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#56 クラウシフ 弟について

 基礎が不安定な家は、いずれ歪みが生じ崩壊する。

 我が家の基礎は盤石で揺るぎなく、国の繁栄とともに更に大きくひさしを伸ばすはずだった。そう、幼いころの俺は疑いなく信じ込んでいた。


 ところがどっこい、我が家の基礎というのは凍土のそれで、気温の上昇とともに溶け出して緩み、断層をつくり、上に建つ古さだけが取り柄の家を真っ二つにさせた。


 国主たらぬ俺が自分史など書く必要はないが、もしその機会があったらきざったらしく序文にそう書いてやる。



 四歳のときに実母が死んだ。シェンケルの家宝の首飾り、その赤い石がよく似合う、華やかな顔立ちの女性だった。肖像画で見る限りはそうだ。俺自身の記憶はもうとっくに曖昧なものになっていて、声も思い出せない。


 彼女の葬儀には父の仕事の関係者がたくさん参列したものの、絶縁していた母の親戚はひとりも参列しなかった、らしい。

 それに関して、俺は式中、とある話を耳に挟んだ。子供ならわからぬだろうと思ったから、その大人たちは俺の前でもはばからずに噂話に興じていたのかもしれない。


 ――婚約者を捨ててまで結婚したのに儚いものだな。

 

 あとから知ったが、俺の母は結婚目前だった婚約者に突然別れを告げて、一年も経たぬ間に父と結婚したのだという。背後には父からの熱烈な求婚があったらしいが、それを情熱的な恋物語ととるか、尻軽な女と男の性的放埒ととるかは意見が分かれる。

 俺はしばらく、父と母は自分の愛を貫いたのだと受け止めていた。

 

 その二年後、父は母より十も年若な美しい女と再婚した。母の喪が明け――この忌中喪中の概念は、チュリカの風俗を引きずっているらしく今のプーリッサの風俗になじまない部分もあるが、慣習的にそしてやや形骸化して残っている――すぐに婚約し結婚した。


 あまりに素早い再婚だったので、新しい噂を聞く前から俺は「ああ、母は飽きられていたのだ」とがっかりした。幼少期は誰でもそうだが、自分の母親が世界で一番尊い女性のはずだ。俺の心としてはまだ喪は明けてなかった。


 継母との結婚で、やはり父の多情を指摘する噂話は多かった。

 父と言えば、容色に特別優れているわけではないが、三英雄の末裔とあって、出自だけで評価の対象となる人物である。声をかければうなずく女も少なくなかっただろう。


 結婚式は、父が再婚なので飾り付けも招待客の人数もやや控えめだった。

 やたら堅苦しい格好で親族席にじっと座っているなんて子供の俺にはできるわけもなく、さっさと抜け出し、教会の裏庭に出た。整えられた花壇の花をむしって虫をほじくりだしてやれば、少しは気が晴れるだろうと期待して。


 バラの木の前に到着すると、そこには先客がいて、腕を組んでなにやら悩んでいる様子だった。

 よく、見知った顔だ。


「ハイリー、どうかしたの」


 声をかけると、頭の高い位置でお団子に結われた赤髪の、残りのしっぽ部分を揺らして女の子が振り返った。困った顔をしている。


「クラウシフ。……遊んでいたら、ドレスを壊してしまって。お父様に叱られる。どうしよう」


 どんな遊び方をしたのかしらないが、淡い色のドレスのスカートに見事なかぎ裂きができていた。

 彼女とは、親たちの親交があったからよく顔をあわせて遊ぶ仲だった。どれだけおてんばか知っている。


「ころんだとでも言えば?」

「それじゃ私が間抜けみたいじゃない」


 むっとした顔をして、ハイリーがそっぽを向いた。


「ちゃんとごめんなさいといったら、小父さまだって、怒らないよ」

「そうかしら」


 ハイリーは「しかたないわね、正直は『びとく』だとお父様もいっていたもの」と一応の納得をしてみせ、にんまり笑ってみせた。


「ねえ、あなたの新しいお母さまとってもきれいね。素敵な人よ、きっと」

「本当のお母さんのほうが、きれいだったもん。ネックレスだって似合ってたもん。だからそんなに素敵じゃない」

「だってクラウシフのお母様を選んだお父様が選んだお母様なのよ、……あれ? と、ともかくそれで素敵な人じゃないわけがないでしょう?」


 そんな考え方もあるのか、と思いつつも、なんとなく飲み込めないまま、俺は肩をすくめてみせた。


「継母は継子をいじめるよ。昔話はたいていそうだ。悪い魔女って『そうば』がきまってる」

「じゃあ、いじめられたら私に言うのよ。わるいやつはみーんなやっつけてあげる。魔族をやっつけた始祖さまみたいに」


 胸を反らして得意げに、ハイリーは宣言した。


「自分でなんとかする」


 女の子に泣きつくなんて恥ずかしい。とくに幼馴染のハイリーには、どうしてもそうしたくなかった。友達のなかから抜きん出て運動が得意で、勝ち気で腕っぷしが強いこともわかっていたが、絶対に。自分が二番手で彼女にあと一歩のところでいつも負けるから、対抗心を燃やしていたのだ。普段は一番といっていいほど気が合うし一緒にいるのが楽しい相手だったが、剣や組手の稽古のときはいつも悔しい思いをさせられるから、そのときだけは、俺は彼女が嫌いだった。


「つよがっちゃって」

「うるさいな」


 からかうようににやにやされて、なんとなしに腹が立つ。腹いせに彼女の髪を飾っていたリボンを引っ張ったら髪が崩れてしまった。ハイリーが反撃に俺の頭をひっぱたいて、取っ組み合いに発展し、揃って親に叱られた。なんてことはない、よくある俺とハイリーの日常の一幕。いい思い出かもしれない。



 八つのとき、腹違いの弟のアンデルが産まれた。


 その少し前から、俺は家で肩身の狭い思いを、……することはなかった。想像していたのと違って、父は特別、新しい妻を可愛がったり俺を蔑ろにはせず、一定の距離を置いていた。家族に対してややよそよそしいくらいだ。子供の俺ですら気づくくらいだから、新しく我が家にやってきた年若い妻は、それを肌ではっきり感じていただろう。


 家の中でよく、彼女が人目を忍んで泣いているところを目撃した。見るに堪えないから、声をかけて、メイドからもらった菓子をわけてやったりしたのだが、そうすると彼女はかすかに表情を明るくして、小鳥のような声で本を読んでくれたり歌をうたってくれたりした。


 当時の俺は知るよしもないが、妊婦というのは情緒不安定になることも多く、そういうときこそ父がそばにいて然るべきだったのだが、父はそうしなかった。仕事で忙しくしていたし、そもそも新しい妻にさほど関心がなかったのだろう。

 そのおかげで俺は、懸念していた継母との確執などは生まれず、むしろ良好な関係を築いていた。


 俺に対して父は、嗣子としてシェンケルを継ぐからには必要な教養があるといい、早くから家庭教師をつけて、様々なことを教え込んだ。作法や剣技だけではなくて、歴史や(まつりごと)のなんたるかまでだ。そういうものに興味関心があったからよかったが、そうでなかったら苦痛に思うほどだっただろう。

 余談だが、アンデルにはそういった学舎での勉学の他に家庭教師をつけようとしなかったのは、父の中で、産まれた順番も性格も、あいつはシェンケルの後継者にむかないという判断があったからなのかもしれない。


 さて、アンデルが産まれると、ちょっとだけ家の中が明るくなった。赤ん坊の泣き声は、周囲を元気にさせるらしい。俺も、弟というものがはじめてだったので、生まれるのを楽しみにしていた。口には出さなかったが。


 生まれたてのしわくちゃの干しぶどうみたいな弟は、見た目はまったく可愛くなかったし、乳臭さにも慣れなかった。だけど変な動きばかりするのは見ていて楽しかった。


 その小さな生き物に心奪われたのは、幼馴染のハイリーだ。休息日のたびに、俺とちゃんばらをして遊んでいた彼女は、庭で模擬試合用の剣を振り回すことしか興味がない態度だったのを改め、うちにくるたびアンデルの様子を確認するようになった。


 ベッドの端に顎を乗せてじっと、眠る赤ん坊を観察する。緑の目を輝かせ、宝物でも見るように。ほとんどなんにもしない赤ん坊の観察のどこが楽しいのかわからないし、せっかく、その週の家庭教師に習った新しい技術を披露しようと思っていたのに付き合ってもらえない。そのことに腹をたて、俺は拗ねた。


 ハイリーに「外へ行こうぜ」と誘いをかけたのに「やだ」とすげなく断られたときは本当に悔しかった。

 だから俺たちが中等部にあがってしばらくして、多少しゃべれるようになったアンデルから「ハイリーと遊びたいな。いいなお兄ちゃんは毎日会えて」と寂しそうに言われたとき、ああ、アンデルもあのときの俺と同じようなヤキモチを焼いているのだと感じて、ニヤニヤした。


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