第42話 陽斗の復帰と周囲の心配
ピピピ、ピピ、パチン。
午前6時。
皇邸にある陽斗の寝室から目覚ましのアラーム音が鳴り響く。
と、先日の発熱の時とは異なり、すぐに布団から伸びてきた手が目覚ましのスイッチを止める。
そして、むっくりと布団が持ち上がると小柄な身体を起こして陽斗が伸びをする。
「んにゃぁん」
「レミー、おはよう」
枕元で一緒に眠っていた白猫のレミエも一伸びしてから頭を撫でた陽斗の手に顔を擦りつけ、一足先にベッドから飛び降りた。
陽斗もベッドから降りると手早く掛け布団をふたつに畳んで整えると着替えをはじめる。手に持ったのは薄手のトレーニングウェア。
「はい、陽斗さま、ストップ!」
「ふぁ?! え、えっと、裕美さん? あ、おはようございます」
「はい、おはようございます。って、そうじゃなくて! 陽斗さまはまだトレーニングは駄目です!」
いつの間に入ってきたのか、クローゼットの前でパジャマを脱ごうとしていた陽斗の手に持っていたウェアを取りあげて止めたのは陽斗付の看護師メイド裕美だ。
「え、えっと、もう熱も下がったし、怠くもないから、それにずっと寝てたから少し身体動かしたいなって」
陽斗自身も反対されるとは思っていたのか、おずおずといった感じで鍛錬をしたいという意思を伝える。
もちろん無意識上目遣い&ちょっとウルウル目の最強コンボも発動して。
「うっ、だ、駄目です! 熱を測って問題なければ今日から学校にも行くのでしょう? 無理をしたらそれも中止ですよ」
元々目を離すとすぐに無理をしそうになる陽斗を見張るという意味もあって陽斗の起床時間よりも前に来ていたのだ。
その備えを無駄にしない天晴れな職業意識の賜によって何とか陽斗の最強攻撃を退けた裕美がそう言うと、さすがに陽斗も諦めざるを得ない。
やっぱり何よりも学校には早く行きたいらしい。
「わ、わかりましたぁ。えっと、部屋の中で体操とかも、駄目?」
「まずは検温しましょう。それから血圧と心拍、肺の音もですね。それが大丈夫なら少しくらいは良いですよ。でも! 息が切れるほどは駄目ですからね」
仕方がないという表情の裕美が条件付で許可を出す。
陽斗はそれでも嬉しそうに頷くのだった。
陽斗が熱を出してから今日で四日が経つ。
当日の夕方には39度を超えた体温も翌日にはすっかり下がり、陽斗は普通に早朝のトレーニング&学校に行こうとしていた。
だが当然それを裕美や湊、重斗が許すはずもなく、早朝にも関わらず訪れていたお医者さんも『熱は下がってもまだ身体の中ではウイルスと戦っているんですよ。だから少なくとも明日までは大人しくしていましょう』と言い、陽斗も仕方なしに大人しくベッドに横になった。
のだが、基本的に陽斗は睡眠時間が短めで、勉強や本を読んでいるとき以外は動いていないと落ち着かない気質だ。
おそらくは生来というよりは後天的な環境要素が大きいだろうが、とにかく何もせずにジッとしているのが苦手なのである。
その結果、時折ベッドから抜け出して部屋の隅っこの埃を取っていたりしてそれを裕美や湊に見つかってベッドに連れ戻されていたりした。
結局、臨時で増員されたメイドも含めて交代で見張られたので寝ていることしかできなかったのである。
そして、この時から少しずつ陽斗の口から我が儘が出るようになってきた。
といっても別に人を困らせるようなものではなく、退屈に負けて本を読みたがったり、寝室に設置されているテレビで映画を観たいと言ったりという、どんな聞き分けの良い子供でも口にするような些細な我が儘だ。
それと何か食べたいものがあるかと聞かれた陽斗が恥ずかしそうに「プリンが食べたいです。あの、本で見たような生クリームとか果物が飾ってあるやつ」と言ったのも珍しいことだった。
もちろんそれを耳にした湊と応援のメイドは萌え悶えていたが。ついでに厨房担当の使用人が張り切りすぎて何種類も作り、陽斗に選ばれなかった物を彼女らが美味しくいただいたりもした。
今回の体操もそんな可愛らしい我が儘のひとつだろう。
裕美による簡単な診察でも問題なく、自室のリビングで一生懸命ラジオ体操をしてから制服に着替え、朝食を摂る。
三日ぶりに食堂に姿を現した陽斗に、とっくに熱は下がり食欲も戻っていると知っているはずの料理人達が何故か涙ぐんでおり、陽斗は大層居心地の悪い思いをすることになった。
しかも加減を誤ったのか朝食だというのにテーブルに乗りきらないほどの料理が並んだ。もちろん食べきれるはずもない。
「んにゃぁぁおぅ」
レミエまで呆れたように鳴いていた。
そんなこんなでごく小さな騒動が起きながらもリムジンに乗り込んで黎星学園に向かう。
「いいですか? 少しでも身体に不調を覚えたら迷わず医務室に行ってください。それから私か屋敷に連絡をいただければすぐにお迎えに上がりますので」
「う、うん、大丈夫だよ? それに今日は生徒会の仕事もあるから少し遅くなると思う」
車中でもしつこいくらい念押しする裕美に苦笑いをしながら陽斗が言うと、裕美の顔がさらに顰められる。
「……生徒会ですか、それは休むことはできませんか?」
「う~ん、お願いすれば? でもせっかくだからできるだけ休みたくない」
そう言われれば元々少々過保護すぎるということは理解している裕美である。仕方なく許可するのだった。
学校に到着しもの凄く心配そうな顔をした裕美や護衛担当、運転手に見送られながら校門をくぐる。
「お? 昨日まで休んでたみたいだけど、風邪でも引いたのかい?」
守衛の人が陽斗を見るなりそう声を掛けてくる。
他にも、
「あ、西蓮寺くん、休んでたんだって? もう大丈夫なの?」
「陽斗くん! 心配したよぉ!」
など、校舎に着くまで幾度も声を掛けられていた。
まだ入学して数ヶ月しか経っていないのに随分と陽斗の認知度が上がっているようだ。もちろんその目立つ外見が影響しているのだろうが。
そして、
ガラッ!
「お、おはようございます」
陽斗が緊張気味に教室の扉を開ける。
多くの人が経験あるだろうが、別に悪いことをしていたわけでもないのに何日も休んだ後に学校や会社に行くと妙に緊張してしまうものである。
特に陽斗の場合は中学時代虐められていたこともあってどうしても思考がネガティブなほうに行きがちになってしまうのも無理はないだろう。
だが当然その心配は杞憂に終わる。
「陽斗さん! もう大丈夫ですの? 熱は?」
陽斗の挨拶の言葉が終わらないうちに陽斗に駆け寄ったのは穂乃香だ。
陽斗の小柄な身体のあちこちを見回しながら心配そうに声を掛ける姿は屋敷の使用人達とそっくりである。
「単に熱を出しただけだろう? 大袈裟すぎる」
そんな穂乃香に呆れた様子で皮肉気に声を掛けたのは壮史朗だ。
「そんなこと言ってぇ、陽斗くんが休んでる間、朝から落ち着かずにソワソワしてたくせに」
「な?! だ、誰がソワソワしてたって言うんだ? す、少しくらいは心配したのは否定しないが、クラスメイトならおかしくないだろう」
「そうねぇ~、おかしくは、ないかなぁ~? うん、おかしくないよ、ね」
素直じゃない壮史朗を混ぜっ返すのはセラだ。
「フッ。もう大丈夫なのか?」
壮史朗とセラのやり取りが可笑しかったのか珍しく軽く笑い声を上げた後、普通に訊ねたのが賢弥。
このクラスで特に陽斗と親しくしている面々が、教室に入ったばかりの陽斗を囲むようにしている。
誰かが風邪を引いて数日学校を休むことなど別に珍しいことではない。
だが陽斗の場合は平均よりもかなり小さく痩せ気味な分、どうしても心配になってしまうのだろう。
特に話をする機会の多いこのメンバーは、陽斗の生い立ちに特殊な事情がありそうだということに何となく気付いているので尚更だ。
まぁ、気付くどころかある程度の事情はセラと賢弥は知っているのだが。
ともかく、本心で心配してくれていることを感じて、陽斗は幸せそうに微笑んだ。
「っ!? と、とにかく、よくなったのなら安心ですわね。でも病み上がりなのですから無理は駄目ですわよ!」
「うん。ありがとう」
その後も何人ものクラスメイト達が陽斗に声を掛け、その度に満面の笑顔でお礼を言うというのが幾度も繰り返された。
放課後になり、生徒会室にやってきた陽斗と穂乃香。
病み上がりということもあって穂乃香はしきりに心配していたし、実際三日間も寝てばかりだったので身体の節々に痛みは出てきてはいたが、これは別に熱が再発しているわけではなく寝ていた影響なので陽斗は気にせずに普通に動いている。
なので、この日に予定されている生徒会役員の会議も出席するつもりだ。
チャリティーバザーは大盛況で終えることができ、次の生徒会主催のイベントは夏休みに入って早々に予定されている1、2年生を対象としたオリエンテーリングだ。
毎年恒例となっているらしく、場所は例年と同じく隣県にある高原リゾートの山林散策コースだ。
ただ、場所こそ同じだが、毎回その年の生徒会が趣向を凝らしたレクリエーションを企画してオリエンテーリング以外にも楽しめるようにしている。
主眼となっているのはやはり交流の輪を広げることであり、普通科の生徒だけでなく芸術科の生徒も参加対象となっている。
学校のカリキュラムとは関係ないので強制参加ではないが、毎回ほとんどの生徒が参加するようだ。
今回の会議ではレクリエーションの内容の決定と生徒会役員の担当部署の割り振りが行われる。
といってもレクリエーションの内容自体は事前に案がいくつかは提示されており、今日の投票で決定し、その詳細も決めてしまうらしい。
いつものように穂乃香と並んで席に座ると、ほどなく他の役員達も集まって用意されている席があらかた埋まる。
役員が揃ったのを見計らったように最後に会長以下執行役員が部屋に入ってきた。
そして、近くを通った琴乃と雅刀が陽斗に声を掛けた。
「西蓮寺さん、もう体調はよろしいの?」
「休んでいたんだってね。熱は下がったのかい?」
琴乃はどこか楽しそうに、雅刀は穏やかな笑みを浮かべながら陽斗に尋ねる。
「え? えっと、だ、大丈夫です。次の日には熱は下がったんですけど、一応念のためってことで休むように言われて」
学年も違うし、休んでいる間は生徒会の仕事もなかったのにどうして休んだことを知っているのか疑問に思いながらも聞かれたことに答える。
「フフッ、西蓮寺くんはすっかり学園の有名人みたいでね、校内で君が体調不良で休んでるって話をしている生徒が何人かいたんだよ」
「ええ、それに西蓮寺さんが休んでいる間、四条院さんがとても落ち着かない様子なのも目にしましたわね」
雅刀はともかく琴乃は明らかにからかうような口調だ。それも陽斗ではなく穂乃香を。
「な?! そ、そんなことはありませんわ。た、確かに心配はしましたけれど」
それにまんまとのせられた穂乃香がアワアワと言い訳するのをクスクスと小さな笑い声を上げながら琴乃は所定の席に行ってしまう。
雅刀はそんな琴乃の様子に肩を竦めると、陽斗の肩をポンと軽く叩いて後に続いた。
残された穂乃香はもちろん、陽斗もなんだか照れくさくて小さくなったのだった。
そんな一幕はありながら、開始予定時間前ではあったが全員が揃ったということで会議が始まった。
最初に会長の琴乃が簡単な挨拶をした後、すぐに本題に入る。
レクリエーションに関しては思いの外あっさりと決まった。
前回の会議の際に提示されていた案はかなり詳細に作り込まれており、比較しやすかったのと選ぶ基準が明確にされていたからだろう。
もちろん意見が割れた案もあったが、最終的に多数決で決定し、他の案を推していた人も不満を漏らすことはなかった。
その次は役員の担当決めとなる。
今回のイベントは生徒の交流が目的なので、バザーの時のように生徒の中から応援を頼むことはしないらしい。
なので、2泊3日の日程全てを生徒会役員と外部業者によって円滑に運営しなければならない。
ちなみに今回も例年よりも大幅に警備員が増員される事は決定しているらしい。
会場の設営や生徒の宿泊準備、食事の準備などは二日目の夜に予定されているバーベキュー以外は業者が行うらしいので、担当はそれ以外の部分になる。
「まず、各学年の責任者を決めたいと思います。
責任者は各役員に指示を出したり報告を受けて対応を決めたりする役目ですが、2年生の責任者は桧林さんにお願いします。
桧林さんは1年の時も責任者をしていますので要領はわかっていると思いますが、執行役員とも連絡を密にとるようにしてください」
そう言って琴乃が指名したのは普通科2年の大柄な生徒だった。
運動部にでも所属しているのか、短髪で力強そうな雰囲気のある明るい表情の男子だ。
「そして、1年生の責任者には、西蓮寺さん。よろしくお願いしますね」
何の抑揚もなくサラリと言った琴乃の言葉に、陽斗は一瞬何を言われているのかわからなかった。
が、周囲の視線が自分に集まっているのを感じ、ようやく聞き間違いではないことが理解できて、思わず声をあげる。
「え? え? えぇぇぇ?!」




