第34話 新たな出会い
5月に入りゴールデンウィーク真っ盛りの午後。
陽斗は皇邸の庭園にある四阿でのんびりと本を読んで過ごしていた。
空には所々真っ白な雲が浮かんだ快晴であり、程良く暑くなってきた日差しと時折吹く爽やかな風が心地良い。
連休後半の初日だが陽斗は既に宿題は全て終えている。
というのも、基本的に黎星学園は宿題が比較的少ない。
成績は定期テストの結果と普段の授業態度の比重が大きいのと、数多く在籍する良家の子女ほど習い事や社交など家庭の事情でその日その日の予定が詰まってしまい時間の余裕が無いという事情からだ。
その分普段からしっかりと勉強していないと定期テストで痛い目を見ることになるのだが。
その点陽斗は予習も復習も欠かしていない。
根が真面目というのももちろんあるのだが、長い間家事とアルバイトに追われながら合間と夜間に勉強する生活が続いていたために睡眠時間が少ないことに慣れてしまっているので今は勉強する時間がたっぷり取れる。
それに何より、陽斗は自己評価が低く足りないものが多いという認識がある。だから自分を甘やかして適当に切り上げることをしないのだ。
それがどういう結果になるのかは5月半ばに行われる定期試験で明らかになるだろう。
さて、そんな陽斗であるが、この日も早朝に日課となっている護身術の鍛錬を行い、午前中は自主勉強に費やした。
今日は祖父である重斗は仕事で外出しているので陽斗は特にすることもなくのんびりと過ごすことにしたのだ。
そして実は陽斗にとってこの屋敷でこのようにゆっくりと過ごす時間はそれほど多くない。
最初の3ヶ月は受験のために必死になって勉強に励んでいたし、合格してからも家庭教師であった麻莉奈の助言に従って中学校の復習と高校入学を見据えた予習を頑張っていた。
高校が始まったら始まったで黎星学園独特なカリキュラムや授業に対応するための勉強をしなければならなかった。
さらに孫が可愛くて仕方がない重斗はできるだけ時間を作って一緒に居たり買い物に連れ出そうとしたし、屋敷の使用人達も暇さえあれば陽斗を構おうと声を掛けてくる。
もちろん陽斗の負担にならないように十分な注意は払われていたし、陽斗自身もその状況を喜んでもいた。
ただ、既に陽斗の部屋には必要十分な物が溢れているし服や本などは文字通り売るほどあるので買い物に連れて行かれても屋敷のメイド達や警備員などへの差し入ればかり選んでいたのだが。
かようなわけで、これまで割と忙しい日々を送っていた陽斗は、昼食を終えた後書斎から面白そうなライトノベルを数冊選び、せっかくなので部屋ではなく庭園を眺めながら読もうと考えたわけである。
(なにか、まだ夢の中にいるみたい)
細部まで整えられた美しい庭園の中にあるガゼボでメイドが用意してくれた紅茶を飲みながら優雅に読書を楽しむ。
恵まれた少年時代を送ることができなかった陽斗は当然のこと、一般的な家庭の人でもどこかのリゾートでも行かない限り経験できないだろう状況にいまひとつ現実感がない。
今でも時々、自分は実は死んでいるんじゃないかとか、意識を失っていて幸せな夢の中で自分の願望を見ているだけじゃないかなどと考えることがあるのだ。
(でも、もし夢だったとしても、それなら余計に楽しまないと損だよね)
そんな前向きだか後ろ向きだかわからないことを考えながら休日を満喫することにした。
本を読み始めてしばらく経った頃、ガゼボから少し離れた場所でメイドや警備員が数人バタバタと動き回っているのに陽斗が気付く。
(どうしたんだろ、なにかあったのかな?)
近づいていって訊ねれば教えてはもらえるだろうが、単に気になっただけなのに邪魔をするのは気が引けて、陽斗はガゼボから様子を見るに留める。
警備員達の表情から、どうやらなにか大きな問題が起きたというわけではないようだが、何かを探しているのか時折植え込みの下を覗き込んだり辺りをキョロキョロと見回したりしている。
だが当然ながらその様子を見たところで理由などわかるはずもなく、気になりつつもガゼボから動けずにどうしたものかと頭を悩ませる陽斗。
ガサガサ。
陽斗のいるガゼボは6角形で少し大きめの屋根が付いている10畳ほどの面積で、3個所は出入りできるように、残りの部分は成人の腰くらいの高さで煉瓦製の壁が設えられている。
その、陽斗の座っているガーデンチェアの正面、出入口にもなっている開けた箇所の先にある植え込みが不意に揺れ、ひょっこりと小さな生き物が顔を見せた。
「え?」
「ニャァォン」
その生き物と陽斗の目が合い、陽斗は驚き、生き物、真っ白な猫は人懐っこそうに陽斗に向かって鳴いた。
「ネコ? どこからか迷い込んできたのかなぁ」
いきなりだったので少々驚いたが陽斗は別に動物は嫌いではない。というか割と好きだ。
大型犬などはさすがに恐いと思うが、新聞配達先にも犬や猫を飼っている家はいくつもあり飼い主さんに撫でさせてもらうこともあった。
植え込みから出てきた猫はきちんと手入れをされているのか綺麗な光沢のある純白で、見たところかなり若いようだ。おそらくは生後1年経っていないくらいだろう。
白猫は身体を半分植え込みの中に残した状態で陽斗をしばらくジッと見つめ、やがてトテトテと歩き寄ってくる。
そして、陽斗の足元でもう一度「ニャア」と鳴くと躊躇うことなく陽斗の膝に飛び乗った。
「あ、え? あれ? わわわ…」
当たり前のように乗ってきた白猫に慌てながらも落とさないように支える陽斗。
白猫は嬉しそうに眼を細めると陽斗の腕に顔を擦り寄せ、ゴロゴロと喉を鳴らした。
「凄く人懐っこいねぇ。誰かの飼い猫なのかな? 首輪とかしてないけど」
おそるおそる白猫を撫でるともっとと催促するように手に身体を押し付ける。
そのフワフワモフモフした感触に表情を幸せそうに弛ませながら、それでも強くし過ぎないように優しく頭や首筋、背中をナデナデ。
白猫もそんな陽斗に応えるように眼を細め、時折陽斗の手や頬をざらざらした舌で優しく舐める。結構くすぐったい。
そんなことをしているうちに陽斗の頭から先程のメイドや警備員の様子はすっかり抜け落ち、ひたすらに白猫を愛でるのに夢中になっていた。
ピクッ!
陽斗に撫でられてリラックスしていた白猫が不意に耳を立て、次いで顔を上げて陽斗の左側に向ける。
「あ、居たっ!! 陽斗様?!」
白猫に釣られて同じ方を向いた陽斗の目線の先に現れたのは屋敷に勤めるメイド兼皇家専属弁護士の彩音である。
彩音は先に白猫を見つけ、その後にようやくソレが居るのが陽斗の膝の上であることに気付いた。
思わず素っ頓狂な声をあげたことで近くに居た警備員も気付いて近寄ってくる。
「シャァッッッ! ウゥゥゥゥ!」
陽斗の膝に乗ったまま毛を逆立てて威嚇する白猫。
先程までの人懐っこい印象から180度違う態度に陽斗は驚く。しかし不思議なことに激しく威嚇しながらも白猫が陽斗の太腿に爪を立てることも逃げようとする素振りも見せない。
「は、陽斗様、大丈夫ですか? 噛まれたり引っかかれたりはしていませんか?」
「え? あ、うん。さっきまですごく大人しかったよ。だから大丈夫。でも彩音さんはどうして?」
心配そうに陽斗に尋ねる彩音にそう答えると、逆に質問する。
彩音はこれ以上白猫を刺激すると陽斗が引っかかれるかも知れないと距離を取ったまま声のトーンを落としているようだ。
「午前中に庭師から猫が迷い込んでいると報告がありまして。
動物が入る隙間なんて無いはずなんですけど、その後もメイドが見かけたということで探していたんです。敷地内で死んだり病気を持ってたりしたら困りますから」
鳥ならともかく、ネズミ一匹侵入させまいと徹底した設備と警備を行っていた屋敷に侵入してきた動物である。
これが人間なら担当警備員全員の馘首では済まないところだが相手は猫。
とはいえ完全に無害と断定はできないのでさながら山狩りのごとき様相で敷地内を総出で捜索していたらしい。
そんな説明をしている間に、合流した警備員からの連絡で応援も到着し、ガゼボの周囲をナイロン製の網でぐるりと囲んでしまった。
さすがに身軽で素早い猫とはいえこれでは逃げることはできそうにない。
「ちょ、ちょっと待ってください! この子、とっても良い子なんです。今だって爪も立ててないし、どこかで飼われてる子かもしれません」
網で包囲されたのがわかるのか、白猫は陽斗に縋るような目を向け、それを見た陽斗は慌てて彩音達を止める。
その様子に彩音と警備員が困ったような顔をする。
「あ~、陽斗様。別に我々はその猫に乱暴な真似をしたりしません。けどどこを彷徨いてたかわからない生き物をそのままにしておくわけにはいきませんから保護猫を預かる施設か保健所にでも…」
いつの間にか警備班長の大山まで駆けつけたらしく対応の説明をしたのだがこれが悪かった。
「保健所?! だ、ダメぇ!!」
陽斗は白猫をギュッと抱きしめて守るように身を屈める。
突然の行動に猫が驚いて陽斗に噛みついたりしないかと彩音達は一瞬ヒヤリとするが、当の白猫は逆立てていた毛を戻して宥めるように陽斗の頬を舐める。
慌てた警備員数人が陽斗に駆け寄ろうとしたのは彩音が止める。
以前陽斗に関して調べた報告書によると、陽斗が虐待されているのを知った近隣の住人が児童相談所や警察に報告したことがあり、その際にそれらの行政組織はろくに調べることもせず形だけの訪問をおこなってまともな対応を取らなかった。逆にそのことで陽斗はさらに陰湿な虐待を受けることになったらしい。
そのことに思い至った彩音は猫を外部の組織に委ねることを諦めた。そうあっさりと。
陽斗は公的な組織に対して不信感を持っている可能性が高い。
であればわざわざ陽斗の心にさざ波をたててまで保護施設や保健所を利用する意味など無い。ましてや保健所は“殺処分”というイメージが強い。
皇家の使用人にとって陽斗の心身の安寧は全てに優先する。
なので、彩音は陽斗にとって最善の策を提案する。
「陽斗様はどうしたいですか? その猫に特定の飼い主が居ないのであれば屋敷で面倒を見ることもできますが。それか、可愛がってくれる里親を探すこともできますよ? 使用人にも動物好きは沢山おりますから」
「え? え? か、飼っても、いい、の?」
咄嗟に感情のまま行動してしまった陽斗だが、思いがけない提案にしばし惚ける。
その提案に、屋敷の住人の安全を預かる大山が渋い顔をしながら彩音に小声で問いかける。
「渋沢? 陽斗様がペット飼うんだったらあんな野良紛いな雑種じゃなくてちゃんとした血統書付きの奴をって旦那様は言うんじゃないか?
ほら、アメショーとかマンチカンとかマヌルネコだったか? あとヒョウとかチーターなんかも結構人に馴れるらしいぞ」
「先の2種はともかく後のは色々と問題があるのでそういうことは言わないように。
それより、値段で命の価値が変わる訳じゃありません。なによりも大切なのは陽斗様のお気持ちです。
もちろん早急に猫は獣医に陽斗様は医師による検査をおこなわなければなりませんが。
それで、陽斗様、どうします?」
最後に彩音が陽斗の意思を確認すると、陽斗はおずおずと、それでいてはっきりとした口調で答えた。
「ぼ、僕、この子を飼いたいです。ちゃんと面倒は見るから、だから…」
「ではそうしましょう」




