ポドリーのグリエ 旬野菜のエテュペ添え(12)
「あー、おししょー、オーサ、今日体調悪いから休むってさ」
ディナンが何度目かになる言葉を口にした。
「え? また?」
「うん。まだ、ダメっぽい」
「……そう」
栞は小さな溜息をつく。
ディナンには、昨日くらいからその溜息にはどこか諦めの雰囲気が入ってきたように感じられる。
(……オーサ、おまえ、ヤバいぞー。おししょー、この手のことには厳しいんだぞー)
ディナンは我が事ではないものの、嫌な予感がして頬が引きつった。
ポドリーの下拵えに挑戦した日から三日間、ことごとく失敗を繰り返したオーサは、どうやら嫌気がさしてしまったらしい。
ここ数日、体調が悪いと言ってディアドラスの厨房に姿を見せない。
一応、ディナンが朝、オーサのところに行って、一緒に行こうと誘うと具合が悪いから休むと返すのでかろうじて無断欠勤にはなっていない。が、だからといってこんな風にフテ腐れて休み続ければ戻ってくる場所はなくなるだろう。いや、もしかしたらもうないかもしれない。
(おししょーは、そこらへん、全然、甘くないぞ~)
確かに、栞は怒らない。
厨房の中で声を荒げたこともない。
声を張ることはあっても怒鳴ったりはしないし、何か失敗しても怒ったりしない。
だから、オーサは誤解しているかもしれない……とディナンは思う。
(おししょーは、真面目に頑張っている人間には怒らないし、失敗しても努力を認めてくれるけど、それは甘いのと違うんだぞ~)
リアがステーキで、ディナン自身が魚のポアレで大量の不良品を作り出し、さんざん愚痴っていたのをオーサは聞き流していたんだろうか? とディナンは不思議に思う。
(……いや、オーサは、あれでおししょーを甘くみたのかな)
イルベリードラゴンの肉をあんなにも大量にダメにしても怒らなかったし、ディナンがドラゴンには劣るもののかなり高級な材料であるアレッタ鱒を二山くらいお客様に使えなくしても怒らなかった。
むしろ悔し泣きするリアを励ましていたし、ディナンにもことさら丁寧に指導してくれたから、何をしても怒られないものと思ってしまったのかもしれない。
何だかそっちの確率の方が高いような気もする。
(全然、逆なんだけど……)
はぁ、とディナンは深い溜息をつく。
オーサとは年が近いこともあって、それなりに気も合う。仲は良いほうだと思う。
でもこういう時、すごく自分とオーサの育ちの差というか、考え方の違いを感じる。
(俺だったら、こんな無責任なこと絶対しないし、できねーよ)
そのせいで、他の人間が迷惑を被っていることがわかっているんだろうか?
わかっていてやっているんだったらそれはもう最悪だし、わかっていないのだったらそれはそれで良くないことだとディナンは思う。
(……バカだな、オーサ)
どれだけフテ寝をしようが、さぼろうが、できないことが急にできるようになったりしない。
経験者から言うならば、数をこなさなきゃできるようにはならないのだ。
(誰でも最初からなんてできるわけねーのにさ)
自分やリアがオーサにできないことをできるのはこれまでさんざん失敗してきたからだ。
でも、必死でやった。栞に見捨てられたら、もう未来はないと思っていたからだ。
それでも、それまでの自分が口にしたこともないような高価な材料を山ほど無駄にした。まかないでしか使えないような代物にしてしまったというのは、ダメにしたのと一緒だ。
料理人は食べるのも仕事だよ、と栞は言ってくれるけれど、そんなこと言ってくれる人なんてそうはいない。絶対に叱られるし、怒鳴られたり、殴られたりだってするかもしれない。前にちょっとだけ居た安宿ではそれが当然だった。
でも、栞は料理人を作るのはお金がかかるんだよ、といってそれをものともしない。
『誰だってすぐにできるようにはならない』というのは、ディナンが落ち込むと栞がいつも言ってくれる言葉の一つだ。
栞だって、今でも時々、微妙なものを作ってしまった……といって、封印するレシピがある。
(おししょーはそんなことでは怒らない)
記憶にある限り、ディナンは栞に怒られたことがない。
当然、殴られたこともないし、怒鳴りつけられたこともない。
(……でも)
でも、怒られるより怖い目にあったことなら、何度かある。
でも、それはこういう失敗をした時ではない。
(怒られることよりも、叱られることよりも何よりも、諦められてしまうことのほうがずっと怖いのに)
怒られる方がずっとマシなのだ。怒ってくれるだけ、まだ自分は期待されていると思える。
(おししょー、魔力強いから、冷気が渦巻くんだよな……)
ディナンが怒られたことがないからといって、栞が怒りを覚えないわけではない。
栞が怒ると周囲の温度が下がる。比喩ではなく、文字通り……物理的に下がる。ディナンには、冷気が渦巻いているのがわかる。
放出する回路はないのだが、あまりにも魔力が大きいせいで漏れ出てしまうのだとマクシミリアンからは説明された。
思い出すだけで背筋が凍りそうになって、ディナンはびくっと肩を震わせた。
(おししょーの怒りは冷ややかだ)
栞は自分の怒りを誰かにぶつけたりしない。怒りは怒りとして自分の中に呑みこみ、昇華してしまう。わかりやすく爆発しないから、気づかない人は気づかないかもしれない。
(そういう人の方が、本当に怒った時に怖いんだよ、オーサ)
怒りのままに当たり散らしたりしない。でも……だからこそ冷静に見極めている。
(……早くしないと手遅れになると思うけど)
状況は日に日に悪くなっている気がする。
オーサは、最初の何日かはドアを開けていたが最近ではドアも開けない。
どうやら、毎朝うるさく言うせいでディナンのことも疎ましく思い始めているような気配があった。
正直、おざなりに扱われてなおも言葉をかけたり、迎えに行ったりするほど自分はお人好しではない。
ただ、少し仲良くなったから……少しだけ手を差し伸べただけだ。
無視され続けるのならば、これ以上気を使う必要もない。
(別に友達ってわけでもないんだし……)
年齢が近い分、距離は近いかもしれないけれど、オーサはあくまでも職場の同僚だ。
友達になれるかもしれない、とは思っていたけれど、ちょっと馴染めない部分もあったところに今回の一件だ。
たぶん、リアはもう見捨てているだろう。彼の半身は、そういうところの割り切りが結構早い。
(それに、お師匠よりもプリン殿下だよなー)
総料理長といえど、職員の人事権はマクシミリアンにある。もちろん、栞の意向が通らないということはまずないが、最終的な判断はマクシミリアンがすることになっているのだ。
栞は軽率に言いつけたりはしないが、相談はするだろう。
(だって、殿下はおししょーの誓約者だし)
そういう間柄を除いたとしても、マクシミリアンは栞の周辺にとても気を配っている。たぶん、栞が相談していなくてももう知っているに違いない。
顔を出して、正直なところを話してくれればディナンだって栞やマクシミリアンに伝えることができるけれど、引きこもって出てこないのでは何もしようがない。
ましてや、原因が原因だから、ディナンとしては同情の余地がないのだ。
(こんなことくらいでって俺は思うけど、それが重大問題になっちゃう奴がいることもわかる。わかるけど、そこでこんな風にひきこもるのはないんだよなぁ)
それに、オーサのせいでディナンの修業予定が伸びてしまった。
(……今月中には、ポアレできるようになるつもりだったのにさー)
リアもディナンも二回目の挑戦が延期になっている。練習したことを試して、失敗したらまた練習してしっかりと技術を自分のものにしてしまいたいのに、間があくと忘れてしまいそうな気がする。
最初の頃は心配な気持ちもあったが、最近では、いい加減にしろよ、という気になってきていた。
(これって嫉妬かな……。ここをクビになってもあいつには帰る場所があるわけだし……いや、でも俺は別にいいや)
帰る場所なんてなくてもいい。いや、栞のいる場所こそが自分の場所だとディナンは決めている。
(俺はおししょーについていくから!)
リアだってきっと同じ気持ちだと、ディナンは何も言わなくても知っていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「えーーー、オーサ、そっちには連絡もしてないんですか?」
リアの声が響いたのは、朝のパンが届いた時だった。
休んでいるオーサの代わりにパンを届けに来たのは、オーサが『じじい』と呼ぶ老人────エルメだ。
エルメは、今回、ホテル内ブーランジェリー……もとい、ホテル内パン工房を新設するにあたり、臨時で来てもらっているパン職人だ。元々は、栞より二代前の料理長の元でこのディアドラス専属のパン職人として働いていたという。
もう年で体力的に辛いからということで退職したものの、腕は確かだから、と、マクシミリアン直々のお声がかりで午前中だけ通いで勤めている。おそらく、オーサのパン職人としての師匠役だ。
(そろそろ何とかしないと、エルメさんも限界ですよね)
栞の見たところ、オーサが休んでいるせいで一番しわ寄せがきているのはエルメだ。
一応、フロアスタッフから応援が出ているが、彼らは元々が職人ではないのでいろいろと苦労しているらしい。
かといって、ディアドラスにも余剰人員がいるというわけではない。
ソーウェルが来てくれたことによって、状況はかなり改善された。
(といっても、適正人員からいうとうちはマイナス五人くらいのところを、全員の頑張りで何とか誤魔化してきて、ソーウェルさんが来てくれてマイナス三人になったとこなんですよね)
楽にはなったけれど、まだマイナスなのだ。手伝ってあげられる余裕はない。
「ディナンから、具合が悪いから休むってのは聞きましたがね。……ヴィーダ、こういうのは自分の口で言うもんですわ。こそこそ食堂にはメシ食いに来てるっていうんだから、言いに来れないくらい具合悪いっていうわけでもないんですし……」
「そうですね」
「で、うちの坊主はなんで出てこないんで?」
「……うちの下拵えが全然できないから、みたいです」
「そんなに難しいことなので?」
「難しい、というか、基本の基本なので、それができないと仕事にならないと言うか……。ごめんなさい。ソーウェルさんと一緒に入るみたいな形になったので、それで余計にできないことが身に染みたのかもしれません」
「……王宮料理長と己を比べる方が間違ってますわ。そりゃあ、ヴィーダのせいじゃねえ」
「何度も私やリアやディナンが見本を見せて、ソーウェルさんも指導して下さったんですけれど、思うようにできなかったみたいで……一応、少しは形になってきたんですけど、オーサの下拵えした材料はまかないにしか使えなくて……」
「それで、不貞腐れて出てこなくなった、と?」
「ええ。……他に理由があるのかもしれませんけれど、オーサは何も言ってくれないので私としてはそういうことなのかと推察するしかないので……」
「あ、いえ……煩わせて申し訳ありません。どう考えてもそれはうちの坊主が悪いです」
栞は困ったような複雑な表情で、背後の双子の方に振り向いた。
「今日で何日目だっけ?」
「五日目じゃねえ?」
「違うわよ、ディ。……一応来たけど、具合が悪いってすぐ帰った日があるから、六日目」
リアが首を横に振る。
「あ、そっか」
その答えを聞いた栞は、エルメに向き直った。
「……ということなので、明日まで待ちます。明日出てこなかったら、殿下に彼では無理ではないかとお伝えします。判断なさるのは殿下ですけれど」
「そうですな」
エルメが深くうなづく。
オーサはじじい、なんて軽口を叩いていたが、エルメは工房の働き手として来ているわけではないだろう。マクシミリアンは何も言わなかったが、オーサの師として招かれたのだと栞は思っている。
(本人がどこまで理解していたかはわからないけれど……)
深い溜息を一つつく。
「……ヴィーダ、そんなにがっかりしなくてもいいですよ。技術は全然ですが、気概で言うなら、ちょっと見込みがあるのが、一人、二人……手伝いに来た若いのの中にいましてね」
ニヤリとエルメが笑うと、口元のしわがいっそう深くなる。
「え? 本当ですか? モノになりそうです?」
「どっちも、ここの生まれなせいか、迷宮素材についても一通り承知しているところが強みですな。……パンの知識や技術はまったくありませんが、力仕事を厭わない」
「魔力はどうです?」
「オーサほどはないですが、パンを作る分には問題ありません。あとは、そちらのほうで判断してもらえれば、と。まあ、フロアの若いのですから、顔はご存じだと思いますが」
「あとで殿下にお伝えしておくので、お話を聞きに行ったら、その時に、名前を伝えておいてください」
フロアスタッフの顔を脳裏に思い浮かべながらも、まだ、自分は知らない方がいいだろうと栞は判断する。オーサの一件があろうがなかろうが、スタッフが増えること自体はとても喜ばしいことだ。
何しろ、慢性的に人手は足りていない。
(オーサにはここで踏ん張ってほしいんだけどな……ランチボックスの差し入れでもしてみようかな)
オーサの気に入っていたオープンサンドを作ろう、と栞は決める。
(具材は……やっぱ、ポドリーかな……)
「ディナンー、倉庫からポドリー一個持ってきてー」
「はーい」
少しだけ不思議そうな顔をしたけれど、ディナンはぱっと身をひるがえして、倉庫に走っていった。
お待たせしました。
だいぶ間が空きましたが、再開します。




