角ウサギのロティ アヴェルデワイン風味(10)
「とりあえず、この陣の中の時間の速度を速める。で、上の蓋にしているものはその影響を受けないようにするものだから、氷がとける速度は通常だ。溶けたら普通に取り替えるように」
「はい」
リアとディナンが嬉しそうに熟成している肉を見る。
「一週間経過させるのには、何時間かかりますか?」
「約二時間だ」
マクシミリアンはきっぱりと言った。
「ならば、今日の夕食に使えそうですね」
栞のその言葉に、マクシミリアンだけでなく同行したイシュルカもにっこりと笑みを見せる。
「…………その二時間の間、私とイシュはあちらのフロアの復元をする」
「はい。…………そういえば、さっきのアレ、どうでしたか?」
「ああ……シリィの予測した通り、巨大な魔生物がいた。市街地の真ん中まで来たところで次の活動に移る前に眠っていたから、そのまま大迷宮に送り返した」
「被害はなかったんですね?」
「ああ。最初の大きな揺れによる被害がほとんどで、魔生物による死者などは今のところいない」
その言葉に栞はほっと胸をなで下ろした。
「私はソーウェルさんと大食堂への差し入れと夕食の準備をはじめるので、二人は角ウサギの熟成肉をちゃんと仕上げて持ってくること。殿下、夕食は何人分必要ですか?」
「夕食は私とイシュだけでいい。可能なら夜食として五つ分のモーニングボックス的なものを用意してほしい」
「大丈夫です」
栞は笑顔でそれを引き受けた。
「イシュ、この森と融合している部分を包み込むように陣を張れ。とりあえずは維持で……他の状況を見て問題がないようなら時間を戻して分離する」
「はい。…………これほどの深度の被害は久しぶりですね」
「そうだな」
マクシミリアンが見たところ、厨房から倉庫にかけての空間が何やら歪んでいるのと電気が切れかけている時のように時折点滅するような光を放っているくらいで、いつもの『蝕』のように壁や床が溶けていたりすることはない。
だが、かなりの広範囲が森……おそらくはガデニアエリアの森……になってしまっていて、その浸食度合いの深さがわかる。
どこまで巻き戻せるだろうか? とマクシミリアンは眉を顰めながら、守護の陣を三枚、復元の為の陣を十八枚起動させた。
これらの陣の同時起動が可能だからこそ、マクシミリアンはアル・ファダルの総督に任命された。
旧王宮だったこの建物にはあらかじめ保全の魔術がかけられているが、あまりにも規模が大きくなりすぎるとすべて元通りというわけにはいかない。
(…………経年劣化の問題もある)
例えば、絨毯の色が汚れたままで戻すことができないとか、あるいは、壊れた家具類までは戻らない、とか、細部がうまく修復できなくなるのだ。
(魔術も万能ではないからな……)
伝説の大魔術師にして大魔導士たるディルギット=オニキスの術であったとしても、時の流れには逆らえないものだ。
だが、いつかのように、栞を恐慌に陥れるような巨大な虫が発生するようなことがなかったのは幸運だっただろう。
「……やはり、巻き戻すのに随分な時間を要しているようですね」
「そうだな」
いつもは見ている間にまるで早回しの幻灯を見るかのように復元していくのに、今日はとても遅い。
マクシミリアンは細かな修復を別の魔法を使いながら行い、イシュルカは復元が終わるまでの間、浸食をこれ以上進めることなく広げることもできない結界を維持している。
「……そういえば、殿下の先ほどの書きかけの報告書、興味深かったです」
「書きかけの報告書? どれだ?」
「シリィの言っていたという、『大迷宮』が、世界がため込んだ魔力を浄化するためのしすてむではないか、という仮説のです」
「私の体感として、それはほぼ正解のように思う。……大迷宮の王についての仮説もかなり真に迫っているのではないだろうか?」
「私もそう思います」
イシュルカは真剣な表情でうなづいた。
「……報告書の写しを実家に送っても良いでしょうか?」
「妖精族の里に?」
「はい。……里の古老たちならば、昔のことも昨日のことのように覚えていることでしょう。何か裏付けになる事実が出てくるかも知れません」
「わかった。許可しよう。代わりに、何かわかったら報告してくれ」
「はい」
「特に王妃陛下に最優先で見せて欲しい」
「……はい」
あの祖母が興味を持つだろうか? と一瞬考えたが、イシュルカ自身もエリュシュネリアがどう考えるかを知りたかったのでおとなしくうなづいた。
「……おや、何か焼いているようですね」
こちらにまで漂ってくるのは何かを炒めている匂いだ。
「大食堂への差し入れじゃないか? あそこの人間は人の食事を作ることに夢中になって、自分が食べることを忘れたりするからな」
「大食堂は人数が足りているはずなんですが」
「……シリィがここに勤め始めてから、いろいろなことが変わっていった────大食堂もそうだ」
「?????」
マクシミリアンが何の話をはじめたのかがわからなくて、イシュルカは首を傾げる。
「シリィが来る以前の大食堂は、とりあえず職員の腹を満たせすためだけに作っていた。今は違う。……今は、皆により美味いものを食べさせるために作っている」
「はい」
「だが、シリィ曰く『美味しいものを作るには手間がかかる』そうだ。今の大食堂の厨房はその手間を惜しまない場所になった。利用する職員の評判も良くなったし、食堂の職員のやる気も全然違う。その意欲に報いてやらねばならないだろう」
「…………適正人員の見直しをします?」
「そうだな。あと、給与の見直しを。昇給してやれ。…………でも、その前にディアドラスに追加人員をいれないとダメだろうな。そちらのほうがずっと急務だ」
「そうですが、ディアドラスのスタッフと大食堂のスタッフでは探し出す難易度がまったく違います」
「大食堂のスタッフを多く補充して、大食堂からディアドラスに移動させることは可能か?」
「無理ですね。……大食堂のスタッフではディアドラスでは働けません。魔力量が少なすぎます」
「それはわかっているんだが……それを言ったらソーウェルの魔力量だってそれほど多くはない」
「彼にはそれを補う知識と経験があります。……少ない魔力でも使い方のコツがわかっている。繊細な魔力操作ができるんです。でも、今、ディアドラスが必要としているのは二人目のソーウェルではありません。リアやディナンのようになれる人材が欲しいはずです」
「それはそうだが……」
「…………私の身内を推挙してもいいのですが……」
イシュルカが渋い表情をする。
「おまえの身内?」
「はい。……再従姉妹ですね。私の親族ですから魔力量にはまったく問題はありません」
「……問題なのは何だ?」
あんなに渋い顔をするのだから、何か問題があるのだろう。
「……味音痴なんです」
イシュルカは大きな溜め息とともにその言葉を吐き出す。
「……それは自覚のある味音痴か?」
「いいえ」
即座に否定したイシュルカにマクシミリアンは首を横に振った。
「ダメだ。……自覚の無い味音痴は勝手に余計なことをしかねない。厨房の和を乱す存在は百害あって一理なしだ」
「…………ですよね」
ふむ、とマクシミリアンは考え込む。
「それくらいなら、エミィ伯母上の子供達をあずかった方がいいかもしれない」
「エミィ様の御子といいますとナリス殿下ですか?」
「ああ。……この間、十歳になった。分別もつくし、大人ぶりたい年頃でもある。建前としては私の従士として預かるが、リアやディナンのようにシリィの元で育ててもらうのが良いかも知れない」
やや考え込んだイシュルカはしばしして口を開いた。
「市井の子供ならば丁稚として働き始めてもおかしくない年齢です。問題ないのでは?」
「そうだな。……伯母上と森村に相談してみよう。……おそらく反対はないと思うが」
「……わかりませんよ。エミィ様はあれで結構過保護なところがありますから。まあ、ご自分の封地をそうそう離れるわけにはゆきませんので、そうそうここまで顔を見に来るわけにもいかないでしょうが」
「どうだろうな」
そこは伯母の行動力を考えたら怪しい、とマクシミリアンは思う。
「ですが、最悪、大迷宮で待ち合わせればいつでも会えますし……他よりは安心できるのでは?」
エミィ伯母上…………王妹エルミリーアの治めるジュダルにも大迷宮への門はある。
「…………あまり嬉しくない待ち合わせだし、それのどこに安心できる要素が?」
マクシミリアンは思わず真顔で突っ込んだ。
イシュルカはからかっているわけではない。心底本気だ。本気で言っている。
「殿下ほどではないとはいえ、ナリス様も魔力は強いと聞いております。……ご自分の十歳の時を考えてください、殿下。大迷宮に潜ったって、何一つ心配する要素なんてありませんでしたよ。ルーシー殿下もです」
ルーシー────すぐ下の弟の名を出されてマクシミリアンは少しだけ考え込んだ。
「……いや、私と一緒にしたらナリスが可哀想だ。まあ、いずれルーシーくらいにはなれると思うが」
マクシミリアンは自分が人間の中の例外中の例外である自覚がある。
「ならば余計に早い方がいいでしょう」
「何がだ?」
「このままですと、シリィがここにいるのはあと一年です。できるだけ早くにシリィの元で過ごし、鍛えてもらったほうが良いと思います。…………幼くて頭が柔軟なうちのほうが覚えが良いと思いますし」
「…………あと、一年か…………」
マクシミリアンは、フロアから厨房の方を見やった。賑やかな声が漏れ聞こえるから、きっと何か美味しいものをつくっていることだろう。
「ええ。……正直、一年なんてあっという間ですよ。私は断固として契約更新を願います。殿下からもどうぞ慰留してください」
「ああ、もちろんだ」
だが、どんな風に引き留めればいいのかがわからない。
いつもタイミングをはかって、残って欲しいことを伝えようと思うのに、ことごとくそのチャンスが潰されてきているし、あるいは自分で潰してしまっている。
(情けない話だ。伝えたい言葉一つ、紡ぐことができないなんて……)
「私も、残って欲しいと伝えようと思います」
「え?」
マクシミリアンはイシュルカのその言葉に強い衝撃を受ける。
「……殿下、誤解しないでください。何も殿下の誓約者に求婚しようとか、そういう意図はありません。ただ、私は彼女を得がたい友であると思っているのです」
イシュルカはこれまで見たことのないマクシミリアンの表情に少しだけ目を見開いた。
すべての表情が抜け落ちたかのような驚愕の表情────もしかしたら、こんな顔にはこの先二度とお目にかかれないかもしれない。
だが、チャカす気にも笑う気にもならなかった。
何しろ彼女はマクシミリアンの誓約者だ。
ただ、誓約者という存在の重みを、改めて思い知っただけだ。
「……そうか」
マクシミリアンは目を何度かしばたたかせ、そして、少し安堵したような吐息を漏らす。
「……はい」
幼い頃から常に冷静沈着なマクシミリアンの珍しくみせた可愛げに、イシュルカは少しだけ面白い気分になってうなづいた。




