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63・田舎伯爵と従魔の術


 その日、アンネリーゼはひさしぶりの登城だった。

 ディートハルトの石化が解けて以来、彼を癒しに来る必要がなくなったからだ。もっとも、癒しなど形ばかりしか行っていなかった。死ねばいいと願っていたから。


 しかし第一王子の魔障による衰弱死という希望は、あっけなく潰えた。ひさしぶりに顔を合わせた婚約者は、倒れる前と何ひとつ変わらず憎らしいほど健康だった。


 妾腹の末の妹が、封印・解除の聖女として覚醒し、彼の魔障を解いたからだ。


(本当に今さらだわ……)

 十五歳で聖女に覚醒することなど滅多にあることではない。あったとしても、遅い覚醒は微弱な力しか授からないものだ。特級魔獣の魔障を解く力など、ミアにあるとは思えなかった。


(きっとあの魔術師が解除を進めていたからだわ)

 いまいましいディートハルトの護衛魔術師。あの者さえいなければ、邪魔なディートハルトは王領の森でとっくに息絶えていたはずなのに。

 仕方がないから魔術師を色香でたらしこんで言うことを聞かせようと思ったら、次は義兄が邪魔してきた。何かと対立してくる義兄も邪魔で仕方がない。


 邪魔。邪魔。みんな邪魔。

 ディートハルトも魔術師も義兄も腹違いの妹も。

 父親も姉も大僧正もラングヤール侯爵も。

 王と王妃だって、近頃自分を見る目が冷ややかだ。

 亡くなった王太后は、あんなに自分を可愛がってくれたのに。


(わたくしはこの国一番の聖女よ。最も価値ある存在を軽く扱うなんて、精霊に許されると思っているのかしら)


 フェリクス。あの美しいフェリクスなら。

 他の何にも惑わされず、一位の聖女が一位の聖女であるだけで讃えてくれる。

 彼こそが正しき精霊の徒。ハルツェンバインの正しき王族だ。


(わたくしにはフェリクス殿下が必要なのよ。わたくしに釣り合う殿方はフェリクス殿下だけだわ)


 フェリクスがほしい。他の女に渡したくない。

 けれどフェリクスは潔癖だから、兄王子の妃になる女は兄王子の妃になる女としてしか見ない。誘惑に乗らないどころか、こちらの誘いに気付きもしない。


 じれったい。


(わたくしを愛して、一緒にディートハルトを葬ってくださればいいのに)

 そうすれば、フェリクスは国一番の聖女を娶る国王になれるのに。

 どうして一番の栄誉を欲しがらないのだろうか。欲してくれさえすれば、喜んでその手を取るのに。


(フェリクス殿下。どうして一番に生まれてきてくださらなかったのかしら)

 フェリクスが第一王子なら、フェリクスと婚約していただろうし何も思い悩むことはなかったはずだ。


 ディートハルトが邪魔。

 ディートハルトの健在を願う者がすべて邪魔。

 でも、彼より先に排除しなければならないのは――。



「フェリクス殿下の婚約者候補?」

「だっていう噂だぜ」


 城の使用人らしき話し声に、石畳を歩むアンネリーゼの足が止まる。

 石柱の向こうから、恐れていた言葉が聞こえた。



『フェリクス殿下の婚約者候補』。



「へえ。あの騎士聖女様が」

「特別な力をお持ちなんだろう? 年の頃もうってつけじゃないか」

「ディートハルト殿下を助けられた功績もあるしな」


 アンネリーゼの足元から、震えが立ち上ってきた。



 ミアだ。

 あの妾腹の妹。



 北領の寒村から来た田舎娘。

 あんな子が。取るに足らない平民だった子が。

 妾の子は妾の子らしく、隅に引っ込んでいればいいものを。


 アンネリーゼは扇を石畳に叩きつけた。同行している侍女が「ひっ」と声をあげる。


「次は鼻をへし折るだけじゃ済ませないわ……」


 苦しめてやる。

 身の程知らずを思い知らせてやる。

 病気になるまで痛めつけて、ずたぼろにして排除してやる。


(わたくしは知っているのよ。どうすればあの子がずたぼろになるか)



 あの子の大切な存在を、ずたぼろにしてやればいいのよ。




 以前、アンネリーゼがミアに言うことをきかせようと思ったときは、脅すだけで十分だった。

 北領のヴァッサー伯爵から、ミアが封印・解除の聖女を母に持つと聞いたとき、そんな力が存在するなら是非とも叶えたい願いがあった。


 フローラが聖女にならないように封じたい。

 もし妹が聖女になったら、王族とだって結婚できる。あの美しい妹がフェリクスの視野に入ってしまう。もしフェリクスがフローラと恋に落ちたら……。


 考えたくなかった。自分に向けられるはずだったフェリクスの恋情が、慈しみが、熱いまなざしが、妹のものになるなんて。


 アンネリーゼが恐れていたのはそれだけではない。

 ディートハルトは自分を忌み嫌っているから、彼は自分を抱かないかもしれない。ディートハルトの側室の子が王になるか、それともフェリクスとフローラの子が王になるか。

 自分を押しのけて、他の女の子供が国を継ぐ……。


 カレンベルク家の縁者は、妹の子を世継ぎに推すだろう。フローラだってコルドゥアの娘なのだから。味方だったはずのカレンベルク家の縁者が妹の味方になる。そんなことは許せない。


 この自分が脇に押しのけられるのはおかしい。

 第一位の聖女であるこの自分が、粗末に扱われるなどあってはならない。


 だからフローラが聖女にならなければいいと思ったし、そのためにミアが使えるなら、言うことをきかせればいいと思った。

 ミアを屈服させるのは簡単だった。魔術師を雇ってミア自身を脅すのは失敗したけれど、目の前で部屋付きメイドに毒を盛り、故郷の村を荒らすと言ったら、手中に落ちてボロボロ泣いた。

 フローラが聖女にならなかったから、その後ミアのことは放っておいた。



 みすぼらしい田舎娘がフローラに代わる脅威になるなんて、そのときは思わなかったのだ。




 ヴァッサー伯爵の王都別邸は王都の隅にあった。王都の中でも王領の森に近い側は、盛り場も遠く人気も少ない。


 梟が鳴くさみしい街道を、紋章のない馬車でアンネリーゼは進む。カレンベルク家の馬車は使えない。騎士も護衛につけられないし、侍女だって置いてきた。近頃以前にも増して、父やドロテアがアンネリーゼの行く先にうるさいからだ。


 馬車や護衛は夜遊び仲間の豪商に都合してもらった。若く美しい聖女であれば、使える取り巻きくらいいくらでもいる。


 夜道を行くには危険なほどの暗さだが、アンネリーゼにとっては幸いだった。ヴァッサーの別邸へ一人で行くところなど、他の貴族に見られたくない。

 特にカイルの仲間には、訪問を知られたくない。エッカルト邸に集う洒落者たちは、貴族の恥辱を眺めるのが何よりも好きだから。野暮なヴァッサーと仲睦まじくするなんて恥でしかない。


 アンネリーゼは自分の両肩を抱きしめた。

 この身をすべて与えるまでにはならないだろうが、どこまで触れさせればあの田舎伯爵を使役できるだろうか?


(カイルならよかったのに)


 しかし所詮あの男は子爵、大した権力のない小物だった。復帰したディートハルトに圧力でもかけられたのか、地方派に尻尾を振り出した。

(なにが『俺にも立場がある』よ。あの澄ましかえった男があんなこと言うなんて。権力がないって哀れだわ)

 腹立たしいラングヤール侯爵に仕返ししたくて魔術師を借りようと思ったのに、カイルは裏社会の怪しげな者とは全部縁を切ったらしい。王都の屋敷まで人手に渡して、ちっぽけな領地に逃げ帰るのだ。


 心地よかったカイル・エッカルトの屋敷は、もうすぐ俗な商人の手に渡ってしまう。

 カイルの屋敷に集っていた優雅な青年たちは、粋な遊びをやめてしまった。

 芸術と色事に満ちた贅沢なサロンはなくなったし、狂ったように派手な夜会はもう催されない。


 粋で贅沢なサロンに行く替わりに、魅力のない田舎伯爵に会うために、アンネリーゼは借り物の馬車で寂れた夜道を行く。


 どうしてこんなことになったのだろう。


 王都の高位貴族を妬む「地方派」と呼ばれる反逆者たちが、力をつけてきたという話を聞いた。そしてその中心には、ディートハルトがいるらしい。ディートハルトの復活で、地方派がすっかり調子づいているらしい。


 昔から第一王子は腹立たしいことしかしない。

 昨日王城で会ったときも、「少し話がある」と言うから何かと思ったら、覚えのない魔法陣や知らない男の怪我についてだった。何を疑っているのか知らないが、甘い言葉のひとつもささやけない婚約者なんて。



 邪魔。

 ディートハルトが本当に邪魔。



(まとめてミアと死んだらいいのよ)


 家紋のない馬車は、人目を忍ぶようにヴァッサー別邸の暗い庭に滑り込んだ。




「ああ……我が別邸にアンネリーゼ様をお迎えする日が来ようとは」

 感極まったようにヴァッサー伯爵は両手を広げた。

 アンネリーゼはその大げさな動作を見ただけで虫唾が走った。


(わたくしがその胸に飛び込むとでも思っているのかしら)


「ごきげんよう、ヴァッサー伯爵。押しかけてしまってごめんなさい」

 嫌悪感を取り繕い、アンネリーゼは笑顔を作った。

「とんでもございません。心から歓迎いたします。先祖の建てた武骨な屋敷でお恥ずかしい限りですが」


 一等地にあるカレンベルク家の優美な屋敷に比べたら、ヴァッサー家の別邸は古くて暗くて重苦しい。応接間の陰気な雰囲気にもアンネリーゼはうんざりしたが、「重厚でご立派なお屋敷ですわ」と心にもない世辞を言った。


「そうおっしゃっていただけると嬉しく思います。北領は歴史上、ゲートルドに取り込まれたりハルツェンバインに戻ったりを繰り返しておりますゆえ、歴代の王はヴァッサー家になかなかお心をお許しになられず……。王都に屋敷を構えるにあたっても、王城から遠いこのような場所しか与えられなかったのでございます」

「ご先祖様はご苦労なさったのね」

「私の代に至っても大して変わりません。宮廷において、私の居場所は常に隅のほうです。ですから、アンネリーゼ様」


 こともあろうか、ヴァッサーはアンネリーゼに手を伸ばしてきた。

 振り払うのをこらえて、アンネリーゼはその手を頬に触れさせる。


「第一位の聖女のあなたがこうして訪問してくださったことが、天にも昇るほどの喜びなのです」

 ヴァッサーの手首から、覚えのある香りが漂う。カイルが使っていた香水だ。

 この哀れな田舎貴族は、カイル・エッカルトのような洒落者に憧れているのだろう。カイル・エッカルトのように、聖女を抱いてみたいのだろう。


「ヴァッサー伯爵」

 アンネリーゼは頬に触れるヴァッサーの手に自分の手を重ねた。

「なんでしょう、アンネリーゼ様」

「わたくしに触れるには、わたくしの望みを叶えてくださらなければいけないわ」

 蠱惑的な微笑を浮かべながら、ゆっくりと頬からヴァッサーの手を引きはがす。

「もちろんです。アンネリーゼ様。私はあなたの……下僕です」


 ヴァッサーはアンネリーゼの前に跪いた。

 崇拝のまなざしが、眩しげにアンネリーゼを見上げる。


(そうよ。よくわかってるわね。正解よ)

 アンネリーゼは満足して、跪く男を見下ろした。


「アンネリーゼ様。あなたに見ていただきたいものがございます。ご覧になれば、私があなたのお役に立てる男だと認めてくださるはずだ」


 ヴァッサーは跪いたまま、左の袖をめくりあげた。

 肘に近いあたりにぐるりと数本、細い蔓が巻きついたような入れ墨がある。

 貴族は入れ墨など入れないものだ。一体どういうつもりかと、アンネリーゼは伯爵の顔を見た。


「これは、ゲートルドに古代から伝わる秘儀でございまして」

 ヴァッサーの目が得意げにきらめく。

「秘儀? ゲートルドの?」

「ヴァッサー家はゲートルド人だったこともありますから……ゲートルドの古い言い伝えや文献が、豊富に残っているのです。窓をご覧になっていてください。私がおりますから、恐れることは何もございません」


 言われるがままに、アンネリーゼは窓を見た。

 ヴァッサーは入れ墨に触れ、聞き慣れない言葉で文言を詠唱している。

 やがて、窓にコツンと何かがぶつかる音がした。コツン、コツンと少しずつ音が増える。雹でも降っているような音だが、今宵は星空だったはずだ。


 アンネリーゼは目を凝らす。


「ひっ……!」

 室内の明かりに照らされたそれが窓を這うのを、アンネリーゼははっきりと見た。


 獣のような顔を持つ、こぶし大の――昆虫。

 頭部を除けば、それは明らかに翅のある昆虫だった。猫の頭に甲虫の体、狐の頭に飛蝗の体、鼬の頭に蝉の――。


 小さな獣の頭を持つ昆虫たちは、ぼんやりと薄緑の光を放っていた。

 薄緑の光の中で、小さな両目だけがちらちらと赤いのが不気味だった。


「ミルメコレオ――魔物です。私が呼んだのです」

「魔物を……呼んだ?」


「この印」

 ヴァッサーが入れ墨を示す。

「一体なんですの。その入れ墨は」

「入れ墨ではございません。これは、契約の印です。私は、ミルメコレオと主従の契約を結んだのです。ミルメコレオの個体は弱いですが、この魔物は一匹が大群を呼べますから」


 ヴァッサーはにやりと笑った。



「どなたをこの魔物の群れに喰わせたいですか? アンネリーゼ様」



     *****



 アンネリーゼが館を辞したあとも、ヴァッサー伯爵は応接間の長椅子に座り、部屋を眺めていた。

 アンネリーゼが座った長椅子。アンネリーゼが触れた小卓。アンネリーゼが口をつけた茶器。


 そしてヴァッサーの手はアンネリーゼの頬に触れ、唇はアンネリーゼの手の甲へ口づけることを許された。

 アンネリーゼの望みを叶えれば、口づけは手の甲どころではなく、もっと……。


(ああ。アンネリーゼ様……!)


 ずっと聖女の訪問を受ける貴族たちがうらやましくてならなかった。

 北領領主ヴァッサー家はハルツェンバイン宮廷の半端者だ。ゲートルドとの国境にあり、海もなく寒冷で耕地の乏しい北領は、国にとって国境の緩衝帯くらいの価値しかない。過去には国の都合で何度かゲートルドに明け渡されたこともある。ハルツェンバインで「最果て」と言えば、それは北領のことだった。


 貴族に生まれるのならば、もっと豊かな土地の領主として生まれたかった。

 田舎者と嗤われることなく、煌びやかに社交界を泳ぎ回りたかった。

 そして聖女を娶り、上流貴族として大きな顔をしたかった。


 北領のような田舎で領主様領主様と崇められたところで、少しでも勝手なことをすれば王都の大臣から目をつけられる。豊かで広大な耕地を持つ西の地や、栄えた港のある東の地の領主たちは、歴代の王に尊重され、王宮で好き放題にのさばっているというのに。ラングヤール侯爵やバルチュ伯爵など、宮廷の重鎮たちのことだ。


 ハルツェンバインの聖女は、そんな由緒正しい上流貴族としか交流しないと思っていた。ましてや、聖女と結婚などヴァッサーにはとても手が届かない。


 だからヴァッサーは、隣国の聖女を求めた。

 他国の聖女でも聖女は聖女。聖女を自分のものにしたかった。聖女を自分のものにしたら、社交界での扱われ方も変わるのではないかと思った。


 しかし、社交界というところはそう単純ではなかった。


 カイル・エッカルトという青年が小さな領地を継ぎ子爵位を得て、王都にこれまた小さな屋敷を建てた。

 その小さな屋敷に、第一位の聖女が足繫く訪問しているという噂を聞いた。


 エッカルト子爵はとてつもない美青年だったから、「そういうことか」と思ったが、高位聖女が下位貴族の愛人を持つということがヴァッサーには衝撃だった。


 聖女と結婚するのは無理でも、聖女を愛人に持つことはできるかもしれない。

 カイル・エッカルトのような美貌はなくとも、なにか特別なものがあるならば。


 ヴァッサー伯爵は特別なものを持っていた。

 このときばかりはゲートルドゆかりの先祖に感謝した。

 ヴァッサーの持つ特殊な力は、ゲートルド国由来の力だから、大きな声では言えない。宮廷で警戒されたら、先祖のようにハルツェンバイン国から弾かれてしまう。


 ヴァッサーは辛抱強く待っていた。アンネリーゼにこの力を披露する日を。

 我儘と陰で囁かれ、批判の多いこの聖女は、必ずや自分を頼りにするだろう。

 折よく、カイル・エッカルトが王都の屋敷を去るらしい。

 アンネリーゼの愛人の座は空いたのだ。


「ふふ、ふふふふ……」

 ヴァッサーはくぐもった声で笑いをもらした。


 アンネリーゼが魔物に喰わせたい相手は、かつてヴァッサーの邪魔をした冒険者たちだ。手に入れ損ねた他国の聖女の養い親と、その仲間、その家族。


 なんなら村一つまるごと魔物に貪り食わせてちょうだいと、右手を差し出しながら聖女は言った。ヴァッサーは夢中でその白い手をとり、すべらかな甲に口づけた。



(アンネリーゼ様。ああ。アンネリーゼ様)



 アンネリーゼの美しい肢体をこの胸に抱くためになら、領地の村のひとつくらい、滅ぼすことにためらいはなかった。






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