角ウサギのロティ アヴェルデワイン風味(2)
「あ、おかえりなさい、ソーウェルさん」
ソーウェルが戻った厨房は、外の変化が嘘のようにいつも通りだった。
多少、変わっている部分があるが、栞がのんびりと作業台で作業をしている。
「……何をしてらっしゃるんですか?」
「ちょっと、素材の仕分けを…………」
「素材?」
「……いえ、元に戻すまでのわずかな時間ですけれど、わざわざ潜らなくてもここに大迷宮があるのなら採取をすればいいんじゃないかと思いまして…………ちょっとリアとディナンに素材採取を勧めまして…………」
はは、と少し乾いた笑いを浮かべた栞がちらりと客席フロアの方に視線をやる。
どうやら、リアとディナンはそちらの方にいるらしい。
「……子供たちは、随分と張り切っているようで……」
ほほえましい、という表情でソーウェルは笑った。
結局、ソーウェルが戻る前に始めた大迷宮の素材採取は、三人一組で行われた。
時間にして一時間足らずだったが、その収穫は上々だ。
ほんの一時間足らずの時間でも、採取した草木は作業台の上に山と積まれている。
体力に限りのある栞は仕分け係に立候補し、今は種々の素材を種類別に分類し、記録をとっている。
「あーーー、ちょっと発破をかけすぎたというか……ブーランジェリーのほうはどうでした? 他にも被害がありました?」
最新式の魔力オーブンを入れたブーランジェリーは試験稼働中だ。
まだまだオーサはレストランの見習いのままだが、ブーランジェリーでホテル内で必要とされるパンを焼く業務をはじめたので、レストランの仕事の比重は下がった。
現在は、再びレストランにさらに新しい人員を補充するためにマクシミリアンが選考中だ。
外部からの応募だけは山ほど来ているらしいが、マクシミリアンの厳しい選考基準をくぐり抜ける者がほとんどいない。逆に、内部からの応募は厨房で求められるスキルの高さに恐れおののいて二の足を踏む者がほとんどだ。
「殿下が研究所で買い取りをしてくだされば、良い小遣い稼ぎになりますな」
「そうですね……まあ、ここで使う分くらいは私の裁量でも何とかなりますから…」
この厨房から出た食材にならないあれこれは、珍しいものはマクシミリアンの研究所に、一般的に流通している魔生物素材は個々の専門の探索屋や探索屋組合に卸されている。
それらの販売益はレストラン・ディアドラスとしてプールされ、折々に『報奨金』や『休暇一時金』などの名目で還元される。
それ以外にも、厨房やホテル内で必要とされる素材を持ち込めば、いつでも買い取ってもらえる。リアやディナンはこまめに持ち込むので、随分といい小遣い稼ぎになっているようだった。
にこやかな笑顔のソーウェルは、一息ついて周囲を伺うと、表情を引き締めた。
それだけで、栞は自分が大きいと思っていた以上に、『蝕』の規模が大きかったことを察した。
何がどう、というわけではないが、いつもの『蝕』とは違うように思える。
ソーウェルは、少し険しい表情で、やや声を潜めるようにして口を開く。
「……ブーランジェリーはさほど被害はありませんでした。ただ、ここと同じく浸食した樹木がオーブンにも入り込んだとかで、しばらくはオーブンの使用ができなさそうです。他の店も小さな被害が幾つかあったようで……。とはいえ、レストランフロアは、営業再開までは一週間もかからないでしょう。……ただ、客室の被害が著しく、今回は何カ所かで大きな復元をしなければいけないようです」
「…………しばらくは休業ですね」
半年先まで予約が埋まっていると言われるホテルだが、迷宮の上にある以上、いつ何時『蝕』が起こるかわからない。そのため、宿泊予約の際にはいつも『蝕』が起こった際の特別な条項について説明されているし、それに同意した者しか予約を受け付けない。
『蝕』が起こったためにホテル側から予約をキャンセルすることになってもペナルティは一切ない契約だという。
ちなみに、これはレストラン・ディアドラスも同じだ。その後の優先予約などは一切ないらしいので、随分と強気だな、と思ったが、こうなってみると当然の措置なのかもしれない。
面白いのは、宿泊中や食事中に『蝕』に遭遇した場合だ。
この場合は、『蝕』のせいでホテル側(レストラン側)からの途中キャンセルという形になるという。その場合、そこまでの費用は一切いただかないということになっている。
それがチェックアウトの五分前であっても……あるいは、食事がおわる五分前であってもだ。
ただし、『蝕』によって自身が持ち込んだものなどに被害があったとしても、それは弁償されない等のデメリットはあるのだが、中には『蝕』に遭うことを心待ちにしている者もいるという。
「おそらくは…………今回は随分と大きな蝕だったようで、街にも大きな被害が出ているようです」
ソーウェルは顔を顰めた。
迷宮都市と呼ばれるアル・ファダルにおいて、『蝕』は珍しい災害ではない。だが、だからといって被害がゼロということはありえない。
場合によっては、人の生命とて失われる。特に今回のように被害範囲が広い場合はさまざまな場所に影響が出ているだろう。
「…………最近、蝕が随分と多くなったような気がします」
栞はポツリと呟いた。
古くからの住人では無い…………異世界からの旅人にすぎぬ栞ではあるが、こちらに来た最初の年よりも二年目の方が『蝕』でレストランを休業することが多かったし、ここ最近は、休業にまでは至らない程度であっても、またか……と思うような頻度で小さな蝕を繰り返していた。
(……何か、理由があるんだろうか……?)
「それは、私も感じていました。殿下たちはとっくにその調査をなさっているのでしょうが…………」
「ええ。……でも、そもそもが『蝕』がなぜ起こるかのメカニズムがわかっていないそうで、調査してもなかなか結果が出ないのだとか」
「『蝕』の仕組みですか……」
「何らかの理由により、大迷宮がこちらの空間を侵食する、という現象だと聞いています。その原因はさまざまだということで、それなりに傾向はつかめているそうですが、決まり切った法則があるわけでもないそうです」
打ち合わせ時にマクシミリアンの雑談に良く付き合う栞は、探索者でもないのに最新の情報に詳しい。
「……例えばどういう時に『蝕』が起こるのですか?」
「大迷宮内の魔力が淀み、その循環作用に何らかの異変がおこって滞った時におこる『蝕』が一番多いのではないか、と」
「循環作用、ですか…………」
「魔生物が魔生物たるのは、その淀んだ魔力を取り込んで己のものとしたからです。で、それが凝ったものが魔石ですね。魔石となったことで淀みは昇華されますが、魔生物の数が増えすぎると魔生物があふれ出すそうです」
「大暴走…………スタンピード、ですね」
「はい。スタンピードも蝕の一つの形だと殿下は言っていました。で、魔生物が魔力を取り込みきれず、淀みが解消されなかった時、魔力が空間を侵食するのが『蝕』なのだと殿下は考えているようです」
「仕組みはわかっていないと言いませんでしたか?」
栞の説明は簡潔でわかりやすい。
探索者資格はあるもののそれほど専門的知識があるわけではないソーウェルにも理解できる。
「……そもそもの、大迷宮に魔力がどう発生するかがわかっていないんです」
そう口にしながら、栞は気付いた。
(たぶん、大迷宮自体が淀んだ魔力を浄化するための循環システムなんだ)
栞の脳裏に、マクシミリアンのものであろう知識が浮かび上がる。
地上の地図、そしておそらくは限られた人間しか知らぬであろう大迷宮の地図を重ね合わせる。
フィルダニアを囲む大国はすべて、国土の一部が必ず大迷宮と重なっている。
門がなくとも地下に大迷宮があるのならば、他国でも『蝕』の被害はあるのだろう。
「……ソーウェルさん、大迷宮以外に迷宮ってあるんですか?」
「ありますよ。大迷宮が有名なのは、とれる素材の豊富さゆえです……他の国にも独自の迷宮は存在します」
(……すべての迷宮がつながっている、なんてことはあるんだろうか?)
可能性はある、と栞の脳裏に落ちてくる答えがある────それは、マクシミリアンの知識から導き出されたものだ。
繋がっていること自体はいつだって忘れたことは無い。だが、こういうことでもそれが作用するのか、と知る機会が多くなった。
(……インターネットの検索機能みたいな感じかも)
自分のものではない知識が答えを導き出すのは、不思議な感覚だ。
「…………何らかの理由で生まれた魔力を浄化するための循環システムが、『迷宮』なのかもしれません」
手を動かして枝から葉をむしりながらも、栞は言葉を続けた。
「……魔力をそのままに貯めてしまうと、『蝕』のような災害を引き起こす。その貯めた魔力量が多ければ多いほど大きな『蝕』を引き起こすとすれば、魔生物が生まれることはそれを回避するための手段なんです。……そういうシステムであることを知ってか知らずか……いいえ、経験則としてわかっていたんですね。フィルダニアの王族が討伐を自分たちの義務としているのは、きっとそういうことなんです」
特にこのアル・ファダルの総督であるマクシミリアンは暇さえあれば大迷宮に潜っている。
なまじ、転移魔法の使い手であるがために、散歩のような気軽さでたった一人だけでも往復できるのが災いしている。
「『大迷宮の番人』を我が国の王家が名乗るのは、『蝕』を減らすための影の努力をしているから、ということなのですね」
ソーウェルは、心なしか誇らしげな表情で「我が国の王家」と口にした。
「はい。……でも、よくできているシステムです。淀んだり貯まったりする魔力が増えれば、魔生物の数は増えるし、強い個体が増えることで対応している。それもこれも、魔生物が魔力をとりこむことで成長していっているからですね。……それが討伐されることでそれらの魔生物が取り込んだ魔力は昇華される。魔生物の素材は、魔石も含めてそれらの魔力の結晶のようなものなのかもしれません」
「では、最近蝕が多いのはなぜだとヴィーダは考えますか?」
「別に討伐をサボっているわけではないと思うんです。……殿下方が以前より潜っていないというのならともかく、そんなことはありません。むしろ、魔生物の需要が増えたせいで、殿下方のみならず大迷宮に潜る人の数はかなり増えている────ならば、貯まる魔力のほうが増えているということです」
「つまるところ、原因は貯まる魔力の量、ということになりますね」
「そうです」
「問題は結局、魔力がなぜ生まれるのか、ですか…………」
「はい。根本的にはそういうことになります。今の状態は、もしかしたら魔力がオーバーフローを起こしかけているのかもしれない」
「おーばーふろーとは?」
翻訳されなかった言葉にソーウェルが首を傾げた。
「たまりすぎてあふれ出すっていうことです」
「大迷宮に潜る人が増えたことが…………魔生物の数を減らしていることがその原因ということはありませんか?」
「……たぶん、ありません。……だって、あれほど心配したフランチェスカだって、絶滅はしていないんですよ? むしろ、色の違う種が発見されたり、別のエリアの水辺でも発見されたっていう話もあります」
「でも……確か、湖の新たな主はまだ確認されていないとか?」
「はい。ですが、あの湖はレア種が多く見られ、エリアとしての危険度が段違いにあがっています。落ち着くのに何年かかかるのだと思います。…………それに、大迷宮全体をシステムとして考えるのならば、水竜でなくてもいいんです」
個々のエリアの生態系で考える必要はない。
大迷宮という大きな一つのエリアで考えるのならば、ぼんやりと見えてくるものがある。
「……随分と面白そうな話をしているな、シリィ。私にも聞かせてくれないか? ついでにプリンが食べられると疲れている私へのご褒美になるな」
イシュルカとグレンダードを従えたマクシミリアンが、にこやかな笑顔でやってきた。
「今日のディナー用のプリンは無事でしたから大丈夫ですよ。今、お茶いれるので、ちょっと代わりにこれむしっててください」
立っている者は親でも使う、と豪語するのが栞だ。
雇い主の王子であり、かけがえのない誓約者であったとしても、そこから逃れることは出来ない。
「……わかった」
マクシミリアンが素直に栞の代わりに枝から葉をむしりはじめたので、イシュルカもソーウェルに教えてもらいながら手仕事をはじめることになった。
護衛なのだろう。グレンダードは勧められた椅子を断り、マクシミリアンの背後の壁に立った。




