#30 ハイリー 二度目の恋
瞬時に乾いた喉を通る声は、嗄れていた。
「あの……どうしたんだ、クラウシフ、急に」
「ずっと考えてた。物心ついてからずっとだ。将来、俺が家督を継ぐとき、隣にいるのはあなただと」
「その変な呼び方はやめろ」
怖気ともちがう、ぞわぞわとしたものがみぞおちにたまって、私は身震いした。ここにきて手を引き抜こうとしたが、クラウシフの手に阻まれる。なぜ追いすがるように手を掴む?
「ほ、……本当にどうした。なにかあった? どうして急に結婚の話なんか。……ああ、まさか小父様の具合がよくないの?」
「それもあるが、それだけじゃない。学級内にだって他にも何人も結婚を決めたのがいるだろう。俺だってもうそれなりに意識してきた。父のことはただのきっかけだ。お前は一度も意識しなかったのか」
「するわけないじゃないか」
だって私は、結婚などありえないととうの昔に言い渡された身だ。だからこそ軍に入ると決めた。理由は教えてないが、私に結婚する気がないことくらい、クラウシフだって知っているはずなのだ。ずっと一緒にいて節目にはあらゆることを相談してきたのだから。
その友人に急に求婚されて、混乱しないわけがない。
「ハイリー、俺の妻になってくれ」
新手の冗談か? 振り返ったら、彼の友人がにやにやして見ているような、たちの悪いやつだ。そう思ったが、周囲に人の気配はなく、あるのは自分の手をとってまっすぐにこちらを見つめてくる男の気配だけだ。
「……私は、軍に入ることが決まってる」
「そばにいてくれ。俺のそばに、今までみたいに。今までよりももっと近くに」
「だから、クラウシフ、私は」
「俺と一緒にシェンケルの家を守り立ててくれないか、頼む。俺はお前に愛されたいんだ」
テリウスに横面を張られて、脳が揺れたときを思い出した。
頼む。
真剣なクラウシフの眼差しに背筋を焼かれる。切り結んでいてだんだん本気になってきて、余裕がなくなったときの顔だ。そのときだって軽口を叩くような自信家の男が私の愛を請う? なんの冗談だ?
あの日自分を抱き締めた強い腕の感触が蘇る。
かあっと火照る頬に、高鳴る心臓、――だが、水滴がぽたりと頭頂に降ったように、冷静さが戻ってくる。
「……無理だクラウシフ、結婚はできないよ」
クラウシフの顔が歪んだ。傷ついて、苦しんでいるような。
きっと私も同じような顔をしていたんだろう。
「なぜだ。俺が嫌いか、ハイリー」
「そうじゃなくて」
「他に好きな男がいるのか」
「そんなものいやしない。わたしが最も親しい男友達は君だ。君のことは……その、……じゅうぶん好ましいし、別に、結婚がいやな、……わけじゃないんだ」
「だったらなぜだ。お前のことを父に話してもきっと断られると言われた。お前の兄上に話をしてみたが、そうしたら事情があるから小父上も絶対了承はしないだろうと」
「まさかそのことを話しに、兄に取り次ぎを?」
クラウシフは顎を引く。焦燥の表情で、立ち上がって私の手首を掴んだ。
「なあ、なにがいけないんだ。俺はお前のことを他の誰より愛おしく思っている」
正面切ってそんなことを誰かに言われたのは初めてで、しかもその相手がクラウシフだなんて。混乱した。不安になってそわそわして居心地が悪い。ただただ、悲しい気持ちになった。
「私にはそれに応える術がない。ギフトが強すぎて、子どもが産めないんだ。……君の家には跡取りが必要だろ。君の子が」
クラウシフの形の良い眉が跳ね上げられ、驚愕に目が見開かれた。
次の言葉がでない。クラウシフは強く私の手首を握ったまま、ぎりぎりと唇を噛み締めた。
説明なんか必要ないだろう。他の家のように養子をもらえばいいというわけじゃない。我がユーバシャールにも、シェンケルにも、ギフトを継承していく義務があるのだ。直系の子がどうしても必要になる。
「クラウシフ、君にはもっと素敵な女性との縁があるよ」
言い渡して、息が苦しくなった。
直前までちっともそんなこと思っていなかったのに、現金な人間だなと自分に呆れてしまう。当然のように今までそばにいたから、自分より近いところに別の伴侶を見付けたクラウシフの姿を想像することがなかった。自分がその席に座ることは想像してなかったにもかかわらず、――急に彼を遠く感じてしまって、まるで今生の別れのような気持ちになる。
じわじわ、目の奥が熱くなってきて、ああ泣きそうだと慌てた。
こんなタイミングで自覚する必要なかったのに。クラウシフが好きだったんだ、なんて。
手首を掴むクラウシフの手を引き剥がそうとした。
さらに強く引っ張られて体勢を崩す。
腕を突っ張るだけの余裕はあったのにそうしなかった私は、クラウシフの胸に抱き込まれた。ちょうど顎の高さに彼の鎖骨がある。組んず解れつ団子のようになって地面を転げ回っていた、幼い頃の彼はこんな匂いだっただろうか。香水なんて似合わない。なのに心臓がうるさい。
「父も、お前の両親だって説得する。諦めない。だが、もし認めてもらえないときは、俺と逃げてくれハイリー。頼む」
掠れた苦しげな声。
逃げ出せないほどぎゅうぎゅうに抱きしめられ、私は呻いた。青い空が網膜を焼くので、目を閉じる。
――イェシュカの言っていたことは本当だ。抵抗する気なんて失せてしまって、他のことがどうでもよくなる。先日抱きしめられてから、何度も思い出してしまったこの腕を、おそらく私はもう一度と求めていた。
「……どこへ?」
「どこへだって行けるだろう、お前となら」
「なんだ、とんだ無計画だな君は。大口叩いておいて情けない」
「お前はつくづく、男心のわからんやつだな」
呆れたような言い方をしておいて、なんで突き放さないのかわからない。しばらく考えて、彼は私の答えを待っているのだと気づいた。
逃げる。家のことやらなにやらを放り出して、どこかへ旅に出る。それはとても楽しそうではあるが、実現できるのか? すべてを捨てられるのか? 家族や未来や、これまで築いてきたもの。無理だ、と現実的な私が即座に結論をだす。
「考えておく」
口は勝手に違う答えを返していた。
ほう、と深い息を吐き、クラウシフがようやく身を離した。今まで話したことが冗談ではなかったというように、まっすぐにこちらを見詰めてくる。
「ひと月後、返事を聞かせてほしい。それまでにできる限りのことはする」
「わかった。……それより、手を放してくれないか。痛いんだが」
「悪い」
そのまますんなり放してくれるのかと思いきや、うやうやしく手の甲に口づけられ、あっけにとられた。誰だこの男は。私の知っているクラウシフ・シェンケルはこんなやつではない。いや、……ときどきだが、この顔を見てきたじゃないか。直近では、あの遠がけに行った日に。いつものにやけ顔を引っ込めて、真面目くさった顔をして。
「こういうのは、返事を聞いてからにしてほしいんだが」
「いい返事を期待してる」
ようやく普段のクラウシフに戻った。ぱっと手を放しておどけて肩をすくめる。
馬鹿者、鍛錬が足りない、耳が赤いだろうが。指摘すると墓穴を掘りそうなので、黙って階段を降りていく後ろ姿を見送った。
千切れた雲が霧散するのを眺め、私は深く息をついた。




