第41話 発熱パニック
ピピピ、ピピピ、ピピピ……
午前6時。
皇邸にある陽斗の寝室から目覚ましのアラーム音が鳴り響く。
空調の効いた部屋の奥側に置かれたベッドのふくらみがモゾモゾと緩慢に動き、そこから伸びた手が音を止める。
それから十数秒が経った頃、ようやくふくらみの中からむっくりと人の姿が起き上がった。
ベッドで身体を起こした陽斗はしばしぼんやりとした様子を見せた後、立ち上がってスリッパを履くとクローゼットまで歩く。
「にゃぁぁぅ!」
「あ、おはようレミー」
「にゅぅ、にゃぁぁっ!」
陽斗が屋敷に居るときはどこに行くにも一緒について回るレミエが陽斗の行く手を邪魔するかのように回り込んで何か言いたげに鳴く。
「どう、したの? 着替えるからちょっとだけ待っててね」
陽斗はそう言ってレミエの頭を撫でると、いつもなら手や足に顔を擦り寄せてくるのにこの日はすぐに身を翻して部屋から出て行ってしまった。
「……着替えなきゃ」
陽斗はボンヤリとそうつぶやくとクローゼットから学校の制服を取り出して着替えはじめる。
黎星学園の制服はブレザータイプだ。
中学の時からは考えられないことにぴったりのサイズのものが5着も用意され、毎日クリーニングされている。
もちろんクローゼットに掛かっているものはすぐに着られるようにビニールやクリーニングのタグは外されているのでいちいち外す手間はない。
入学当初は四苦八苦していたネクタイもさすがに手慣れた様子でスムーズに結べるようになっている。最初の頃はなかなか上手くできずに湊や裕美が結んでくれたり、不格好な結び目を直してくれたりしたものだ。自分で綺麗に結べるようになると何故か二人は不満そうだったのだが。
「あ、あれ?」
制服に着替え終わり、ウオークインクローゼットの中にある姿見で自分の姿を確認してから出ようとして、陽斗はその動きを止める。
普段の陽斗は朝起きるとまずトレーニングウェアに着替えて鍛錬をするのが日課になっている。
この日もその予定は変わりないはずなのにボンヤリとしていて制服を着てしまったのだ。
(間違えちゃった。う~、もう一回着替えなきゃ)
声に出さずにつぶやくと、陽斗はノロノロと制服を元の場所に戻しはじめた。
「にゃぉぅぅ! んにゃぁぁっ!」
陽斗の寝室を小走りで出ていったレミエはそのままリビングも通り抜けて廊下に出た。
陽斗の部屋は書庫と人間用のトイレを除いて扉の下側に猫用の出入口が作られているので誰かがドアを開けなくても自由に出入りできるようになっている。
「あれ? レミエちゃん? 珍しいわね。お腹空いたの?」
レミエは廊下に出た途端に全力ダッシュ。
そして階段を上ってきた裕美の足元に辿り着くと強い声で鳴き始める。
陽斗付きである裕美と湊は朝も交代で陽斗の部屋に行っている。といってもこのところすることといえばトレーニングを終えた陽斗に飲み物を用意する程度しかすることもないのだが、陽斗と一日の最初の挨拶を交わすチャンスを二人が見逃すはずが無くこうして陽斗が起きる時間には部屋のリビングで待ち構えるようにしているのだ。
この日は少しばかり遅れてしまい少々焦り気味の裕美は、そんな様子を微塵も見せることなくレミエの頭を撫でようと手を伸ばす。
だがレミエはその手を避けるようにスイッと身を離すと踵を返し、部屋まで少し戻ってから裕美のほうを振り向いて鳴く。まるで早く来いと言っているかのような様子だ。
いつもならレミエは陽斗が家に居る間はべったりで、トレーニング中でさえ側から離れようとはしない。学校へ行っている間や書斎で勉強している間は部屋で大人しくしているのだが。
常に無いレミエの様子に首を傾げながら裕美は後について陽斗の部屋まで歩いていった。
レミエと裕美が陽斗の部屋のリビングに入ると、丁度陽斗がトレーニングウェアを着て寝室から出てくるところだった。いつもよりも少し遅い。
「あ、裕美さん、おはようございます」
「陽斗さま、おはようございます……って、ちょっと待って!」
普段通りに丁寧に挨拶を交わして裕美が頭を下げ、かけて、裕美は眉を顰める。
「え? あ、あの?」
「陽斗さま、ちょっと失礼しますね」
戸惑う陽斗に裕美がブバッと音がしそうなくらいの勢いで走り寄ると、裕美は陽斗の額や首筋に手を当てる。
「吐き気がするとか関節が痛いとかありますか? 頭痛は? 夜は寝られましたか?」
「え? え? うわぁっ?!」
「とにかく陽斗さまはベッドに戻りましょうね」
突然の裕美の行動に陽斗の戸惑いもなんのその、反論する間も与えずに裕美は陽斗の身体を抱え上げる。
右手で肩の後ろ、左手は膝の裏側を抱えた、いわゆるお姫様抱っこである。男の子なのに。
陽斗の体重が標準よりもかなり軽いこともあるが、基本的に体力勝負の看護師メイドである裕美は力持ちなのである。
陽斗を抱えたままお行儀悪く足で引き戸を蹴り開け、ベッドの上にそっと降ろす。
「あの、裕美さん?」
「陽斗さまはそのまま横になっていてください。お着替えは後でお手伝いしますので。
はい、体温を測りましょう。脇に挟んでください。
……あ、相葉です。当番の医師を呼び出してください。大至急です」
目を白黒させる陽斗の質問に答えることなく裕美はポケットから体温計を取り出すと有無を言わさずシャツの裾を捲り上げて脇に挟む。
そして身体を起こそうとしていた陽斗の肩を押して寝かしつけると布団を掛けつつ片手でスマホを操作して電話をはじめた。
ピピッ。
「はい、もう一度失礼しますね。……37.8度。
やっぱり熱がありますね。すぐにお医者さまが来ますので寝ててください」
さすがは看護師としても働いているメイドである。
ここまで流れるような動きで陽斗の動きを封じつつ必要な処置を済ませる。
「あ、だ、大丈夫です。僕、これくらいなら少し動けば良くなりますから。学校にも行かないといけないし」
起きたときから少しばかり身体がだるいとは思っていたが熱があるとは思っていなかった陽斗である。
実際にこれまでもこの程度の体調不良は幾度もあったが、前の家では風邪を引いていようが怪我をしていようが家事と仕事から解放されることはあり得なかったので、陽斗の認識としては少々身体がだるくて熱っぽく、頭がボーッとして身体の節々が痛む程度は病気のうちに入らない。
40度の高熱をだして学校で倒れ、強制的に帰らされた日ですら洗濯や掃除、食事の用意などをしていたくらいである。
もっともその時は熱のせいか味覚も鈍くなっていたので作った料理をボロクソに言われた挙げ句しばらく立ち上がれなくなるほど殴られたのだが。
「駄目です!」
「にゃぁぁぉぅ! シャァァァ!」
だが陽斗の『大丈夫』は裕美に即座に却下され、レミエもまるで聞き分けのない子供を叱りつけるかのように鳴き、さらにシャーのダメ押しである。
ちなみに余談だが猫が威嚇などをするときにシャーと音を出すのを英語では“hissing”と言うらしい。一説では先祖であるリビアヤマネコがガラガラヘビの出す音を真似て敵を遠ざけるためにしたことの名残だとか。
うん、古狸はそんな雑学を調べる暇があったら原稿を進めたほうが良いようだ。
いつも陽斗の世話をしてくれている裕美と、家に居るときは常に一緒に居るレミエに窘められては陽斗にそれ以上我を通すことはできず、大人しくベッドの上で力を抜く。
すると途端に身体がずっしりと重くなったような感覚がして目を瞑る。
おそらくは寝るしかないと認識してようやく身体が不調を自覚したのだろう。
そんな陽斗を横目で見つつ、裕美がベッドの下からアタッシュケースのようなものを引っ張りだし、中から聴診器や血圧計を取り出す。
手早く血圧を計ったり肺の音を確認したりと看護師メイドの面目躍如である。
と、裕美による一通りの検査を終え、昨夜着ていたものとは別の洗濯済みのパジャマに抵抗虚しく着替えさせられた陽斗がようやく落ち着いて身体を横たえた直後、バタバタと騒々しい足音が響き、寝室の引き戸が開けられた。
「陽斗! 大丈夫か? 苦しいか? 待っていろ! すぐに救急車を呼ぶからな! いや、車を出したほうが早い!」
今や天元突破状態の孫馬鹿である重斗が大慌てで突入してくると、陽斗の顔を見るなり喚き立てる。まるで陽斗が瀕死の重傷になったかのような慌てっぷりである。
「旦那様、落ち着いてください!
裕美ちゃん、陽斗さまの状態は?」
重斗の後ろからもう一人の陽斗担当のメイドである湊が入ってきて重斗を落ち着かせる。
「症状としては発熱と喉の腫れです。担当医を呼んでいますのでもう少しで来られると思いますが、喘鳴音はありませんし脈拍や血圧も正常の範囲です。意識ははっきりされていますのでとりあえず医師の診察まではこのまま様子を見ていれば大丈夫かと」
医師ではないので明確な診断こそしないものの裕美は内科病棟の看護師を兼務している。
もちろんどんな些細な病気であっても油断して良いというわけではないが、不測の事態にも備えた上で適切な経過観察をしっかりと行えばそうそう急に重症化するものでもない。
「むぅ、しかしだな」
「旦那様があまり騒がれると陽斗さまが安心して休めませんよ。こういう時のために相葉が陽斗さま付きとなっておりますし、霧崎もいます。
念のために数人を二人のサポートに回すように久代に伝えておきましょう」
なおも心配そうな重斗を、ここのところすっかり暴走爺のストッパー役となってしまった執事頭の和田がやんわりと嗜める。
というか、いつの間にこの人まで部屋に入ってきたのだろうか。
見ればメイド長の比佐子までその隣にいる。
さすがにこうまで言われては重斗もこれ以上は粘ることができず渋々、本当に渋々といった様子で寝室を出て行った。
といっても陽斗に負担を掛けないようにリビングのソファーに移動しただけであるが。
それからさほど待つこともなく皇家が運営する総合病院からベテランの内科医が到着して診察を行った。
その結果は、感冒、つまりは普通の風邪である。
インフルエンザの検査も行ったが陰性で、その他同一の症状で重症化する可能性のある病気に対する検査も一通り行っている。
もちろん入院の必要は無いし、薬もあまりに高熱が出たり症状が辛くなった場合のために数種類処方されたが、基本的には風邪は身体の免疫機能で治すものである。
というか、風邪は薬では治らないので重要なのは十分な休養と栄養の摂取だ。
この屋敷に来た当初と比べると陽斗は身長こそそれほど変わらないものの、全体に肉付きは良くなっておりようやく健康的な体型と呼べるくらいにはなっている。
陽斗の場合、放っておくと無自覚に無理をしたり睡眠時間が不足したりするので常に誰かが様子を見つつ安静にすることが決まったのだった。
今の環境ならベッドから一歩も出ずに寝ていることも可能だし、下手をすればトイレすら喜々としてお手伝いしようとするメイドが大発生することだろう。
身体は休まるかもしれないが気は休まりそうにない。
そうして陽斗はその日寝て過ごすことになった。
重斗は午後に投資家達の会合に出席する予定となっていたのだが「陽斗が病で苦しんでいるときに出かけられん」などと言いだしたり、行ったら行ったで周囲に不機嫌オーラを撒き散らして出席した投資家達を脅えさせたりしたらしい。
陽斗は時折水分を摂ったり消化の良いものをほんの少し口にしたりしたものの、それ以外はグッスリと眠っていて増員された世話係はただ寝顔を堪能しただけである。
むしろメイド達はおろか料理人や施設管理、警備の人員まで入れ替わり立ち替わり様子を見に来るのを追い出すことのほうが大変だったりした。
「…………」
仕事を終えて帰宅した重斗が眠っている陽斗の頭を撫でながら心配そうにその寝顔を見つめる。
レミエも同じく陽斗の枕元に香箱を作りずっと陽斗のほうを見ていた。
夕方頃から陽斗の熱はさらに上がり39度にまでなった。
そのこと自体は珍しいことではなく、基本的に人間というのは朝よりも夕方のほうが体温が高く、特に未発達な子供が発熱すると心配になるくらい熱が高くなることが多い。
今も顔中にうっすらと汗を浮かべながら少しだけ息が荒くなっており、重斗が来たことにも気付かないほど深く眠っている。
「葵が幼い時もそうだったが、こういう姿を見ると何とかして代わってやりたいと思うのだがな」
誰に聞かせるというわけでなく重斗がポツリと呟く。
「そうですね。というか、今屋敷は同じことを考えている使用人で溢れています。陽斗さまは愛されていますからね」
そう冗談めかして言いながら湊が陽斗の顔と首の汗を拭く。
「でも、ようやく陽斗さまは安心して病気になれるようになったということですから、喜んだほうが良いのかもしれませんね」
「……どういう意味だ?」
眉を顰めた重斗に湊は理由を説明する。
「陽斗さまは覚えているかぎり病気で休んだことはほとんど無かったそうです。というよりも少しくらい体調が悪くても動かなければならなかったそうですから。
でも普通は、特に陽斗さまのように栄養状態が悪く、小柄で痩せた子供なら尚更もっと頻繁に体調を崩していたはずなんです。
けれど実際には無理をしてでも働かなければならず、身体のほうも不調を訴えることができない状態だったのでしょう。
それが、ようやくこうして熱を出すことができるようになった。
私は医師ではありませんから絶対にそうだとは言い切れませんが、この家が、陽斗さまにとってそれだけ安心して休むことのできる場所になったということじゃないかと思います」
その言葉に、重斗はなんともいえない表情でほんの少し穏やかになった陽斗の顔を見つめた。
「そう、か。いや、まだまだ足りん。この子は誰よりも幸せにならねばならん。儂がそうしてみせる」
「……程々にした方が良いと思いますけど?」
「んにゃぁ」




