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84・婚約破棄


 今夜第一王子の帰還を祝っての宴が、王城広間で催される。


 ディートハルトは正装に身を包み、髪が乱れるのも気にせず寝台に寝転がっていた。

 舞踏会形式だが、ディートハルトは女性を伴わずに入場する。その意味するところは参加者の貴族たちが思うに任せる。


 王族と上位貴族のみの宴だ。カレンベルク家四女ミアは社交界デビューをしていないため不参加となる。デビュー済みでも参加はさせなかったが。


 旅先の宿屋で、王妃が「婚約破棄の方向で話を進める」と言ってきた。

 アンネリーゼが、ディートハルト暗殺未遂事件で目をつけられていた闇稼業の魔術師たちと接触を持ったことが確認された。彼女は魔術師に、別件で地下牢に収監されているヴァッサー伯爵を殺すよう命じていた。


 ザムエル・ヴァッサーは、実は死んでいない。

 魔術師たちは捕えられた。


 ヴァッサーは、アンネリーゼが口封じのために彼の命を狙ったことを知らされて、彼女にそそのかされたことを供述した。ラングヤール侯爵の孫娘と北領キュプカ村を魔虫ミルメコレオに襲わせたのは、聖女アンネリーゼの依頼であったと。


「殿下。そろそろお支度を」

 ジェッソが声をかけてくる。

「ん」

 重く感じる身を起こして、社交界という戦場に臨む。


 特級魔獣と戦うほうがどれほど気楽だったかと思ったが、それはミアがいたからだと思い直した。今日の戦いはミアなしだ。ミアもジェッソもゲルルクもガウもモニカも、魔獣狩りの旅の仲間たちはなしだ。ローレンツはいるが、立場上黙って見ているだけだろう。

 代わりに、王と王妃と大僧正が味方だ。どんな戦いになるか予想もつかない。


(今まで社交界からずっと逃げ回ってきたからなあ……)


 舞踏会を戦場としなければならないなんて、やはり貴族社会はわからないし、自分には向いていない。




 シャンデリアの輝く大広間なんて、世界で一番苦手な場所だ。


 そんなことを思いながら、従僕に促されるままディートハルトは広間に足を踏み入れた。宴の主役が一人で入場したことで、舞踏会の客たちにざわめきが走る。


 最も動揺したのはカレンベルク家の分家筋と、大聖女コルドゥアの縁者だろう。リリエンタール公爵夫人は目を剥いて、第一王子が伴うべき婚約者の姿を探している。


 カレンベルク本家とはとっくに話がついている。当主ローレンツが静かな顔でこちらを見ていた。アウレールからは、ドロテアは見ていられないだろうから夫婦で欠席すると個人的に知らされていた。


 アンネリーゼは広間の隅に退いていた。ローレンツのエスコートで先に目立たぬよう入場していたのだろう。壇上で王がディートハルトの功績を語るのを人形じみた微笑を浮かべて聞いているが、何を考えているかわからない。


(彼女のことは結局何もわからなかったな)


 九歳の婚約式の日、聖女だと紹介されたが嘘だと思った。

 自分が精霊だったら彼女の加護はしたくないと思ったからだ。

 彼女の印象はあの日から変わらない。整った顔の裏に透けて見える芯まで凍った心。


(もし彼女が婚約したのが俺じゃなくてフェリクスだったら)


 あの誰にでもやさしい弟が婚約者だったら、彼女はここまで人を傷つけて平気でいられる女性にならなかったかもしれない。凍りついた心も溶けたかもしれない。


 でももう遅い。

 彼女を許せない。

 自分を育ててくれたキュプカ村を破壊しようとした彼女を。


 ディートハルトを讃える王の口上が終わり、楽団が音楽を奏でようと楽器を構える。リリエンタール公爵夫人が声をあげたのはそのときだった。


「ディートハルト殿下。聖女アンネリーゼのお手をとって差し上げてくださいませ」


 貴族たちの目が迷わず一斉に聖女へ向く。皆、見てないようでアンネリーゼの居場所を把握していたようだ。


(残酷だな)

 皆うすうす、この宴で起こることを察していたのだ。


 なぜ宴の場で申し渡さないといけないのだと思ったが、リリエンタール公爵夫人のようなアンネリーゼの援護者に、なかったことにされないようにするためらしい。


「私はもうアンネリーゼの手をとることはない」


 ディートハルトは静かに言った。

 アンネリーゼの姿が視界に入る。

 彼女は片隅からじっとディートハルトを見つめていた。


 あいかわらず、異界からやって来たかのように存在が場から浮いている。切り抜いて無理矢理この世界に張り付けたかのようだ。はじめて会ったときからそう思っているが、誰もそんなことは言わないから自分がおかしいのかもしれない。


(俺もあいつも、どっちもどこかおかしいんだよ)


 国と社交界からの押し付けがなかったら、将来の約束などするはずがなかった歪んだ二人だ。いいかげんに終わりにしよう。


 ディートハルトは発言に備えて大きく息を吸った。



「聖女アンネリーゼとの婚約は、本日この時をもって破棄する」



「殿下! お戯れを!」

 リリエンタール公爵夫人が張り詰めた声で割って入った。


「殿下はまだお若くていらっしゃいます。冷静にお考えあそばせ。一時の感情に任せて物事をお決めになってはなりません。陛下とてこのような殿下のお言葉、お認めになるはずがございません」

 リリエンタール公爵夫人はそう言ったものの、壇上の王の顔を見て戸惑いの表情を浮かべた。


 王は少しも動じていない。王妃も同様だ。


「カレンベルク公爵も――」

 夫人は困惑したままローレンツのほうを見た。アンネリーゼの父親なのに、王と同様に落ち着いている。


 彼女のようなアンネリーゼの援護者を黙らせるために、この場が選ばれたのかと改めて思った。言葉を用いずとも、国王夫妻とカレンベルク家当主の態度そのものが、婚約破棄が決定事項であることを雄弁に語っている。


「一時の感情か。もっと早く、お互いの感情で決めていたら良かったのかもしれないな」


「出来得ることではございませんでしたでしょう」


 ディートハルトが独り言のように言ったことに、今まで黙っていたアンネリーゼが言葉を返した。

 驚いて彼女のほうを見る。


「そうだな」

「これからも、出来得ることではございません」

「なぜ?」

「殿下がわたくしを手放したとしても、王家がわたくしを手放せますか?」


 アンネリーゼが薄く微笑む。淡い笑みだったが、その表情は自信に満ちていた。

 圧倒的な第一位の聖女としての、溢れんばかりの自信だ。


 ディートハルトはぞっとした。この状況で、どこからその自信に満ちた態度が出てくるのだ?


「王家? 私と結婚ならずともフェリクスがいると? 認めない。陛下とて認めない」

「ここにいらっしゃる皆様と、精霊はどうでしょう。――大僧正様」

 アンネリーゼは大僧正を呼んだ。


「今この場で、聖女精察の儀を執り行ってくださいませ。泉の水でなくとも結果は出るのでございましょう?」


「聖女アンネリーゼ。それはなりません」


「なぜですの? わたくしの聖女精察をしてくださいませ。こちらにいらっしゃる女性の皆様は、全員聖女精察の儀をなさったことがおありでしょう? ご自身の、またご友人の聖水が、どのようなお色に染まったか覚えていらっしゃるでしょう? 比べていただければよろしいのよ。わたくしの、ハルツェンバイン国第一位の聖女が染める聖水の色と」


「聖女アンネリーゼ。私はこの場で聖女精察はいたしません」


「お願いいたしますわ、大僧正様。くだらない罪をわたくしに被せ、王家から遠ざけようとする者たちからわたくしをお助けくださいませ。ディートハルト殿下のお気持ちもございますから、婚約破棄を撤回していただくことは望みません。でもわたくしを、わたくしの力を捨て去るなど、栄えあるハルツェンバイン王家にとって損失でしかありませんわ」


「聖女アンネリーゼ。あなたのために申し上げております」

 大僧正の厳しい声音は尋常ではなかった。

 今まで落ち着いた様子だったカレンベルク公爵も、「アンネリーゼ。非常識だ」と必死に娘を止めようとしている。


 王妃が侍従に耳打ちをした。女官長が呼ばれてやってくる。

 会場はざわめきに満ちた。


「大僧正様。精察してさしあげてくださいませ」

 リリエンタール公爵夫人がアンネリーゼに口添えする。


「聖女アンネリーゼの力は国の宝ですから」

「たぐいまれな彼女の力を皆がきちんと認識しなければなりませんわ」

「そうです。王家には聖女アンネリーゼが必要です。第一王子の妃でなくとも……」

 大聖女コルドゥアが王妃の座を逸したとき、権力のおこぼれを取りそこなったカレンベルク家の縁者たちが、リリエンタール公爵夫人に付き従う。


 やっかいだなとディートハルトは嘆息した。


 立太子を逃げ続けてきたことがこんなところで仇になった。なんとしてでもアンネリーゼを王妃にしたい彼女の血縁者たちは、彼女をフェリクスに嫁がせてフェリクスを王太子とし次期国王にする方針に、今この場で切り替えたらしい。


 本当に、宮廷は魔窟みたいなところだ。

 こんな魔窟に君臨しなければならないのだから、国王も心労が絶えないだろう。

 うるさい分家筋を統括しなければならないローレンツもだ。家出のひとつもしたくなるだろう。


(これはフェリクスには無理だな)

 弟は心が綺麗すぎるから、魔窟の支配者には向かない。

(いいさ、俺がやるさ)

 ミアとなら、きっとやれる。


「アンネリーゼ。もう一度言う。弟は君にやらない」


 第一王子の言葉に、ざわつきを通り越してやかましくなった場が静まり返る。睨みつけてくるアンネリーゼを正面から見返して、整いすぎて人型の魔物みたいだとディートハルトは思った。


「な……」

「ヴァッサーは生きてる。これだけ言えばわかるだろ? 退出しろ。女官長が付き添う」


 いそいそと近づく女官長の腕を、アンネリーゼは勢いよく跳ねのけた。その目はディートハルトを睨んだままだ。


「聖女精察をさせてくださいませ」

「アンネリーゼ。これ以上何も言わせるな」

「精察をお許しくださらないなら、代わりにお見せしますわ」


 アンネリーゼはグラスを手にし、テーブルに叩きつけた。

 大きな音を立ててグラスが割れる。


 広間の皆が息を呑む中、アンネリーゼが破片をひとつ手首にあてた。


「アンネリーゼ! 何を!」


 ブシュッと音を立て、アンネリーゼの左手首から鮮血が噴き出る。左手を高く掲げ、どくどくと迸る血を流れ落ちるにまかせながら、アンネリーゼはぞっとするような恍惚の表情を浮かべていた。


「御覧くださいませ」


 彼女が右手を赤く染まった左手首に添えたのは、ほんの一瞬だった。


 滴り落ちる血の流れが止まる。

 掲げたままの左手首をナフキンで拭うと、傷などまるでない白い肌が現れた。



「これが、大地の精霊がわたくしに与えた力ですわ」



 アンネリーゼの鈴を鳴らすような高らかな声が、広間全体に響き渡る。


 誰も、なにも言わなかった。


 そばにいたために血を浴びてしまった女官長は、拭き取ることも忘れアンネリーゼの顔に見入っていた。


 女官長だけではない。アンネリーゼのすぐ近くにいる者は、傷の消えた手首ではなく、彼女の顔を見ていた。


 その異様さに気付いた者が次々と、アンネリーゼの手首から顔に視線を移す。


「いやあああああ!」


 最初に声をあげたのは二位の聖女ラスタだった。


「魔物よ! 魔物だわ! 目が……!」


「聖女ラスタ。あなた何をおっしゃって……」

「その目でこっちを見ないで!」


 立ち尽くす女官長を押しのけて、カレンベルク公爵が動いた。聖女アンネリーゼの父親は上着を脱ぐと、娘の頭にバサリと被せた。


「お父様、何を……!」

 アンネリーゼが抗議の声をあげる。上着を払いのけようとするが、父親の両手は上着をどかすのを許さなかった。


「アンネリーゼ……なんてことだ。ああ、大僧正様……」

 カレンベルク公爵が救いを求めるように大僧正を見る。大僧正は苦い顔で歩み出ると、上着をのけようともがくアンネリーゼの両手をとった。


「必ずお救いします。アンネリーゼ様」


「離して! なんのつもりですの。前が見えなくてよ!」

「聖堂へ。聖堂で精察の儀を行います」

「ここでやらなければ意味がなくてよ。陛下にわかっていただかなくては。わたくしの力。大聖女を越えたわたくしの聖女の力――」


「聖堂へ参りましょう。アンネリーゼ様」

「『聖女』アンネリーゼよ! 皆様、おわかりになられたでしょう? わたくしの力。どんなに深い傷でも一瞬で治せますのよ。傷跡も残っておりませんでしょう? 大聖女コルドゥアでさえここまでの力はございませんでした。ハルツェンバイン王家の繁栄に必ずやわたくしの力が必要になりますわ。お父様、この上着をどかしてくださいませ。陛下のお顔が、フェリクス殿下のお顔が、見えませんわ!」

「アンネリーゼ。大僧正様と聖堂へ行こう。私も一緒に行くよ」

「お父様!」



「アンネリーゼ。君はもう……聖女ではなくなってしまったんだ」



 カレンベルク公爵の声は、絞り出すように悲痛だった。


 ディートハルトは言葉をなくしていた。信じられなかった。


 古代の聖女。従魔術。バシリスク。

 まるで神話の世界ではないかと思っていたら、まだ続きがあった。


「怖い……。人が魔物になるなんて、神話だけの話ではなかったの」

 聖女ラスタが怯えて泣いている。


 ハルツェンバイン、ゲートルド、リューレイ三国共通の、旧大国神話の第一巻。


 開国の勇者初代国王ディータスは、一度魔物になったことがある。己の魔力にその身を乗っ取られたディータスは、瞳が魔物と同じ赤に変わったという。


 ほかにも、強大な魔力に侵された魔法使いが魔物になり果て、人の心を失う神話が各国にある。


 共通しているのは、魔物と同じ赤い瞳。



 ――赤い瞳のアンネリーゼ。



 まるで大地の精霊が、ハルツェンバインに神話の世界を呼び戻しているかのようだった。




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