おまけ短編② 愛しのヤスミン
婚約式から三ヶ月後のある日、ミアは所用でカレンベルク家に一時帰宅した。
「これ全部フローラ宛てですか。ドロテアお姉様」
話があるからと呼ばれたドロテアの執務室で、山と積まれた封書の仕分けを手伝う。ミアの婚約式を機に社交界デビューしたフローラの元には、聖女を娶るほどではないそこそこの貴族の令息から、お近づきの手紙がじゃんじゃか来ていた。
(予測はしてたけど、これほどなんて)
フェリクスの恋を応援しているミアとしては、まとめて暖炉に投げ込みたい気持ちだ。夏なので暖炉に火がないが。
「ドロテアお姉様は、フローラの縁談をどうお考えで?」
「頭の痛いところです」
「フェリクス殿下が――」
「夢のような話をしている場合ではありません」
ぴしゃりと遮られてしまった。
ドロテアにも第二王子の恋に協力してほしいのに、取り付く島もない。
「やれやれ、やっと終わりました。ごめんなさいね、ミア。手紙の仕分けのためにあなたを呼んだわけではないのですが」
「よかったですよ。危機感が湧きましたから」
これは、もっとフェリクスをせっつかねばならない。惚れた女も口説けない第二王子には困ったものだ。もう少し自分に自信を持てと言いたい。あの能力地位容姿で自信がないなんてもはや嫌味の域だろう。
――あのレベルの男性でも自信をなくすほど、フローラが素晴らしいとも言える。
当のフローラは今日も元気に聖堂で準聖女のおつとめだ。
ヤスミンの手紙によると、名家の令息目当てではない真面目な後輩が増えてきて、フローラも彼女たちのいいお手本になっているそうだ。
あのアンネリーゼですら毒気を抜いてしまうフローラだ。真面目でなかった準聖女たちだって、だいぶまともになったのではなかろうか。
そんなことを考えていると、ドロテアが引き出しから何やら名簿のようなものを出した。
「なんでしょうか? それ」
「あなたの侍女候補の名簿です」
「あー……」
以前から侍女をつけろとドロテアに喧しく言われていたが、逃げ回っていた。
公爵クラスの最上位貴族の令嬢ともなると、下位貴族の令嬢を「行儀見習い」の名目で侍女に付けるのが慣わしらしいが、行儀を見習いたいのは山育ちのミアのほうである。
「わたしにはシシィとヘッダがいますから~」
「部屋付きメイドの話はしておりません」
「あう」
「あう、ではありません。王太子妃となっても侍女なしで過ごすつもりですか?」
「あっはい」
「あっはい、ではありません!」
久しぶりにドロテアの眉間のしわを見た。
身重のドロテアに余計な心労をかけてはいけないと思い、嫌々ながら名簿を受け取る。
「あれっ。これ、以前受け取った名簿と違いますね」
ディートハルトとの婚約が調う前に見せられた名簿はほぼ地方の男爵令嬢で占められていたが、今回は子爵以上、ちらほらと伯爵令嬢までいる。
「王太子妃の侍女ともなると格式が違います。侍女は召使いではなく話し相手ですから、王族の侍女ともなると大変名誉ある立場です」
名誉ある立場だったのか。
第三王子の侍女は毎日庭を駆けずり回っているのだが。
「ということは、この名簿から決めたら結婚しても持ち越しですか……。あれ?」
ミアは名簿をめくる手を止めた。
よく知った名前があったのだ。
思わずドロテアの顔を見たら、我が意を得たりとばかりに満足気に微笑んでいた。
*****
ヤスミン・イエンシュ伯爵令嬢は重いため息をついた。
「どうしたの? ヤスミン」
隣で手当て用の綿布を切っているフローラが、心配そうに顔をのぞき込んでくる。
「ううん! なんでもないの。暑さにやられちゃって」
「少し休む? お水を持ってくるわ」
フローラはさっと立ち上がって、ヤスミンが引き止める間もなく倉庫部屋から出て行ってしまった。
夏本番。暑いのは本当だが、ため息はそのせいではない。
昨日両親から、準聖女を辞めて花嫁修業を始めるよう言い渡された。両親はヤスミンに理解があったから、そう言われるのは遅すぎるくらいだ。
聖堂に入ってもう四年。今までやりたいようにやらせてもらったが、ヤスミンももう十八歳だ。伯爵家の令嬢としては限界だろう。
(やっと楽しくなってきたところなのに……)
ミアとフローラがやってきてから一年あまり。準聖女たちの雰囲気はガラッと変わった。上位貴族の令息に近づきたいという下心を持つ準聖女は激減し、真面目に奉仕にのぞむ子と、王太子の婚約者となったミアにあやかりたいとやってきた子が半々くらい。以前よりずっとやりやすくなったことは確かだ。
(真面目な子が増えたから引き継ぎに問題はないけど……さみしいわね)
ヤスミンは作業台から顔を上げ、窓の外に目をやった。
聖堂の美しい庭園が、夏の日差しに輝いている。
ミアとお弁当を食べ、フローラと初めて会った一角が視界に入る。ここを離れることを思うと、胸がぎゅっとせつなくなった。
そのままぼんやり外を見ていたら、ふと誰かが庭園を横切るのが見えた。
(あら。フューゲル伯爵家の。……夏だわね)
フューゲル伯爵家の嫡男トビアスだった。彼は皮膚が弱い体質で、汗ばむ季節になると肌荒れを起こし聖堂に通うようになる。ヤスミンにとって彼は夏の風物詩のようなものだ。
視線を感じたのか、彼がヤスミンのいる窓のほうを向く。ヤスミンに少し驚いたようだが、軽く帽子を傾け会釈した。ヤスミンも会釈を返す。
聖堂に通うすべての令息が準聖女を引っかけにくるわけではない。トビアスは真面目だった。父親のフューゲル伯爵も真面目なたちで、宮廷で陛下に重用されていると聞く。トビアス本人も若手の注目株だ。
(貧乏伯爵家のうちと違って、躍進目覚ましい家なのよね)
トビアスは聖女を娶ることを許されるのではないかと言われている。
「同世代は誰も彼も結婚話ね……」
ヤスミンはもう一度重いため息をついた。
*****
「聖女とは結婚したくありません」
父であるフューゲル伯爵の提案をトビアスはきっぱり撥ねつけた。
持病の皮膚炎で聖堂通いの多かったトビアスは、独身の聖女たちの実態をうっすら知っている。彼女たちの一番の関心は、いかにいい家に嫁ぐかだ。今まで一度も聖女を娶ったことのない家に嫁ぐなど、彼女たちにとって屈辱でしかないだろう。
「そうか」
父親は無理強いしてこなかった。実直なフューゲル伯爵は、名より実をとるタイプだ。聖女と縁づく名誉より、家庭の安定を望む。
「望む女性がいたら言うといい」
「えっ……あっ……それは……」
「我がフューゲル家に釣り合う家の令嬢ならば、考えないこともない。いるのか?」
「いえ…………」
トビアスは言い淀んだ。
実は言いたい名前があった。同じ伯爵家の令嬢ならば、釣り合わないことはない。この父なら前向きに考えてくれるだろう。
しかし問題は、相手の令嬢がトビアスの想いなど何一つ知らないことだ。
彼女とは事務的な会話以外、一切話をしたことがないのだから。
完全なるトビアスの片想いである。こんなよく知りもしない男から結婚相手に望まれても、薄気味悪さしかないだろう。間の悪いことに、フューゲル家は聖女との婚姻を許されてしまった。聖女を望めるのになぜ自分を?と、訝しがられるに違いない。
(なぜって……好きだから)
いっそ正直にそう言えたらどんなに楽だろうか!
トビアスは女性が苦手だった。
とくに、恋愛に積極的な女性が苦手だ。化粧が濃かったりドレスがけばけばしかったりする女性も苦手だ。話し声が甲高くてやかましい女性も苦手だ。
しかし、すべての女性が無理というわけではないことは、皮膚炎の治療で聖堂通いをしているうちにわかった。
一人の準聖女が気になって仕方がないからだ。
彼女はいつも一人で黙々と仕事をしていた。ほかの準聖女が場違いな嬌声を上げている中で、まるで聖堂の部品であるかのように黙って手を動かしていた。化粧っ気のない顔も肩の下で切り揃えられたまっすぐの髪も、聖堂という清浄な場によく合っていて好ましく思った。
しかし、トビアスは彼女に声をかけることができなかった。
内気というのもあるが、準聖女を引っかけて弄ぶ貴族がいるため、彼らと同列になりたくなかったからである。彼らを軽蔑していたトビアスは、聖堂では不必要なまでにそっけない態度を通した。処置室で彼女に軟膏を塗られるときなど、心臓が大騒ぎであったにもかかわらずだ。
彼女の美点に気付いているのは自分だけと高を括っていたが、王太子の婚約者となった聖女ミアが彼女と懇意であったことを人づてに聞いた。
見ている人は見ている。いつ彼女を見初めて結婚相手に望む男が現れるかわかったものではない。いっそ自分が見つけたんだ!とふれ回りたいが、そんなことをしたらただの危ない男である。
しかし彼女も十八歳、聖堂もそろそろ引退だろう。声のひとつもかけておかなかったのが悔やまれる。しかし、かけたらかけたで引かれていた気もする。
募る想いを伝えたいと手紙を書いては引き裂き、また書いては引き裂き。
トビアスは今日も頭を抱える。
彼女が――ヤスミン・イエンシュ伯爵令嬢が引かないような、求婚のもっともらしい理由が欲しい。
*****
数日後の晩、ヤスミンは父親に書斎へ呼ばれた。
「大聖堂を辞してからの君の身の振り方だが」
ヤスミンは顔を上げた。もしや、はやくも嫁ぎ先が決まったのだろうか。
結婚相手に関して、ヤスミンは多くの要望を持っていなかった。父イエンシュ伯爵には「真面目で誠実な人」という、面白みのない希望だけ言ってある。聖堂で遊び人の御曹司をたくさん見てきたので、あの手合いだけは御免だが、あとはイエンシュ家の都合のいいように決めてくれればいいと思っていた。
結婚になげやりなわけではない。ヤスミンの両親も家の都合で結婚したが、今に至るまで夫婦仲に問題はなく、大変仲睦まじい。この両親が娘に酷い男をあてがうとは思えないから、全部任せておけばいい。
どこの家の令息の名を告げられるのだろうと思っていたら、父の口から出たのはとんでもない身の振り方だった。
「王城で、王太子妃の侍女になるのはどうか」
ヤスミンの頭の中で、王太子妃とミアが結びつくまでに、しばし時間がかかった。
*****
「ほんと、いきなり侍女にならないかだなんて。びっくりしちゃったわ」
カレンベルク家の庭園である。
木陰にしつらえられたお茶の席を、ミアとフローラ、そして招待されたヤスミンが囲んでいる。ドロテアは最初のうちだけ顔を出し、身重の体に夏の外気がこたえるからとすぐに屋敷に引っ込んだ。
「さっさと打診しないとヤスミンがお嫁に行っちゃうと思って。結婚しても侍女はできるけど、領地在住の貴族に嫁いだら無理だもん」
ミアはそう言ってムースタルトを口に運んだ。
あの日、ドロテアに名簿を渡され即決だった。「聖女ミア」に過剰な幻想を持っている令嬢では困るのだ。その点、気心の知れたヤスミンならばっちりミアの素をわかっている。
「大丈夫よ。嫁ぎ先なら宮廷貴族の家に決まったわ」
「えっ?」
「ええっ?」
ミアとフローラが同時に椅子から腰を浮かす。
「婚約者決まったの? 誰? 誰? 誰?」
「トビアス・フューゲル様」
「おおーっ! 切れ者の宰相が目をかけてる若手じゃないの!」
「すてき! ヤスミンにぴったりの真摯な方ね!」
「宮廷で躍進中のフューゲル家がなんでうちみたいな地味な家と縁組したがるのって思ったけど、私がミアの侍女に決まってすぐ申し入れがあったのよ。下の方の聖女と縁組するより、王家との縁が近くなるって算段じゃないかしら。納得の理由ね」
「そんな冷静な分析しないで、準聖女として働くヤスミンを見初めたってことにしようよ」
「そうよ。トビアス様は真面目な方だもの。一生懸命ご奉仕するヤスミンに好意を持ってらしたんだわ」
「そういう甘い夢を見るのはあなた方に任せておくわ」
ヤスミンは苦笑して、静かにお茶を口にした。
――近くトビアス怒濤の溺愛が始まることも知らずに。




