第16話:私は誰も好きになったことがありません
お風呂上りに髪をタオルで拭きながら、淡雪は猛に電話をかけていた。
夏休みとはいえ、こちらにも習い事や事情あり、毎日は会えない。
どうせなら声を聞きたくて、こうしてつい電話をかけてしまう。
内容は他愛のないことなのに、彼の声を聞くだけで淡雪の心は満たされる。
「ふふっ。そうなんだ、楽しいお友達ね」
『まぁね。バカばかりやってるけど、いい奴らだよ』
「友達付き合いっていいわよね。青春って感じもするもの」
彼と話をしていると、電話越しに聞こえてきたのは可憐な少女の声だった。
『兄さんー』
猛を呼ぶ声。
声だけでも素敵で、きっと美人何だろうと容易に想像できる。
『あら、電話中でしたか』
その声はおそらく妹の大和撫子。
シスコンな猛に負けず劣らずのブラコン気味な妹だ。
――妹さん。可愛らしい子なんだろうなぁ。
猛を呼びに来たので、何か用事があったのだろうか、と思いきや。
『お邪魔して、すみません。電話が終わったらリビングに来てくださいね』
「あ、あぁ。うん、後で行くよ。」
『――ふふっ。今日も一緒にお風呂に入りましょうね、兄さん♪』
それは淡雪の思いもしない爆弾発言。
――不思議な言葉が聞こえた気がするのは気のせい?
いえ、気のせいではない。
「一緒にお風呂に入りましょうね?」
『あ、いや、あのですね』
「これは何の冗談かしら。ねぇ、猛クン?」
『あ、あの、淡雪さん。違うんだ、これは、その……』
明らかに気まずそうにどもる猛。
動揺する彼に対して、驚きと悲しみと怒りが込み上げてくる。
「今、聞こえてしまったんだけど、妹さんと一緒にお風呂に入ってるんだ?」
『ち、違う。それは誤解だ、大きな誤解があるんだ』
「誤解ねぇ? ふーん、誤解なんだ」
どう誤解なのか事細かな説明をしてもらいたい。
「その件について詳しい説明は直に聞きたいわ。明日、会いましょう?」
怒りを声に出すこともなく、静かに淡々と淡雪は彼に告げた。
『淡雪さん。声がマジなんですが。お、怒ってる?』
「怒る? どうして私が怒るの?」
『……あ、あぁ。そうだよね、うん』
「変な事を聞くのね、猛クン。怒ってなんていないわよ」
『ぜ、絶対に怒ってるよ』
怯えるような小さな声で彼はそう呟くのが限界だった。
胸の内側から淡雪の中に芽生えたのは不機嫌な気持ち。
――そうか。そういうことなのか。
この感情の名前を淡雪はよく知っている。
「大和撫子。やっぱり、彼女が猛クンの好きな女の子なの?」
嫉妬と言う感情が再び淡雪の中に――。
これ以上はダメかもしれない。
猛への想いが強くなればなるほどに。
淡雪は彼を本気で好きになってしまう。
好きになっても、彼をどれだけ望んでも、立場はそれを許さないと言うのに。
「淡雪さん。最近、生け花の稽古は順調のようですね」
朝から祖母に呼ばれて淡雪は彼女と向き合っていた。
華道の稽古を見てもらっていたのだ。
「はい、お祖母様。家元にもようやく褒めてもらえるようになりました」
「あの方は認めた相手でなければ褒めることはありません。自信を持ちなさい」
「ありがとうございます。これからも精進します」
須藤かな子。
凛とした瞳、背筋伸びた姿勢のよさからは年齢を感じさせない。
彼女は須藤家で現在、一番権力を持っている。
グループ企業の会長職を務めているが、会社の事は父に任せ始めているらしい。
高齢のために、引退を考えているのだというのが世間の評価だ。
――お祖母様とお父さんの関係はただの親子と言うには複雑だわ。
本来であれば、父には姉がいて彼女が家を継ぐはずだった。
しかしながら、その姉は30歳を前に病気で他界。
逆に父はそれまでずっと男と言う理由だけで須藤家で肩身の狭い思いをしていた。
それが突如として、父は須藤家の跡取りになることになったのである。
だが、淡雪が生まれてからは祖母はすぐに淡雪を後継者に任命した。
親と子だと言うのに、父の事を必要な時にしか必要としない。
そんな経緯もあってか、2人の間には今も確執があるようだ。
「淡雪さんも高校生。まもなく、貴方にはこの須藤家の当主を務めてもらわねばなりません。その準備も進めていかなくては」
「……お祖母様。私にはまだその荷は重いのですが」
「気持ちは理解できます。ですが、覚悟だけはしてもらわなければいけません」
淡雪は生まれた時から次期後継者として任命されていた。
その宿命を背負う覚悟もできてはいるのだけども。
「何もかも一人で抱える必要はありません。貴方を支える相手も見つけましょう」
「……それは婚約者ということでしょうか?」
婚約者。
古風な言い方をすれば許婚。
過去、淡雪にもその話がなかったわけではない。
「私も齢60を過ぎました。世間的に言えば、まだまだ先は長いと思いますが、人間とは何が起こるか分かりませんからね」
それは早くに亡くした自分の娘の事を思い出してのことなのか。
――もしも、今、お祖母様の身に何かあれば……。
それは淡雪がいきなり当主になるということ。
須藤家と言う大きな家の責任を負わなくてはいけなくなるということ。
「私が生きている間にしなくてはいけないことがたくさんあります。特に須藤家の行く末には憂いを残したくないのですよ」
「はい。分かっています」
「貴方が卒業するころにはふさわしい相手を見つけておきましょう」
婚約者が決められる。
そうなれば淡雪に恋愛の自由などない。
個人的な感想とすれば、ついに来たかという感じだ。
「……淡雪さん。今、好きな男性はいますか?」
「え?」
お祖母様の問いに淡雪はふと猛の顔を想い浮かべる。
優しくて、居心地のいい安心感があって、頼りにしてしまう男の子。
淡雪の初恋相手――。
「いえ、いません。私は誰も好きになったことがありません」
だけど、淡雪は自分の気持ちを胸の内に秘めてそう答えた。
祖母は「そうですか」と短く答えただけだった。
「では、この話を進めても構いませんね?」
それはお祖母様なりに淡雪に対しての最後の確認のつもりだったのかもしれない。
「……はい。構いません。お祖母様、私に似合う素敵な相手を見つけてくださいね?」
淡雪は微笑みながらそう答えていた。
もう引き返せない。
――私は自分で好きな人を選べない。
これでいいのだ、これが須藤家のためになる。
その現実を“自分の意思”で受け入れた。
――なのに、なぜなんだろう?
胸の内側に深くトゲのようなものが突き刺さり、痛みを伴った。
「猛クン……」
彼の事を考えると心がすごく痛む。
それが恋の痛みだと、淡雪はまだ知らない。




