76・囚われの従魔術師
王都大聖堂、アンネリーゼ専用の癒しの間である。
凝った文様の壁紙に、猫足の優雅な家具。聖堂の一間というより貴族の応接室のような豪奢な部屋だ。
アンネリーゼはこの部屋で、一日わずか数人に癒しを施す。アンネリーゼの癒しの間に入れるのは王族か貴族、もしくは大富豪だ。ごくまれに高位の聖職者か外国の要人。それ以外の者は聖女アンネリーゼの癒しは受けられない。
本日訪れたのは、侯爵家嫡男のご令嬢だ。母親に付き添われている。
ご令嬢の顔は包帯でぐるぐる巻きにされている。青い大きな目だけ露出していて、恐れのため見開かれ、涙が今にもこぼれ落ちそうだった。
母親のほうへ目を向ければ、わずかに唇が震えている。
無理もない。
令嬢も母親も、アンネリーゼに癒しを求めるなど屈辱でしかないからだ。
「癒される側になったお気持ちはどうかしら? 聖女ブリギッタ」
その一言で、十歳の少女の目からは涙があふれ、母親の目には憎しみが宿る。
皮膚の治療に訪れたのはこの聖堂に所属したばかりの聖女ブリギッタ、付き添いの母親はアンネリーゼより古くからいる聖女バルバラだ。バルバラは若いころ、一位の聖女としてこの部屋で癒しを行っていたこともある。
自分自身をも癒せる聖女がなぜアンネリーゼに癒しを請うかと言えば、力が足りないからに他ならない。
(みじめね。己を恥じればいいわ)
「包帯をお取りになって」
ブリギッタはまず、手に巻かれた包帯をとった。
なめらかなはずの少女の手は、無数の小さな凹凸に覆われていた。発疹とも違う、皮膚そのものが変質したかのような異常だ。
「魔物の虫の被害だそうですけれど。無数の魔虫にたかられて食いちぎられた傷を塞いだら、この状態になって戻らない。その理解でよろしいかしら?」
アンネリーゼが言い切らないうちに、ブリギッタが「ひいぃ」と声をあげて泣き出した。
「聖女アンネリーゼ。恐ろしい言い方をやめて。思い出してしまうでしょう」
バルバラが娘の肩を抱き、恨みがましい目をアンネリーゼに向けてくる。
「確認しただけですわ。顔の包帯もお取りになって」
ブリギッタがひっくひっくと泣きながら、母親に手伝われて包帯をはずす。
「あら、手よりよほど酷いわね。元のお顔がわからないわ」
「聖女アンネリーゼ!」
ブリギッタの悲鳴のような泣き声と、バルバラの荒げた声が重なる。
(まったくうるさいこと)
アンネリーゼはうんざりしながら、痙攣したように泣きじゃくる幼い聖女の手をとった。
醜く変質した彼女の手肌を一度だけゆっくりと撫でる。
アンネリーゼの手が離れたときにはもう、なにもなかったようなみずみずしい肌が戻っていた。
「えっ。え、え、え……」
ブリギッタが自分の手を見て唖然とする。
「静かになさいませ」
アンネリーゼは次に、まるで細かな砂利を敷き詰めたようにぼこついている顔の皮膚に手を当てた。顔中を撫でるように手を動かしたが、力は加減してある。
「今日はここまでよ」
アンネリーゼが差し出した手鏡を、ブリギッタは期待で急いたように覗き込んだ。
しかし、期待を裏切られて悲鳴をあげる。
「いやああああ!」
「聖女アンネリーゼ! どうして? どうして半分だけ!」
ブリギッタの顔の皮膚は、右半分が元通りで、左半分が醜いままだった。
「いや! いや! なおして! 全部なおしておねがい……あああ」
「全部きれいにしてほしかったら、あなたのおじい様におっしゃいな。『聖女アンネリーゼに詫びてください』って。わたくし、先日の夜会でラングヤール侯爵にとてもとても失礼なことをされましたの。聖女ブリギッタがわたくしに癒しを請いに来られるときいたから、侯爵から非礼を詫びていただけると思っていましたわ。なのになしのつぶてですの」
「義父があなたに何をしたのです……?」
震え声でバルバラが問う。
「わたくしがディートハルト殿下を暗殺しようとしたとおっしゃいましたわ」
「なっ……」
「殿下のお命を狙う人物がいるとしても、政治上の敵とは限らないと。個人的な動機でわたくしが殿下を暗殺しようとしたとおっしゃいましたわ。政治上の敵、ね。どなたのことかしら? 領地に引きこもってらっしゃるバルチュ伯爵のことかしら? それとも――」
「ああ、聖女アンネリーゼ。違います。義父はそんな大それたことは……」
バルバラは顔面蒼白になった。
政治のことなど何もわからない女だが、ディートハルトとラングヤール侯爵が敵対していることくらいは知っているのだろう。
「ラングヤール侯爵が殿下の暗殺を目論んだかどうかなど、わたくしは問いませんわ。ただ、わたくしに罪を着せるような発言をしたこと、謝罪していただきたいわ」
「必ず、必ず義父には謝罪していただきますから。ですから、どうかブリギッタの顔を治してください。お願いします」
「それともうひとつ。聖女ブリギッタからの謝罪もまだでしてよ」
「ブリギッタが……? 娘があなたに何を」
「目くじらを立てるほどのことではないのですけれど。第一の聖女にふさわしいのは、わたくしではなく聖女ブリギッタですって。かわいらしい子供の戯言ですわ。でもね、聖女となって聖堂につとめるならば、言って良いことと悪いことはわきまえないと」
アンネリーゼはブリギッタの震える手をとった。ブリギッタ自身にも母親にも治せなかった手。アンネリーゼだけが元通りに出来た手。
「あ……あたくし……ごめんなさ……」
「よくてよ。これでわかったでしょうから。誰が第一の聖女か、ね」
アンネリーゼは立ち上がった。お付きの老女は外に出しているので、自ら扉を開ける。
「聖女アンネリーゼ、治療がまだ」
バルバラが、廊下を通る人から娘の顔を隠すように覆いかぶさる。
「続きはラングヤール侯爵次第ですわ」
「せめて包帯を……」
「処置室へどうぞ。準聖女がやってくれますわ」
アンネリーゼはそう告げて、はずした包帯を屑籠に捨てた。
おもしろくもない聖堂など今日はもう辞してしまおう。
そう思っていたら、お付きの老女が戻ってきた。
「聖女アンネリーゼ。王城からお迎えの馬車が来ています」
「迎えの馬車? どなたかおかげんが悪いのかしら」
反射的にディートハルトだったらいいのにと思ってしまうが、あの男はまた地方へ魔物討伐に行っているのだと思い出した。いつものことだ。関心もない。
関心のなさが知られているからか、それとも暗殺の関与を疑われたからか、第一王子の行動をアンネリーゼに知らせて来る者もいなくなった。王城へ行くことが多くなった義兄も、以前にも増してアンネリーゼを避けるようになった。父と姉の小言も減った。
かわいがってくれた王太后は亡くなり、国王も王妃も以前よりよそよそしい。
エッカルト子爵は王都の屋敷を売り払い、乱痴気騒ぎの夜会も退廃的なサロンもなくなった。
身の回りが少しずつ変わっていく。
変わらないのはフェリクスだけだ。
(王城へ行けばフェリクス殿下にお会いできるかしら……)
フェリクスがまた魔物に襲われて怪我でもしてくれたらいい。そうしたら、癒しを口実に二人っきりになれる。彼に婚約者があてがわれる前に、なんとかして自分の虜にすることができないだろうか。
自分に婚約者がいなければ。
ディートハルトがいなければ。
自分が自由の身なら、フェリクスが愛してくれるはずなのに。むさぼるようにこの身を求めてくるはずなのに。
どうしたらディートハルトを死なせることができるだろう。聖女の力は便利だが、今の望みを叶えるには役に立たない。聖なる力は治すばかりで、決して壊さないから。
死なせたい。
殺したい。
自分の前から存在を消し去りたい。
フェリクスとの愛の邪魔にしかならず、自分のことを汚泥でも見るような目で見る男など、この世に存在しなくていい。
王城への馬車にゆられながら、アンネリーゼは身中にふつふつと黒いものが滾るのを感じた。
それは嫌な感じではなかった。
むしろ力が漲るような、心身が満たされてゆく感覚だった。
王城に到着し、アンネリーゼが馬車から降り立つと、そこには第二王子が迎えに来ていた。
「フェリクス殿下!」
アンネリーゼは弾んだ声をあげた。フェリクスがアンネリーゼを迎えに出るなどはじめてだった。
「よく来てくれた、聖女アンネリーゼ」
「どなたかおかげんでも?」
「うむ。……城に来ているとある貴族が、突然」
フェリクスが周囲をはばかるように小声で答える。
容態が悪いのは客人か。老人が卒倒でも起こしたのだろうか。
「それはご心配ね。急ぎましょう、殿下」
アンネリーゼはフェリクスの腕にふわりと自分の腕を回した。大抵の男はこうすれば自分を意識してくるのに、フェリクスは義務のようにそつのないエスコートをするだけだ。
「癒しが必要な方はフェリクス殿下のお客様かしら?」
アンネリーゼはフェリクスを見上げ、甘えた声で尋ねた。
「いや……。私が受け持っている調査の参考人で」
「調査? 何かしら」
「まだ公にできることではないのだ。奥で話そう」
フェリクスは城の中へ歩を進める。「奥で」と言うから王族の私的な区域かと思っていたが、フェリクスは地下へ下りる階段へ向かった。
王城の地下へアンネリーゼは行ったことがない。
フェリクスが受け持っている調査とは何なのだろう。
地下へ続く暗い階段をフェリクスの腕にしがみついて下りる。フェリクスの、ランプの光がつくる陰影の濃い横顔。アンネリーゼはこの美しい第二王子と夜の時間を過ごしたことがない。ほかの女にフェリクスとの夜を奪われるのは我慢ならなかった。
「暗いわ……。こんな地下に、お客様が?」
「客ではないのだ。聖女アンネリーゼ」
暗い石の廊下を曲がる。
その先に並ぶのは鉄格子の嵌る牢だった。
「地下牢……?」
アンネリーゼは眉をひそめた。
二人の衛兵と、ほか二つの知った顔。
王妃と大僧正が一つの牢の前にいた。
「聖女アンネリーゼをお連れしました」
「ご苦労。待っていたぞ、アンネリーゼ」
王妃がちらりと、アンネリーゼが腕を回したフェリクスの腕を見た。アンネリーゼは手を離して、面を伏せ軽く膝を曲げて、王妃と大僧正に礼をとった。
「王妃様。わたくしの癒しを必要とされている方は――」
「囚人だ」
王妃が牢へ顔を向ける。
牢の中で、王宮医が一人の男についていた。男は口のまわりに布をあてがわれている。布には血が滲んでいた。
北領領主、ヴァッサー伯爵だった。
アンネリーゼは自分の顔が蒼白になるのを感じた。
「囚人――? 彼が?」
「今日護送されてきたばかりだ。舌を噛み切った。だがまだ生きている。ザムエル・ヴァッサーは北領で重罪を犯した。自領地の村を魔物に襲わせようとしたんだ。幸い未遂に終わったが」
王妃の声が遠く感じる。
癒すなど駄目だ。この男は死なせなければならない。なんとしてでも――。
「発見が早く、私が癒したから死にはしないが、喋ってもらわないと困ることが多くてな。この男の舌を綺麗に治してやってくれ。なんでも喋りたくなるように、完璧にな」
王妃が、覗き込むように自分を見てくる。
ボロを出してはいけない。
しらを切らなければいけない。
ヴァッサーの罪など、自分には関係ないと。
「――ひとつ伺っても?」
「なんだ?」
「彼に喋らせたいこととはなんでしょう?」
「従魔術だ」
「従魔術……」
「従魔術についてフェリクスが今、調査している。神話時代の秘術だが、国内で術者らしき者が発見された。だがあいにく死体でな。死体ではない従魔術師が見つかったと思ったらこのざまだ。治してくれ。そなたならたやすいだろう?」
「はい。もちろんですわ」
アンネリーゼは微笑んでみせた。
この場で何も疑われてはならない。
王妃が見ている。大僧正が見ている。フェリクスが見ている――。
「完璧に、治して御覧に入れます」




