47・アンネリーゼの誤算
アンネリーゼはひさしぶりの夜会に出席した。
公式の舞踏会ではなく、エスコートの要らない気楽な夜会だが、侯爵家の主催で招待客は裕福な高位貴族ばかりだ。
(退屈そうだわ)
エッカルト子爵が催す夜会の、無礼講と乱痴気騒ぎがなつかしい。
カイルはもう夜会の刺激に飽きてしまったのか、最近は大人しいだけの小粒の貴族になった。アンネリーゼが訪問しても、書斎に籠って仕事をしている。
アンネリーゼの綺麗な玩具は、輝きを失ってつまらない田舎領主に成り下がった。
「これはこれは、聖女アンネリーゼ。ようこそおいで下さいました」
主催者の侯爵がうやうやしくアンネリーゼを迎える。
アンネリーゼが広間に歩を進めると、誰もが眩しい目をしてこちらを見てくる。
地位も力も美貌も持つ、最高位の存在であるこの自分を。
「殿下が……っしゃるのによく……」
賞賛のざわめきの間から、かすかに異質な声がした。
アンネリーゼが声のほうを見やると、王都大聖堂で二番目の部屋にいる二人の聖女のうちの一人と目が合った。
二番目の聖女ラスタは、何事もなかったようにほほえみを見せた。
アンネリーゼはほほえみなど返さない。頂点の聖女が次席の聖女に、機嫌をとるように笑顔を見せなければならない謂れはない。
(このわたくしを非難するなんて)
ラスタも力が強いと評判らしいが、アンネリーゼの足元にも及ばない。アンネリーゼがいなければ聖女の最上位になれるのにと、幼くして聖堂に入ったアンネリーゼに嫌がらせをしてきた女だ。報いを受ければいいと思い、十五のとき婚約者を誘惑してやった。アンネリーゼの色香にラスタの婚約者は簡単によろめいた。浮気は揉み消されたが結局破談になって、彼女は格下の貴族に嫁いだらしい。
(わたくしに何もかも負けているくせに。懲りずに言いたいだけ言うのね)
彼女は周囲に聞こえるようにこう言ったのだ。「殿下が臥せっていらっしゃるのに、よく夜会なんかに出られるわね」と。
減らず口で愚かしいのは、十年経っても変わらないらしい。負け犬の遠吠えだ。みじめな女。
アンネリーゼはラスタに見せつけるように、次々と挨拶にくる高位貴族やその令息と、朗らかに会話をした。カイルの屋敷の常連もいて、いたずらっぽく目配せし合う。カイルに選ばれた令息は粋で美しくて会話が巧みで、令嬢たちが熱っぽい視線を向けている。彼のことなら体の隅々まで知っているわよと、心の中でほくそ笑む。
しかしアンネリーゼは今夜、社交を楽しみに夜会に来たわけではないのだ。
どうしても会って話さなければならない相手がいる。
証拠の残る手紙は出せないからだ。
(ラングヤール侯爵とバルチュ伯爵)
広間の隅で人目をはばかるように話している壮年の貴族たち。
二人とも王都派の重要人物だ。ラングヤール侯爵家は国土の西部に、バルチュ伯爵家は東部に、先祖伝来の領地を持つ旧家である。ラングヤール侯爵は宮廷の重鎮でもあった。
アンネリーゼは二人のほうへ一歩踏み出した。
ところが、図々しくもアンネリーゼの前に立ちはだかる者がいる。
「おひさしぶりです、アンネリーゼ様」
不快な人物の登場に、アンネリーゼは一瞬眉をひそめた。
公的な間柄を示す「聖女アンネリーゼ」ではなく、あえて私的な呼び方である「アンネリーゼ様」と言ってくる厚かましさ。流行を取り入れ過ぎてくどくなった装いも、媚びと卑屈さが隠れることなく表れる顔つきも、洗練からはほど遠い。
カイルの屋敷の常連たちから道化のように見られている、哀れな田舎貴族。
最果ての北領の領主、ヴァッサー伯爵だった。
(夜会でこんな男と関わりたくないわ)
アンネリーゼはいっそ無視したかったが、そうはいかない理由がある。
一番下の妹、ミア。あの外腹の子が、近頃王宮をうろついている。
猿のような第三王子の侍女に抜擢されたという話だが、栄えある王宮に下賤の子が出入りすること自体が気に入らない。
妾の子は妾の子らしく縮こまって暮らしていろと言ったのに。あの娘はすぐに出過ぎた真似をする。また自分に盾突くようなことがあったら、以前のように懲らしめてやらなければならない。泣き続けて病気になるまで心をえぐってやらなければ。
あの娘の場合、当人を痛めつけるより、周囲の者や故郷の村を痛めつけるほうが効くらしい。
あの娘の村を痛めつけるためには、領主であるヴァッサー伯爵の手が必要だ。
だから少しくらいは、機嫌をとっておかなければ……。
「ごきげんよう、ヴァッサー伯爵。今夜も素敵なお召し物ね」
「このチョッキはエルプセの店であつらえさせた品でして。アンネリーゼ様がおいでになると聞き……」
「よくお似合いよ」
いきなり有名店の名前を出すような野暮な会話にはつきあえない。ほめ言葉をかぶせ、相手の言葉を封じた。
「お褒めに授かりうれしく思います、アンネリーゼ様。私、この度宮廷の重鎮であらせられる方々からお誘いいただき……」
「あら。ヴァッサー伯爵ご自身も重鎮でいらっしゃいませんこと?」
くだらない自慢も辟易するので、お世辞に極上の笑顔も追加して黙らせる。
聖女の笑顔に魅せられたヴァッサー伯爵が言葉を失っている間に、アンネリーゼはすばやく彼から離れた。田舎者の相手は御免だった。
「節操がないわね。領地持ちなら誰でもいいのかしら」
今度こそラングヤール侯爵とバルチュ伯爵の元へ向かおうとしたアンネリーゼは、思わず足を止めた。
今の悪口は自分のことだろうか?
声のしたほうへ顔を向ける。二番目の聖女はそこにはいない。今度は、誰が言ったのかわからなかった。
すまし顔の令嬢たちは、悪口が聞こえた者もいるだろうに、誰もアンネリーゼのほうを見ていない。自分のことではないのだと安心して歩を進めると、また別の方向から声が聞こえてきた。
「あの方、殿下をまだ癒せないの?」
アンネリーゼは、今度は声の主を探さなかった。
何かがおかしい。こんなことがあるはずがない。
夜会でこの自分が賞賛ではなく非難の声に取り巻かれるなんて、そんなことはあり得ない。
(疲れているのだわ)
このところ気を揉む事柄が多いから、関係のない会話が自分を悪く言っているように聞こえてしまうのだ。
気掛かりなど、さっさと晴らしてしまわなければ。
ラングヤール侯爵とバルチュ伯爵に声を掛けたら、彼らはアンネリーゼを広間から離れた小部屋に誘導した。
「困りますね、聖女アンネリーゼ。夜会でこのような私的な呼び出しは」
「手紙を書くわけに参りませんでしょう」
「手短にお願いします」
「では単刀直入に。魔術師を生かしておいてよろしいの?」
バルチュ伯爵は息を呑んだが、ラングヤール侯爵は動じず、まっすぐアンネリーゼを見た。
「あなたは何も気にしなくてよろしいのですよ、聖女アンネリーゼ」
「魔術師がいなければ、あなたの計画は成功したのではなくて?」
「はて、私の計画とは何でしょうな。とんと分かりませんが」
ラングヤール侯爵があご髭を撫でながら空っとぼける。悠々とした侯爵に対してバルチュ伯爵は、哀れなほどに青ざめていた。
「魔術師を死なせたら、殿下が勝手に一人で王領の森に行ったことに出来なかったのは分かりましてよ。でも、もうよろしいでしょう?」
殺しても。と、アンネリーゼは声に出さずに続けた。
ディートハルトが行方をくらませた時点で護衛の魔術師が殺されていたら、ディートハルトは何者かに襲われたと世間は解釈するだろう。ディートハルトが勝手に一人で森へ行ったことにするためには、護衛はディートハルトに睡眠薬で眠らされていた程度のことにしておかなければならない。
しかし、もうそんな工作は要らないではないか。
「今からでも間に合いましてよ」
ディートハルトの治療は魔術師――ジェッソが行っている。今からでもジェッソを殺せば、ディートハルトもやがて死ぬ。
領民から搾り取るだけ搾り取っているラングヤール侯爵家やバルチュ伯爵家にとって、民の困窮を問題にしようとする第一王子は厄介者でしかない。厄介者の王子を排除するためには、魔術師を排除しなければならないのに。なぜ放っておくのか。
「ですから、あなたは何も気にしなくてよろしいのです。聖女アンネリーゼ」
肩をすくめ、ラングヤール侯爵は言い聞かせるようにアンネリーゼに言った。幼女の我儘にあきれる大人の顔をして。
「でも、今のままでは」
「殿下は一命をとりとめました。結構なことではないですか。話せもせず、動けもしないそうですが」
ラングヤール侯爵が酷薄に笑う。
アンネリーゼはようやく気付いた。
王都派が恐れていたのは、やがて王となるディートハルトが先頭に立って地方派を率いること。命をとりとめても、今のディートハルトの状態では、王位を継ぐことも地方派を率いることも出来ない。第一王子は王都派が恐れるような存在ではなくなった。
しかし命があるならば――アンネリーゼは形だけでも第一王子に嫁がされることになるかもしれない。
そう思い至り、アンネリーゼは青ざめた。
これではフェリクスが手に入らない。
真面目なフェリクスは、兄の妻の座にある女をその胸に抱いたりなどしない。
「ディートハルト殿下がもっと快方に向かったら、あなた方のことを何か喋るかもしれなくってよ? ジェッソだって……」
「我々は殿下に何もしておりませんが?」
「よくそんなことをぬけぬけとおっしゃるわね」
「殿下に個人的な恨みを抱く人物ならいるかもしれませんね。例えば……顧みられなかった女性であるとか」
ラングヤール侯爵はクッとくぐもった笑いを漏らし、アンネリーゼを見下ろした。バルチュ伯爵が「やめましょう、侯爵」と怯えた顔でとりなす。
「どういう意味かしら?」
「殿下のお命を狙う人物がいるとしても、政治上の敵とは限らないというだけです。個人的な動機もございましょう。ときに聖女アンネリーゼ、あなたは殿下と友好的でしたか、敵対的でしたか?」
「なっ……」
アンネリーゼは言葉を失った。
「ディートハルト殿下は、護衛を睡眠薬で眠らせ、お一人で王領の森に狩りに出向き、魔物に害された。これが公式見解です。異論は、聖女アンネリーゼ、あなた自身が疑惑にさらされることになりかねませんよ。私が忠告できるのはここまでです」
「わたくしを……どこまで馬鹿にして……」
「あなたは何も気にしなくてよろしいのですよ、聖女アンネリーゼ。あなたは何も存じ上げないのだから。何もね」
「瀕死の魔術師を癒したわ。バルチュ伯爵の屋敷で」
「あの青年は、バルチュ伯爵が親切心で保護した魔物被害者です。彼は魔術師などではない。たまたまバルチュ夫人を訪問していたあなたは、聖女のつとめとして彼を癒しただけ。バルチュ伯爵もあなたも、ハルツェンバイン貴族の名に恥じない立派な行いをされました。それだけです。我々は名に恥じることは何もしていない。いいですね?」
「いいわけなくってよ。こんなの話が違うわ!」
アンネリーゼは声を荒げた。
協力すればディートハルトを死なせると、暗に約束したではないか。
「今からでも魔術師を始末して。そうすればディートハルトだって」
「おやおや。国を守るべき聖女が、ご自身の都合で十年に一人の逸材を始末しろとは。彼のような天才魔術師は、未熟な王子などではなく、ハルツェンバイン国の現在を担う年長者の下につくべきでしょうな。陛下もこれを機に人材の無駄遣いを改められるのでは?」
侯爵が同意を求めてバルチュ伯爵を見る。「ハルツェンバイン国の現在を担う年長者」とはラングヤール侯爵自身を指すのだと察し、アンネリーゼは侯爵がジェッソを殺さなかったのは、ジェッソを配下に欲しかったからだと理解した。
「広間に戻りましょう、聖女アンネリーゼ。それとも、しばらくこちらで休んでいかれますか?」
「出てって!」
アンネリーゼはテーブルの上のキャンディポットをラングヤール侯爵に投げつけた。
侯爵は腕で防ぎ、陶器のキャンディポットは床に落ちて割れた。
「休んでいかれたほうが良いですね。お大事に」
ラングヤール侯爵は余裕の笑みを浮かべ、バルチュ伯爵を引き連れて小部屋を出て行った。
(よくもこのわたくしを利用して……。覚えてらっしゃい)
アンネリーゼは震える手で自分の身をかき抱いた。




