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69・ヴァッサー伯爵とカレンベルク公爵


 北領領主ザムエル・ヴァッサー伯爵は焦っていた。

 魔虫ミルメコレオを操っての再度の襲撃は、もっと後に予定していた。一度目の襲撃から間をおかずして二度目を行うはめになったのは、ローレンツ・カレンベルク公爵のせいだ。


(こんなときに公爵が訪ねて来るとは)


 変装のため着込んだ粗末な服の襟元をかきあわせる。ごわごわした木綿の生地が首筋に当たって不快だった。下男が着るような服など不本意だが仕方がない。


 一度目の襲撃は失敗した。

 村はずれのガウのアジトを狙ったのは、目障りな冒険者ガウとそのパーティーを排除したかったのと、ガウが死ねばミアに衝撃を与えられるからだ。


 しかし上手くいかなかった。

 なぜだかわからない。現場を見ていない。契約した魔物が数匹捕えられたのは感じた。よもやそこから足がつくことはあるまいが、たかが民間の魔物狩りがとっておきの秘術に対抗するのが腹立たしかった。


 王都では上手くいったのに――。


 領主館からキュプカ村までは距離があって、従魔術が届かない。だからヴァッサーは魔術師を雇っていくつか簡易魔法陣を描かせ、従魔術を使う際は魔法陣で移動した。裏社会の魔術師は料金が高く出費がかさんだが、アンネリーゼの歓心を得るためならば惜しくはない。


(アンネリーゼ様……)


 彼女を喜ばせるためにガウとキュプカ村を痛めつけるのだ。

 キュプカ村はヴァッサーにとっても忌々しい場所だ。ミアはヴァッサーにとっても忌々しい存在だ。


 十歳のミアを手に入れようとして失敗した。ガウのせいだ。ガウは生意気にも魔術師を二人も従えており、パーティーの中核はキュプカ村にある。キュプカ村など辺境中の辺境だ。辺境の村人が、王都にだって出入りできる領主の自分に盾突くなど、あってはならないことだ。


(私は領主だ)


 領主に逆らう生意気な民は苦しめばいい。貴族に反抗する生意気な民に制裁を加えるだけで、聖女に触れることが許されるのだ。


 求めてやまなかった聖女に触れることが――。




 一度目の襲撃を切り上げ、魔法陣を通って屋敷に戻ってきたときのこと。


 裏庭に見知らぬ馬車があった。

 貴族が乗る高級な箱馬車で、目立たぬよう裏庭にとめてあるのは非公式の訪問だからだろう。


 ヴァッサーはアンネリーゼが首尾を見に来たのだと思った。歓喜と焦りが同時に生まれる。自分は失敗したのだから。アンネリーゼに失望されないよう頭の中で言い訳を整える。今回の襲撃はただの様子見、次の襲撃が本番です――。


 しかし、家令は意外なことを告げた。「カレンベルク公爵がいらしております」と。


 カレンベルク公爵? アンネリーゼの父親が何の用だ。


 ヴァッサーはローレンツ・カレンベルクの物静かな佇まいを思い浮かべた。とうに若さを失っているが、青年期はさぞ美貌をもてはやされただろうと思わせる上品な面差しと、上位貴族らしいすらりとした体つき。隙のない所作は完璧に宮廷貴族のもので、社交界で見かけるたびにヴァッサーは彼に嫉妬した。


 身分も、美貌も、魔力も。

 すべてを持って王都の中心街に生まれ、当代一の聖女を妻とし、聖女の血を引く美しい娘を三人も得た。それなのに何が不満だったのか、王都を出奔し北領にやってきて、ここでも異能の聖女を手に入れて、またしても聖女の血を引く娘を得た。


 ローレンツ・カレンベルク。どれほど精霊に贔屓されたら、そんな恵まれた人生を与えられる?

 娘の一人くらい、私にくれてもいいだろう?


 着替えを済ませ応接間へ赴くと、ローレンツは青ざめた顔で待っていた。従者の姿はない。


 心ここにあらずといった様子だったがそれでも彼はきらびやかな王都の貴族で、彼がいるとヴァッサー家の応接間がひどく田舎くさく野暮ったく見えた。


「ヴァッサー伯爵」

 公爵が顔をあげ、長椅子から立ち上がる。

「申し訳ありません、所用で出かけておりまして」

「どちらへ?」

「……領地の見回りに」


 どこへだっていいだろう。そう怒鳴りたくなった。しかし相手は由緒正しい大貴族だ。


「お座りください。ご用件を伺ってよろしいでしょうか? カレンベルク公爵」


「アンネリーゼのことです」


 ヴァッサーはぎくりとした。

 自分がアンネリーゼに頼まれたことが無辜の民の虐殺であることくらい、さすがにわかっていた。


「娘があなたの王都の別邸を訪ねたことを知っています。騎士に後を追わせました。娘はあなたに何かを頼みに行ったのではないですか?」

「いいえ何も。友人として訪ねてくださっただけです」

「友人として……。用件もなくですか?」


 公爵の疑うような口ぶりが気に障った。

 言いたいことはわかっている。

 アンネリーゼは、純粋に友人として自分など選ばない。


 美しいアンネリーゼのまわりにいるのは王都の粋を集めたような遊び慣れた令息ばかりで、自分は夜会で二言三言言葉を交わすのが精一杯だった。もっと話したくても彼女は魚のようにすいすいと、自分の前から逃げ去ってしまうのが常だった。


 でもこれからは違う。

 自分は、彼女のために危険を冒し、犠牲を払うのだ。

 アンネリーゼはそんな自分をもう無視することができない。

 これからやることを盾に、彼女を脅すことだってできるのだから……。


「私が友人としてアンネリーゼ様とお付き合いしたらおかしいですか?」

「いえ。立ち入った質問をお許しください。アンネリーゼには今、第一王子暗殺に協力した疑いがかかっています。陛下と大僧正も彼女の動向を調査し始めました。私は……私は父親として彼女を信じたいのですが……信じるべきなのですが……」


 公爵は声を詰まらせた。


「信じ切ることができないのです。しかし、私は娘を守りたい。もし罪を犯したなら、申し出てほしいのです。これから罪を犯すつもりでいるのなら、引き返してほしいのです。アンネリーゼが懇意にしていた貴族に、第一王子の暗殺容疑がかかりました。その貴族は王都を離れ、アンネリーゼは付き合いを断ったようです。そしてはじめてあなたを訪問した……。教えてください、彼女はあなたに何を話しましたか?」

「別に。楽しく時を過ごしただけです。アンネリーゼ様は楽しく時を過ごすだけの友人だってお持ちでしょう? ――エッカルト子爵のような」


 ヴァッサーは思い切ってエッカルト子爵の名前を出した。

 エッカルト子爵がアンネリーゼの愛人だったことは公然の秘密だ。ヴァッサーは自分があの並外れて美しいカイル・エッカルトと同列になった気がして、気分が高揚した。


「アンネリーゼは、エッカルト子爵に裏社会の人間を手配してもらうなどしていたようです」

「……だから私もそうしていると?」

「申し訳ありません。そうと決めつけているわけではないのですが……」

「決めつけているでしょう。侮辱だ!」


 ヴァッサーは椅子から立ち上がった。


「私に対しても、アンネリーゼ様に対しても侮辱だ。私たちは純粋にお互いの人柄に惹かれ、純粋に友人としてお付き合いしているだけです!」


 嘘だ。

 嘘だ嘘だ嘘だ。


 人柄? アンネリーゼは酷い女だ。


 腹違いの妹を傷つけたいがために、村一つ滅茶苦茶にしろと言ってくるような恐ろしい女だ。あの美貌でたぶらかして、一体何人の人間を破滅させたか計り知れない。


 しかし、彼女は聖女だ。

 ハルツェンバイン国で最も力のある聖女だ。

 誰よりも美しく、誰よりも価値のある女。それがアンネリーゼだ。


 彼女が欲しい。彼女を手に入れたい。

 彼女の肌に触れ、彼女をこの手で組み敷きたい。

 そうすれば、ハルツェンバイン貴族の半端者だと社交界で馬鹿にされ続けた憂さだって晴れるかもしれない――。


「お帰りください」


 ヴァッサーはきつく言い放った。

 しかし、カレンベルク公爵は席を立とうとしなかった。


「……ラングヤール家のブリギッタ嬢が」

 公爵が口にした名にぎくりとする。


 ブリギッタ嬢は北領へ来る前に、王都で魔虫に襲わせた――。

 アンネリーゼに頼まれたからだ。ミルメコレオの効力を知りたい、どうせなら生意気な新人の聖女を痛めつけたいと。


「……なんのことですか」

「ブリギッタ嬢が魔物に襲われました。今までも、アンネリーゼと衝突した人物が魔法で傷つけられたことがありました。今回も、アンネリーゼはブリギッタ嬢とちょっとした諍いがあったようです」

「魔物に襲われるのと魔法で傷つけられるのは違います」

「それはそうなのですが」

「公爵様は何をおっしゃいたいのですか」


「ヴァッサー伯爵。袖をめくって腕を見せていただけませんか?」

「お断りいたします。私は従魔術など知らない」

「腕を見せることと従魔の術に関わりがあることはご存知のようですね」


 ヴァッサーは公爵の顔を見つめた。

 これは意趣返しだろうか。

 かつて封印・解除の聖女の存在を問い詰めた自分に対する仕返しなのだろうか。


 自分はあのときのカレンベルク公爵のように、血の気を失っているだろうか。


 そうだ。自分には魔物と契約を交わした証がある。

 無数の魔虫と契約を交わした証。

 アンネリーゼに見せたときよりさらに増え、左腕全体に細く幾筋も刻まれた刻印が。


 視界の端に銀の燭台が映る。


 公爵の遺体は、後で虫に食わせてぼろぼろにして、森に捨てよう。


 今、ゲートルドとの国境付近はどこも特級魔獣がのさばっている。特級魔獣は魔物の生態を狂わせるのだ。魔虫が大発生したっておかしくはないだろう。


 キュプカ村は魔虫の群れに食いつくされるのだ。死体が一つくらい増えたところで――運の悪い貴族が巻き込まれたところで――自分のせいだなんて思われないだろう。



 カレンベルク公爵は、狂った魔虫のあわれな被害者として、物言わぬ屍となってしまえばいいのだ。





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