#61 クラウシフ そして砂粒は滑り落ちる
俺はハイリーの手をとって逃げ出すことを諦めた。
父伝いに出されたヨルク・メイズのご要望どおり、イェシュカに求婚して、級友から顰蹙を買いまくった。おかげでこれまで良好だったビットとの関係は破綻したし、ハイリーとさえぎくしゃくした。ハイリーとは、求婚を自分から取り下げた時点でこうなることはわかっていたが……彼女からも白い目で見られるのはやっぱり堪えた。
ヨルク・メイズは下手の横好きというか、つまらないシナリオを用意するのを好んで、しかもそれを俺に面白くさせてみろと無理難題をふっかける。筋書きがクソなのに面白くなるわけがないだろうがと、憤懣やるかたないながら、俺は指示通りに動いた。
父から習ったばかりのギフトの扱い方を復習しながら、イェシュカを口説いた。それまでは制御できずに、周囲にかすかな影響を与えるだけだった垂れ流しの力を、対象を定めて行使するのだ。なんとなく俺の思い通りになる、から、俺の思い通りにする、への転換。
吐き気がするような行為だ。あれほどビットを想っていたイェシュカは、俺と一緒にいる時間が長くなると、心をぐらつかせた。遅効性の毒のように、俺のギフトは彼女の心を変えていった。時間の共有、肉体的接触、体液の摂取、その順に対象の心を縛る強さがあがる。そこに術者への好感度が加わるほどに、影響が大きくなる。一度効果が現れ始めると、その好感度も相乗的にあがっていく。蟻地獄みたいな能力だ。
イェシュカをビットからかっさらう、クソみたいなヨルク・メイズ仕込みの筋書きをややこしくしてくれたのが、ハイリーだ。
彼女はヨルク・メイズのシナリオを面白おかしく盛り上げて、俺の心をかき乱してくれた。ハイリーのことは諦めると決めたのに、それがぐらぐら揺らぎまくった。
ハイリーは、それまで俺のことなんか男として見てませんって顔をしていたくせに、新月祭では俺にダンスを申し込んできた。泣きそうな顔で震えながら羽根を差し出す姿を見て、決心したことなんか捨て去ってその肩を抱き寄せてしまえば、どれだけ気持ちが楽だったかわからない。新しく用意したドレスで美しく着飾って、俺に思い出をくれという。よしてくれ、あの日、好きだと言われただけで俺は十分なんだという悲鳴が、喉元まで出かかった。
イェシュカと踊ったとき、ちゃんと笑顔でいられたか覚えてないくらい気持ちがささくれだっていて、帰宅してからはアンデルに八つ当たりして、最低の自己嫌悪を噛み締めた。
裏庭に置き去りにしたハイリーがどうなったか心配していたが、どういうわけかアンデルが支えてくれたらしい。だから、ハイリーの羽根を持つべきは、本人の主張通りアンデルだろう。
だが、アンデルにハイリーの羽根を手渡しながら、本当にそれがほしかったのは俺だと叫びだしたかった。まさか、悪ふざけの延長で贈ったあの青いリボンが、まだハイリーの手元に残っていたなんて。
そうやってハイリーはことあるごとに俺の決心をぐらつかせて、戸惑わせて、最後はあっさり振り切って前線基地に行っちまった。
もしや、お前、ヨルク・メイズの手先で俺を困らせるのが役目なんじゃないだろうな、ってくらいに俺の心はいたぶられた。無邪気でひたむきなハイリーに。
◆
イェシュカとの結婚は、互いに心から望んだものではなかったが――俺はさほど不満を感じなかった。恋愛感情はほぼなかったイェシュカだが、一緒に過ごしているうちに彼女の良さというものも気づかされて、想像していたより明るい結婚生活になったのだ。
イェシュカは気が利くし、アンデルにも優しい。ほとんど関わりが無かったにもかかわらず、俺の父を大事に扱い、葬儀のときは俺よりも嘆いてくれた。自分の家族には軋轢があって、素直になれない複雑なの、と語っていたが、本当は自分の家族にこそ、そうしてやりたかったのかもしれない。
彼女との結婚生活がはじまってすぐに、父は死んだ。大金を詰んで高い薬を買えばもう少し生きながらえたかもしれない。ケートリー家の援助もあってその分の金は用意できたはずだが、父は延命を望まなかった。かわりに俺に記憶の隠蔽をねだったのだ。
罪悪感に、堪えきれないのだ。やせ衰えた父は、そう、病褥で俺に告白した。
罪のない女二人の心を辱め、自分の心も上からめちゃくちゃに踏みにじられ、我慢してきたが、体が弱って心が弱ったそのころには、もうそんな気力も尽きかけていた。楽になりたいと望んでいた。
だから俺は父にやり方を教わりながら記憶の隠蔽に踏み切った。記憶の隠蔽は、意志の操作よりずっと簡単だった。重たい過去の軛から解き放たれて、父は安らかに逝った。
隠蔽のあとに思い出したが、当主しか知りえない、ユーバシャールの弱みとは何だったのだろう。封印した父の記憶を紐解こうとも考えたが、……天秤にかけて父の安息をとった。そんな後ろ向きな情報、急いで知る必要はない、と。そのまま俺は、ユーバシャールがメイズに対して抱えている弱みとやらを、すっかり忘れて思い出さなかった。
父が突然呆けたら、周囲が驚くだろう。面倒を見ている使用人たちはさすがに異変に気づく。そう危惧し、俺はようやく、なぜ、我が家の使用人が持っている財産に対して少ないかようやく理解した。なにかあったとき、記憶の操作をする対象が少ないほど、怪しまれない。ボロが出にくい。対処しやすい。
人手が足りない部分は、機械人形で補えばいいだけだ。
シェンケルの家は、さながら幽霊屋敷のようだ。正気なのは俺とアンデルくらいで、他の人間は俺の傀儡人形だ。
父の記憶を隠蔽してから、いっとき、誘惑に駆られることが増えた。自分の記憶を、思考を操って、父のように楽になりたいという。自分を肯定できないことが増えてきて、その頻度はますますあがっていった。
たとえば、はじめてイェシュカを寝台に押し倒したときもそうだ。彼女は処女ではなく、それを必死に弁解していた。
――あのときはビットを愛していたから、あの人と結婚するつもりだったの、でも今愛しているのはあなたなの、クラウシフ。あなただけ。
泣きそうな顔ですがりついてくる彼女を、そうするように仕向けたのは俺だ。本来だったら彼女は、ビットの隣でなんの心配もなく微笑んでいるはずだった。懐妊の喜びを分かち合う相手も、まがい物の夫である俺じゃなくて、堅物で誠実なあの男だったはずなんだ。
これまでだって失敗はたくさんしてきた。調子に乗って、後悔し反省したことも数知れず。だが、行き先が地獄だとわかっていてあえて悪路を進むほうがキツイのだと、初めて知った。
自分の行為に吐き気を催すことなんかしょっちゅうだ。
とくに堪えたのは、性交のあと嬉しそうに「赤ちゃんできるかな」と聞かれることだった。なにも言えず、彼女のやわらかな髪を指で梳くのが精一杯だった。
いっそ、これをやめちまってなにもかも打ち明けて、全部終わりにしたら楽になれるだろうに。そう思うのに、できなかった。彼女のほうが辛い目にあっている。本人はそれと気づいてなくとも。いまさら真実をぶちまけて、ヨルク・メイズからなにかしらの報復を受ける危険に彼女をさらせない。
イェシュカの実家のケートリーも、メイズ家御用達となった今、俺にはたくさんの人質がいるようなものだった。一度脅しに屈するとキリがないというのは確かだ。
それなのに、いつの間にか俺は、こう思うようになっていた。
子供は、ヨルク・メイズに対する忠誠を示すためだけに作ったわけじゃない。イェシュカが「子供はたくさん欲しいの、温かい家庭にしたいの」と希望し、俺も望んだ。彼女となら、力を合わせていい家庭ってもんが築けるんじゃないかと、いつからか明るい考えを持つようになったのだ。イェシュカの妊娠がわかってすぐには到底そう思えなかったのに。
きっと、いつでも優しくて、素直に俺に甘えてくるイェシュカに、張り詰めていたものを癒やされたからなんだろう。仕事が終わって家に帰り、彼女に出迎えられるとほっとする。そういう毎日の繰り返しに、俺は感謝するようになっていた。
イェシュカに俺がしてやれることはといえば、彼女が無事に出産を終えられる環境を整えること。生まれてきた子を慈しんで育てること。根本は間違えていたとしても、それ以外は彼女に誠実であることだ。できる限りそうしてやりたい、そうしなければと思うくらいには、彼女が好きだった。いつも明るくいてくれる、俺には過ぎた妻だ。もし、結婚相手が彼女でなかったら、シェンケルの家は毎日葬式の雰囲気だったはず。
◆
イェシュカの体調が安定してきたころだ。
俺は仕事にも慣れてきて、父が最後に手がけていたマルート鋼の輸入制限緩和に向けて尽力しているところだった。
マルートとの条件のすり合わせの対象は、鉄鋼品にとどまらない。輸入品の価格を下げ、大量購入したいというこちらの要望にぶつけるように、あちら側からは、魔族の死骸からしか採集できない、魔力を帯びた特殊な金属や鉱物、場合によっては牙や爪、毛皮などの購入の要望が出た。どれも、討伐に金も人手もかかる、おまけに危険度の馬鹿高い魔族どもの付属品だ。まとまった量を得たくても、魔族の都合もある――いつも希望通りにキューネル山脈の麓から沸いてくるわけじゃないからこっちは困っている――から、他にも補填できるものや、その討伐に必要な武具・物資の一部を提供してもらう約束を取り付けようとしているところだった。
マルートとは国境の一部を接しており、道路も通じている。だが、運搬に使う馬車――魔族出現の可能性があるキューネル山脈周辺を通過するため、魔力にあてられ非常時に不具合を起こす危険をはらむ自動車などの使用は避けるのが通例である――の車輪軸の幅が違い、マルート側のものがかなり大型のため、一部道路の幅を拡張しなければ、円滑な運搬は難しい。
馬車側の規格変更は他国と共通の規格を採用してるマルート側から拒否されてしまった。道を拓くときに金を渋って道幅を狭くした我が国の貧しさが、こんなときに明らかになった形だ。
あちらから、荷物の積み下ろしをする西部基地の前に、もう一箇所中継地点を設け、そこで馬車を乗り換えてはどうかという提案もあったが、それはプーリッサが受け入れられなかった。そのやり方では、基地以外にも警備に人手を割かなければならない。その後の交易も考えて道の拡張に乗り出したほうが、総合的に出費が少ないと。
道の整備だけではなく、運搬時の手続きの簡略化や、移動中の護衛任務など、軍やら商人の組合やらを巻き込んでの大会議を繰り返さなければ決められないことが多すぎた。
いっそヨルク・メイズがぱっと即断してくれたらそれに従うのにと思うくらい煩雑な手続き、面倒くさい会議ばかりだったが、彼はそちらに興味が無いのか、会議室に用意された席はいつも無人だった。ほとんどが、代理で参加した弟のレクト・メイズの決裁を得てものごとはすすんでいったのだ。
まあ、ものさしがぶっ壊れているヨルク・メイズが口出してきたら、決まるものも決まらないだろうから、これでいいのかもしれない。
そんなふうにどこか安堵しながら、疲れで凝り固まった肩をぐるぐる回しながら、城を出ようとしていた俺に、ヨルク・メイズからの呼び出しがあった。




