36・ディートハルトの意識と記憶
王と王妃と王宮医師が、ディートハルトの経過観察に来て帰って行った。
「日に日に息子の顔が息子の顔らしくなっていく」と王は喜んだ。しかし、すべてが元に戻る日は来るのだろうかと、両親の胸に不安がよぎったことだろう。
そう思うと、アウレールは暗澹たる思いになった。
(戻ったとしても数年後だろう。このペースでは……)
その前に体力が尽きて亡くなってしまう可能性のほうが高いかもしれない。
窓の外から「お逃げになっても無駄ですわ~!」と、わざとらしいお嬢様言葉が聞こえてくる。ここのところ毎日どこかで行われる、義妹と第三王子の追いかけっこである。
(あっちは元気だな)
ドロテアにミアを見張れと頼まれたが、さすがに無理だ。
ミアの行動は黙認されているようなので、ほうっておくことにした。
「捕まえましたわ~」
「ミア、おまえ化け物だろ!」
捕まった第三王子がぎゃんすかわめいている。第三王子も元気である。
「……あ」
そのときジェッソが短く声を発した。
「どうしました?」
「また……殿下の表情が」
「動きました?」
「はい」
「夢でもご覧になっているのかな。臓器が生きているのだから、脳も動いているでしょう」
外の元気な二人の声に触発されたのかもしれないと、アウレールは思った。
「夢……。そうですね……」
ジェッソが落胆したように言う。
「殿下の意識が戻られるのを待っているのですか?」
「はい……」
「前からお聞きしたかったのですが、ジェッソ殿はどうしてこれほどまでにディートハルト殿下をお救いしたいのでしょうか。殿下がお一人で魔物狩りに出掛けたという大方の見方に反対して、捜索を急いだのもあなただと聞きました」
アウレールはうなだれるジェッソを見た。
数日ともに過ごしたこの天才が、アウレールが思い込んでいたのとは全く違う人物像を持っているのは、もうわかった。
「ディートハルト殿下は、私の故郷の村を救ってくださったので……」
「故郷の村を?」
「私の故郷は西域の最果てで……。危険な魔物が出ても討伐隊が来ることはまずありません。でも……ディートハルト殿下が」
「趣味の魔物狩りでやってきたと?」
「違います」
ジェッソが顔をあげ、アウレールを見た。
驚いたことに、その表情には怒りが宿っていた。
「殿下は遊戯としての魔物狩りはなさいません。側近になってから知ったことですが」
「趣味ではないと?」
「地方の調査の際、住民が殿下を頼るのです。危険な魔物が跋扈して大勢死んでいるが、領主や王都の大臣に訴えても討伐隊を寄越してくれないからと。民間魔物討伐隊も危険な仕事は請け負わないからと。だから殿下は仕方なく……」
「愚か者を演じるために魔物狩りに行っていたという噂は」
「それは、結果的にそういう噂になっただけです。殿下は何も計算しておられません」
「なるほど……。よくわかりました。僕もディートハルト殿下を誤解していたかもしれないな」
アウレールがそう言うと、ジェッソの目がだんだん涙で光ってきた。
「あなたのことも誤解していました。ジェッソ殿」
重ねて言ったら、ついにジェッソの涙腺が崩壊した。
うつむいてぼたぼた涙を垂らす天才の肩を、アウレールはぽんぽんと優しく叩いた。
そうして数分、ジェッソと向き合っていたらば。
どこかから、かすかに声が聞こえた。
ジェッソも聞こえたらしく、涙で濡れた顔を上げる。
二人は同時にディートハルトを見た。
ディートハルトの眉間にしわが寄り、そこには明らかに表情らしきものがあった。
ディートハルトの心が生きていることの証が。
「殿下……!」
ジェッソがディートハルトに駆け寄る。
ジェッソはディートハルトの傍らで肩を震わせ、嗚咽をこらえて新たな涙にぐすぐすと鼻をすすった。
アウレールも胸が熱くなる思いだったが、ここで感動の渦に参加するのは自分の役割ではない。アウレールは指先に魔力を込めた。
ディートハルトの現在の身体情報を得る。
それが彼を助けるための、今の自分の役割だ。
ディートハルトの容態が新しい展開を見せ、アウレールとジェッソは静かな喜びの中にいた。
しかし、その喜びに水を差す人物がやってきた。
ノックの音にジェッソがドアを開けると、ディートハルトの体力を保つために毎日やってくる聖女アンネリーゼがいた。
「殿下を癒しにまいりました」
アンネリーゼはすっと器用にジェッソを避けると、慣れた様子で部屋に入ってきた。
「集中の妨げになりますから、部屋から出ていただけますかしら?」
「殿下と一対一は駄目だ。陛下からもそう言われているだろう」
アウレールの返答に、アンネリーゼは不快げに片眉を上げた。
同じ屋敷に住んでいながら、アウレールとアンネリーゼの間には敵意にも似た隔たりがある。そのためアンネリーゼがやってくると、緊迫感が部屋に満ちるのだ。
「看護婦を呼べばよろしいでしょう?」
「看護婦ならよくて、僕がいたら駄目な理由は?」
「集中ができないからですわ。看護婦が無理なら魔術師を残して。お義兄様は出ていってくださいませ」
「……」
「今すぐに」
命じるように言われ、アウレールは席を立つ。
魔術師の助手としてここにいる自分より、聖女のほうが地位は高いからだ。
出て行きがけに、アウレールはジェッソに目配せした。「ディートハルトを守れ」という意志を伝えたかったが、伝わったかどうかはわからない。
(アンネリーゼが癒すより、王妃が癒すほうが効果が高いとはね。聖女としての力ならアンネリーゼがずっと上なのに。手を抜いているとしか思えないじゃないか)
アンネリーゼはディートハルトを救いたくないのだ。
救いたくないだけならまだしも。
彼女がもっと積極的にディートハルトの死を望んでいるとしたら……?
(アンネリーゼの交友関係は昔から問題が多い)
第一王子の暗殺をたくらむ者とどこかで繋がっていても、アンネリーゼなら不思議はないのだ。
(――待てよ)
アウレールは自分の思いつきにぎくりとした。
ディートハルトを殺したいなら、本人に直接手を下さなくとも――。
今出て来たドアを振り返る。
ジェッソが死んだら、ディートハルトも死ぬじゃないか。
ディートハルトの治療は、ジェッソにしかできないのだから。
アウレールはドアの前で棒立ちになった。
まさかそこまではしないだろうという思いと、アンネリーゼならやりかねないという思いが交錯する。
現に、アンネリーゼはジェッソの疲労回復をろくにやっていなかった。疲弊しているジェッソを癒すことも陛下から命じられたのに、だ。
アンネリーゼの身辺を探ったほうがいいとアウレールは思った。ジェッソにはカレンベルク家から騎士を貸そう。すでに護衛騎士が付けられているかもしれないが、信用できる者かわからない。
(やることがどっと増えた……)
なんという仕事に乗ってしまったのだとアウレールは後悔しかかったが、もしアンネリーゼが絡んでくるなら、どのみち自分の仕事だ。
愛しいドロテアのまっすぐな瞳を思い浮かべる。
あの瞳をこれ以上、苦労で曇らせたくないから。
(僕がやらないとな)
アウレールがあれこれ思案していると、ドアの中で「いけん!」と短い叫びのような声が上がった。
次いで、ガタッと椅子が倒れる大きな音。
(まさかいきなりここで!?)
急いた気持ちでドアを開ける。
ジェッソは無事だったが、椅子ごと倒れたのか床に尻もちをついていた。アンネリーゼがその前に立っている。
「何事だ!」
「癒しのため触れようとしたら、魔術師が勝手に倒れたのですわ。殿下の癒しは終わりました。わたくしはもう行きますわ」
アンネリーゼはアウレールから顔をそむけると、出口に足を向けた。
「アンネリーゼ。殿下に何か声掛けを」
「物言わぬ相手に何を言えと?」
アウレールの言葉にふんと鼻先で笑って、アンネリーゼは部屋から出て行った。
「……」
アウレールは不愉快な心持ちでアンネリーゼを見送ったのち、気を取り直してジェッソに向き直った。
身体はどこも害されていないようだが、ジェッソは真っ青になってがたがた震えている。
「アンネリーゼが何か言いましたか?」
「いえ何も……」
「ならばなぜ、そんなに怯えているのですか?」
「アウレール様……せ、聖女は癒しの際、く、く、唇を用いますか?」
「はい?」
「癒しの際、せ、せ、せ、接吻するように唇を用いるのでしょうか?」
「――ああ!」
アウレールは合点がいった。アンネリーゼがジェッソに何をしようとしたかわかったのだ。なるほど、彼女ならまずこの手を使うだろう。
「口づけされました?」
「されてません! こ、このあたりで避けました!」
そうか、あわやのところで避けたはずみで、椅子ごと転んだのかとアウレールは理解した。
「なんですかあれはなんだったのですか。今まで全く触れてこなかったのにあれは一体」
「色仕掛けに決まってるでしょう。あなたを誘惑しようとしたのですよ。誘惑して魅了して、あなたを自分の思い通りに動かそうと」
「い、いろ……。なぜ聖女が」
「そういう子です」
自分にも仕掛けてきたことがあるのでと、心の中で付け足す。
「殿下がそこにいらっしゃるのですよ!?」
「意識があるとは思ってないでしょう」
「そういう問題ですか!?」
「本当にそうですね」
「殿下がおかわいそうです」
「きっととっくに気付いてらっしゃいますよ」
なんならジェッソには誘惑に乗るふりをして、アンネリーゼから情報を引き出してもらいたいまである。
(でも絶対に無理だろうな……)
青くなったり赤くなったりしながら腰が抜けたようになっているジェッソを見たら、これはもう断念するしかない。
「ジェッソ殿、のちほどゆっくりご相談申し上げたいことがあります。――たくさんあります。治療の域を出ることになりますが」
「治療の域を出ることとは……」
「いろいろですが……。そうですね、例えば魔法陣とか」
「魔法陣?」
「政治闘争は我々の領域ではありませんが、魔法理論なら専門ですよ。殿下がご自身で馬車に乗り込んだのではないとしたら、殿下はどうやって馬車まで行かれたのです? 誰にも知られずに」
「それは……」
「ご存知のことがあったら教えてください。証拠固めをしていきましょう。一歩ずつね」
アウレールはそう言って、唇を引き結んだ。




