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ポドリーのグリエ 旬野菜のエテュペ添え(15)

 オーサは、テーブルの上に置いた箱に向き合うように椅子に座った。

 何の変哲もない紙の白い箱だ。

 レストラン・ディアドラスでは朝のサンドイッチ用のボックスとして使っているもので、細い紙の帯で封がしてある。

(……保存と封印)

 それは、とても繊細で高度な術だ。

 リアとディナンは当たり前のように使っていたけれど、オーサにはできなかった。

 紙封に触れるとほんの少しだけ指先がピリッとしたけれど、気にすることなくそれを剥がす。

 蓋を開けたら、ふわりと香ばしい香りと温かい空気がこぼれた。

「……いい、匂い……」

 ぐーっと腹の虫が鳴いた。

 そんな感覚も何だか新鮮に感じた。

 随分と自分の意識は鈍くなっていたのだろう。

 大きく息を吸い込む────久しぶりに、腹が減ったと思った。

 引きこもっていたここ数日は、腹が減っていると感じるのに食べ物を前にしても食欲がわかなかったし、好物を口にしても美味しいと思えなかった。何を食べても、何を飲んでも、味がよくわからなかったのだ。

 なのに……今は違う。

 もう一度、腹が大きく鳴った。


(……ヴィーダが俺の為に作ったってディナンは言ってたけど……)


 箱の中にあるそれは、見た目はいつも朝食用に作っているバケットサンドだ。

(これ……じじいが焼いたバケットだ)

 ディナンが焼くものより焼き色がやや薄いバケットはエルメ老人の焼いたものだった。

 ブーランジェリーの為にパン工房が作られてからは焼いていないとはいえ、レストラン・ディアドラスでもバケットは焼ける。

 けれど、レストランで焼いたものは、やはりパン職人だったエルメ老人が焼くものとは違う。

 このバケットは、そもそもは栞から教わって焼いたものだ。でも、パン焼き職人五十年以上の経験を持つエルメ老人のほうが、自分よりずっと上手に焼けるのだと栞は言っていた。

 どこが違うのかと問うたオーサに栞は、二つ絶対的な違いがあると言った。

(焼き色とクープ……)

 エルメ老人が焼くと表面の焼きムラがあまりない。……それから、クープと呼ぶパンの切れこみの美しさ。エルメ老人がつける均等で美しいクープは、何個作っても判を押したように変わらないのだ。


「……いただきます」


 手を合わせ、掠れる声で呟いた。

 栞が毎食ごとにそんな風に食べるものだから、リアとディナンはいつもそれを口にする。

(……いつの間にか、俺にもうつってた……) 

 そんなことに気づいて、何だか目元が熱くなった。

 それを飲み込むようにして、バケットにかぶりつく。

 半分に切られたバケットはどうやら味が違っているらしい。

 野菜が挟まっていないものから口にした。

「うわあちっ……」

 瞬間、ひどく熱いような気がして慌てたが、火傷をするほどではなかった。

 むぎゅっと口の中で独特の蝕感がする。

(……ポドリーだ……)

 オーサが一番最初に下拵えに失敗した食材。

 そして、出勤したら一番最初に挑戦しなければいけない食材だ。


「……うまい……」


 口の中に広がるバターの風味の中にまろやかなしょっぱさがあり、黒胡椒がピリッと舌を刺激する。

(何だろう? このしょっぱいみたいな味って……)

 生臭いわけではなく、どことなくまろやかで、塩気が強くて独特の香りがする。

 熱さに注意して二口目を食べる。胡椒はどうやらバケットに塗ったバターに使ってあるらしい。

 三口目を食べて丁寧に咀嚼してみてもそれが何の味なのかはわからない。夢中で食べるうちに全部食べきってしまい、残念な気持ちになる。

(もうちょっと食べたいって思うくらいで、ちょうどいいんだよって、ヴィーダ、言ってたっけ……)

 しばらく会っていないのに、記憶は鮮明だ。

 特に、その声をよく覚えている。

(いろんなこと、教えてくれてた……)

 パンのこと、素材のこと……誰が取って来たのか、どこでとってきたのか……そんな他愛ないおしゃべりで、自分はただ聞いていただけだけど……。

(何てことない雑談だと思っていた……)

 でも、こうして今考えてみると、それすらも大事な教えなのだと思える。

 どこで採れたのか、とか、誰がとってきたのかとか……。

 産地はより素材を知るために必要なことだ。素材によっては産地で味が違うし、誰がとったかがわかっていると次にその素材が必要になった時にまた頼むことができる。

(ほんと、馬鹿だったな……俺……)

 それから、もう半分を手にした。

 さっきの反省を生かして、気を付けながら端っこをかじる。

 ややぬるいクリームが、口の中にはみ出した。

(……セーーフ)

 チーズの味がとても濃いクリームだ。さっきと同じ勢いで口にしていたら、間違いなく大やけどをしただろう。

 クリームの中にむぎゅっとした歯触りがある。不思議に思ってもう一口かじった。

(……これも、ポドリーだ)

 バケットにはさまっているのは、さくっとした衣の中にとろりとしたチーズクリームを詰めたものだ。

 クリームの中には甘い玉ねぎとむぎゅっとした面白い歯触りのポドリーが混ざっている。

 一緒に挟んであるしゃっきりとした千切りのキャベツには甘酸っぱいソースとかすかに檸檬の香りがするマヨネーズがかけられていて、口の中でその全部が組み合わさるのが最高においしい。

(……これ、何ていう料理なんだろう?)

 夢中でかじりつき、あっという間に食べきってしまった。

 そして、口の中に残る余韻を噛み締めながら、濡れた目元を拭う。


 もう腹は鳴らない────でも、何かが足りなかった。

 どこかが乾いているような……あるいは、飢えているような感じがしている。

「……じじいに謝らなきゃ……」

 エルメ老人は、もうずいぶんな年齢だ。

 一度引退したのを、プーランジェリーの責任者になるべく選ばれたオーサがあまりにも若かったので、その監督役として特別に復帰してくれたのだと聞いていた。

 オーサがさぼっている間、一人でパンを焼き続けるのはさぞかし疲れることだっただろう。

(たぶん、手伝いの人間はいただろうけど……)

 でも、専門知識がなければ大変なことはたくさんあるし、いちいち教えるのも大変だっただろう。

 専任の人間じゃない者が手伝いに来るというのは、毎回、同じことを教えなければいけない可能性があると言うことだ。いっそ自分でやった方が楽だと思うことがたくさんあったに違いない。

(……ごめん、じじい……)

『年寄りには堪える』が口癖のエルメ老人だ。いつも聞き流していたけれど、それはきっと事実だっただろう。

 いつの間にか、上から目線で見るあまり、自分はあたりまえの気遣いさえできなくなっていたのかもしれない。

 それから、見当違いの憎しみすら抱いていた栞のことを思う。

(……すいません、ヴィーダ)

 自分はいずれブーランジェリーの責任者になるのだと思うあまり、随分と失礼な態度をとっていたような気がする────こともあろうに、マクシミリアン王子の誓約者にだ。

 ソーウェル、リア……それから、ディナンにも謝らなきゃいけない。

(……とりあえず、顔を洗おう)

 顔を洗って身なりを整え、気合を入れようと思う。

 自分は随分と時間を無駄にした。

(もしかしたら、赦してもらえないかもしれない……)

 でも、そうしたら赦されるまで何度も謝罪を繰り返そう。

 きっと、信頼も失った。

 取り戻すには、随分な時間がかかるだろう。

(でも……)

 でも、もう諦めるわけにはいかない。

(俺は……)

「……俺は、今日食べたバケットサンドを自分で作れるようになりたい……」

 口に出して宣言した。

 己の声はどこか頼りなく響いたけれど、口に出したことで、改めてその目標がはっきりしたように思える。

 自分で下拵えをして、自分で具を調理して、そして、自分で焼いたパンに挟むのだ。

(そして、いつか今日食べたのよりも美味しいバケットサンドを作れるようになる)

 その目標を、頭の芯に……あるいは心の底に刻み込んだ。

(プーランジェリーの責任者になれなくてもいい。……いや、俺には責任者なんか無理だ)

 職人として独り立ちもしていないのに、責任者なんかできるはずがなかった。

 それに、今の自分には責任者になるよりももっと大切なことがある。

(……美味しいパンが焼けるようになりたい)

 まずはそこからだ。

 一人前のパン職人の顔をしていたけれど、自分にはきっとまだまだ足りないことがたくさんある。

 だから、エルメ老人にはまだまだ教えを請わなければならないだろう。

(申し訳ないけれど、一人前にパンが焼けるようになるまでは、レストランでは下働きだ)

 それまでは、レストランでは下拵えの手伝いくらいしかできないだろう。

 いや、もしかしたらそれすら満足にできないかもしれない。

(でも……)

 きっと、ヴィーダは理不尽に怒ったりしない。

(じじいは怒るだろうな……)

 エルメ老人の怒り顔が目に浮かぶ。

(でも……)

 でも、もう自分は絶対に諦めない。

(もう、逃げない)

 オーサはぎゅっと唇を噛み締めた。

 

       ◆◆◆◆◆◆◆


「どうしたの? ディナン」

「んー、来ねえな、と思って……」

 ディナンがチラチラと厨房の通用口のほうを見ているので、リアは答えがわかっていたけれどあえて訊ねた。

「……来ると思ってるの? もう一週間サボってるんだよ?」

 名は出さずとも、誰のことかはわかっている。

「来る! と、いいな、と思ってる。……一応、さっき出前もしてきたし……」

「出前?」

「さっき、ランチで食べたバケットサンド、あいつのとこにも届けてきたんだ」

「ええーー、そんなことすることないしーーー!」

「いや、だって、下拵えは人数いたほうがいいじゃんか」

「ヤル気ない人間いるほうが迷惑!」

「いや、あいつだってがんばってると思うし……せっかく、ヴィーダに教えてもらえるんだから、もったいないだろ」

「そのもったいないことをずっと彼はしてたわけ。だから、私は別に他の人でもいい。ソーウェルさんいるし……」

「そう言うなよ。……オーサが戻ってきたら、おまえも変な態度とるなよ」

 ぷいっとリアはそっぽ向いて付け加える。

「……私はもうオーサの手伝いはしないから」

何が気に入らなかったのかわからないが、リアは随分と腹を立てているらしい。

(うわぁ、前途多難だ……戻ってこれんのかな、あいつ)

 しょっぱなから、問題になりそうな気配が満々だ。

「……ぶっ」

 こちらを向いていたリアがいきなり変な音をたてて噴き出した。

「リア?」

 何事だ? という表情をしたディナンに、堪えようとしながらもこらえきれず、どうしようもない変顔で笑うリアは背後を指さす。

「え?」

 振り向いたディナンは目を疑い、思わず噴き出した。

「……なんだよ、それ!」

「……だって、ヴィーダの御国ではこれが反省の証だって……じじいが……」

 きれいさっぱり刈り上げてしまった頭を情けなさそうに触るオーサが立っていた。

「……へ、へん……それ、すごくへん」

 怒っていたはずのリアだが、それどころではないらしい。

「……わかってる。でも、ケジメだって、じじいに言われたし」

「おししょーは、まだ来てないけど……」

「殿下のところでお会いした……後から来るって」

 オーサはどこか居心地悪そうな表情で言う。

 もしかしたら栞にも大笑いされたのかもしれない。

「……許してくれるって?」

「……うん。当分、下働きだけだけど……でも、もう手伝いじゃないから」

「……あっそ」

「……本当に、ありがとな」

「ん」

 口ではそっけなく言ったが、ディナンは少しだけ嬉しかった。

「ここでは俺が一番下だから、何でも言いつけてくれていいから」

「りょーかい」

「……とりあえず、ポドリーの下拵えはじめたら? いっぱい必要でしょ……」

 気を抜いたらまた笑いだすだろう微妙な表情でリアが言う。

「そうだな」

「わかった」

 二人は顔を合わせ、互いにうなづきあうと準備されていたポドリーの山に向きあった。

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