついてる。大丈夫だ」
「はい……」
アウレールの真剣さに押され、ミアは再び椅子に腰を下ろした。
「聖女の家系が魔女を出しただけじゃない。アンネリーゼは方々で恨みを買っていた。ここぞとばかりに表に出てきてるよ。ヴァッサー伯爵の屋敷でのやりとりが噂されてるけど、あの噂はヴァッサー家のメイドが流したらしい。そのメイドは元カレンベルク家のメイドでね。アンネリーゼに虐待されて辞めたメイドだ。立ち聞きしていたらしくて……」
「聖女ブリギッタを魔虫に襲わせた話ですか?」
「そうだ」
ヴァッサー伯爵が魔物を使って聖女ブリギッタの顔を滅茶苦茶にした噂が王都を席捲していた。襲撃を依頼したのがアンネリーゼで、ブリギッタの顔を治したのもアンネリーゼなのだ。ブリギッタがかつてのアンネリーゼを思わせる力の強い新人聖女だったこと、ヴァッサーが従魔術という失われた魔術を使ったことなど、耳目をひく要素が多くて噂はあっという間に広まった。
「正直わたし、アンネリーゼお姉様の味方する気にはなれないですけど」
「わかるよ」
「でも……フローラがかわいそう」
「うん。フローラに訊かれるんだ。アンネリーゼお姉様はどこにいらっしゃるんですかって。……答えられないよ」
罪を犯し、魔性と化したアンネリーゼは今、王城にいる。
王城の、冷たく暗い地下牢に。
「フローラはどうしてアンネリーゼお姉様を慕うんですか? コルドゥア様が亡くなった負い目ですか? わたし、全然わからない……。ずっとわからないままでした。フローラがどんなに笑いかけたって、アンネリーゼお姉様は無視か拒絶しかしなかったのに。それどころか――」
アンネリーゼはフローラの聖女覚醒を阻もうとまでしたのに。
「僕も最初は母親を奪った負い目かと思ってたけど――その理由で、あのアンネリーゼをあそこまで愛せるものかな。僕なら無理だ」
「わたしだって無理です」
「きっと理由なんかないんだよ。フローラだから、としか言いようがない」
「フローラだから……」
フローラだから。
フローラがフローラであるかぎり、どんなに罪を重ねてもアンネリーゼを愛し続ける。
無視されても笑いかけ、拒絶されても慕い続ける。
フローラがフローラであるかぎり、ずっと、ずっと。
誰もいない部屋の前に立ち尽くして、涙を流す三番目の姉。その悲しく儚い姿を思い浮かべ、ミアも泣けてきてしまった。
アンネリーゼへの思いは共有できないけれど、フローラの悲しみだけはミアにも染み入る。
「お義兄様」
ミアはぐしゅっと鼻をすすった。
「なんだい?」
「聖女ってなんですか? どうして精霊は、アンネリーゼお姉様に聖女の力を授けて、フローラには授けなかったんですか?」
力を授けるべき相手はフローラじゃないか。
ミアはずっとそう思っていた。
精霊なんて、なんにもわかってない。
「さあ。今の僕にはわからない。でも、人生を終えないと、人は精霊に与えられた自分の役目に気付けないっていうじゃないか」
アウレールが優しい目をしてミアを見る。
何もしらないミアに、たくさんの知恵を授けてくれた賢くて優しい義兄。
「うう、フローラを励ましたいぃぃ~」
「ミア……」
「フローラを泣かせたアンネリーゼお姉様をぶん殴ってやりたいけど、そうするとフローラがまた泣くでしょ。殴りたいのと励ましたいのを秤にかけたら励ましたいです。だから殴れないっ! ああもどかしい」
「ミアらしいな」
アウレールがははっと笑顔になる。
「アンネリーゼお姉様が悪者のまま死んだらフローラが報われないから、さっさと更生してほしいです。そして心を入れ替えてフローラに尽くしまくるべきです。フローラの笑顔に応えなかったなら、フローラの涙に応えろって」
「そうだなー。ほんとになー」
「どうやったらアンネリーゼお姉様、更生するんでしょう?」
「まず人間に戻ってもらわないことには」
「戻れますよね?」
「初代ディータス王は戻れたけども」
「じゃあいけるんじゃないですか? やり方神話に書いてないですか?」
「また神話か……」
このところ従魔術関連の古書漬けだったアウレールは、もう神話はうんざりらしく、ぐったりと椅子の背にもたれかかった。




