第203話 稚拙な罠
ガラスが割れるような音が鳴り、続いて響いた女性の悲鳴に会場が騒然となる。
「なんだ? コップでも落ちたのか?」
「それにしては騒がしいですわね」
立ち去ろうとした京太郎が足を止めて眉を顰め、穂乃香も怪訝そうに声のした方に目を向ける。
会場は立食形式なのでテーブルなどは壁側に並んでいてホールの中央部分は広くとられている。
ホールのやや入り口側で談笑していた陽斗たちと騒ぎのあった場所はそれほど離れておらず、そちらに顔を向けるとシャツの前側をワインか何かで汚した男性と、床に倒れ込んで顔を覆った女性の姿が目に飛び込んできた。
「ふざけるな! どうしてくれるんだ!」
激高した様子の男性が倒れた女性に怒鳴り、周囲に居た数人が男性を宥めるように押さえている。
「申し訳ありません!」
「謝って済む問題か! この大事な場所で恥をかかされたんだぞ!」
必死な表情で頭を下げる女性の頬は赤く腫れ上がり、男の怒りは収まる気配もない。
状況から察するに、給仕をしていた女性が誤って男性のシャツに飲み物を溢してしまったようで、スーツの前ボタンを開けていたため白いシャツにべったりと染みがついてしまったらしい。
確かにその状態でレセプションに参加し続けるのは難しいだろうし、何か目的があって出席していたのであればこれほど激高するのも無理ないだろう。
別の会場スタッフも慌てて飛び出してきて、男のシャツを綺麗なタオルで拭きつつ、代わりのシャツを用意するので別室で着替えてもらえるように提案している。
とはいえ、代わりといっても所詮は間に合わせの既製品なので、汚された方の男は到底納得できないと喚き立てる。
「チッ! 小せぇ男だな。鷹揚に許して着替えた方が株も上がるだろうに」
「あの方は最近東アジア向けの事業を拡大させた企業のCEOですね。おそらくこの後商談でもするつもりだったのでしょうけれど」
「衆人環視の中でする態度としては悪手ではあるね」
京太郎が不快そうに顔をしかめ、琴乃と雅刀も困ったように渋い顔で囁き合う。
「何を逃げようとしてるんだ!」
「きゃあっ!!」
ザワッ!
腫れた頬を押さえながら立ち上がろうとした給仕の女性を、逃げようとしていると早とちりしたのか男が怒鳴りながら蹴り飛ばした。
相当な力を込めていたようで、女性が床を数度転がり腹部を押さえたまま苦しそうに呻く。
尚も女性に詰め寄ろうとする男を、スタッフが全身を使って押しとどめる。
その間に女性は助けを求めるように涙で塗れた顔を巡らし、陽斗と目が合った。
「た、助けてください!」
「え!?」
激高する男に困惑するばかりの周囲、他のスタッフは男を宥めるのに必死という状況の中で目に入ったのが人の良さそうな少年。
そのような存在が間に入れば、怒り心頭の男でもさすがに無関係な少年に粗暴な態度は取らないだろう。
女性がそう考えたのだと、少なくともこの時点で周囲はそう理解した。
「お願いです!」
「あ、あの」
驚くほどの速さで陽斗に縋り付こうとした女性だったが、穂乃香と京太郎が慌てて身体を割り込ませたことで諦めたのか、それでも陽斗を男からの盾にするように後ろに回り込んだ。
その行動に穂乃香たちは眉を顰めたものの、まずはこの場を納めることが先だと考えたようで、女性の動きを気にしながらも男の言動に意識を向ける。
「何だこの子供は、お前には関係ないだろう。……俺はその女に責任を追及するだけだ。これ以上手は出さないからこちらに来させてもらおう」
さすがに子供にしか見えない陽斗にまで怒鳴るほど我を忘れていないようで、少し呼吸を整えてから押し殺した声でそう言ってきた。
が、そんな男を見て、陽斗は怪訝そうに首を傾ける。
「あの、何をしているんですか?」
陽斗の口から出たのは何とも空気を読まない疑問。
男の言動や給仕女性が殴られていることでトラブルの内容は誰が見ても明らかだ。それなのに、まるでそれが理解できていないかのような問いに、男は思わず口を開けて言葉を失う。
「は? 何を、だと?」
案の定、男は毒気を抜かれたような顔で陽斗に目を向けている。
「ああ、なるほど」
直後、穂乃香が納得したようにそう溢し、すぐに琴乃も同じことに思い至ったのか笑いを堪えるように口元を歪ませて何度も頷いた。
「一応確認しますけれど、陽斗さん、どうしてそう思ったのですの?」
穂乃香がそう訊ねると、陽斗は困ったように眉を寄せて理由を説明し始めた。
「その、貴方とスタッフの女の人、元々知り合いなんですよね? やり取りがお芝居みたいだし、頬を殴ったのは見てないからわからないですけど、蹴ったときはちゃんと合図してましたよね」
「確かに言われてみればそんな感じだったかしら。陽斗くんよくわかったわねぇ」
陽斗の言葉に琴乃が同意したことで、周囲で見守っていた招待客たちがざわめく。
陽斗の顔は知らなくても、錦小路家の令嬢である琴乃の顔はこの場にいる多くの者が見知っているのだ。
「な、なな、何を言っている! 俺はそんな女のことなど知らん!」
男が声を張り上げるも、周囲の疑うような目は消えることなく注がれている。
そもそも、このような大企業が主催するレセプションで、いくらスタッフの不手際があったとはいえ、招待されるほど社会的地位のある者が激高して暴力を振るうなど不自然極まりない行動なのだ。
それが錦小路家の令嬢や天宮家の子息、四条院家の令嬢と共にいる少年に近づくか取り入ろうとするための小芝居だとすると合点がいくのである。
「本当なのか?」
「だが、会場スタッフは本気で慌てているように見えたが」
実際、寸劇を繰り広げたふたり以外は知らなかったのだろう。彼らの演技が迫真のものだったこともあり、スタッフは本気で止めようとしていたし、招待客が女性に暴力を振るうという事態に困惑していた。
もしこれがスタッフも事前に聞かされていたならもっと粗が出て簡単に見透かされていたはずだ。
「おっと! 逃げようとするなよ」
京太郎が逃げようとした女性の腕を掴んで止める。
「はい。貴方もだよ。これだけの騒ぎを起こしたんだから主催者に説明と謝罪をしないとね」
引き攣った顔で目を泳がせていた男には雅刀が釘を刺す。
その直後、会場に数人の警備員らしき男たちが入って来て、琴乃が事情を説明するとふたりを連れて会場を出て行った。
「皆さん、お騒がせして申し訳ありません。どうにも奇妙な方々が紛れ込んでいたようですが、レセプションとは無関係であることは私が保証いたします。どうか気にせずご歓談ください。準備ができ次第我が社の新しい商品と今後の展望をお話しさせていただきます」
それからすぐに60歳くらいの初老の男性、おそらくは主催企業の代表だろう、その人物が壇上に立ち、マイクでそう説明した。
男性の隣には重斗が立っており、陽斗と目が合うと意味ありげに小さく頷いてみせる。
「どうやら警備員を呼んだのは重斗様の指示のようですわね」
あまりにタイミングの良い対応と重斗の表情から穂乃香は察したようだ。
あの行き過ぎた爺馬鹿の重斗が、陽斗が騒動に巻き込まれたにもかかわらず近づいてこなかったのはこうなることが予測できていたからだろう。どの時点で把握したのかはわからないが。
「にしても、陽斗はよくわかったな。アイツらの騒ぎが演技だって」
「本当にね。いつもながら陽斗くんの洞察力はほとんど超能力としか思えないわ」
京太郎と琴乃が感心と、どこか呆れを含んだような口調で笑う。
実際、給仕の女性スタッフの顔は本当に腫れ上がって赤くなっていたし、蹴り飛ばした時も打撃音が離れた場所にまで届くほど激しいものだった。
もちろん男性が本気で女性を蹴ったなら当たり所によっては重篤な怪我になっただろうし、女性はすぐに陽斗に助けを求めて近づいたのだから上手く防御したのだろうとは思うのだが、少なくとも傍から見ていてとても演技には見えなかったのだ。
それなのに陽斗は最初から男女のやり取りが奇妙なものであるかのように困惑していたように思える。
まだ社会経験の浅い京太郎たちばかりでなく、会場にいた経験豊富で人を見る目が十分養われて居るであろう経営者たちですら彼らの演技を見抜いている様子はなかった。
まるで本当に心が読めるのではないかと京太郎の背に冷たいものが流れる。
「あの、視線が、男の人と女の人の視線が、なにか示し合わせたように思えたので。それにすごく怒鳴っていたのに、声にあまり感情がこもっていないような気がして」
おそらくは改めてその時の光景を映像などで確認すれば京太郎たちにも陽斗の言葉が理解できるだろう。
だが、会場が混乱する中で冷静にそこまで観察する心の余裕があるかと問われれば、難しいとしか答えられない。
陽斗の持っている能力というのはそういう類のものなのだ。
「クソッ! 何なんだあのガキは!」
「まさかあんなにあっさりとバレるなんて。痛い思いをしただけ大損だわ」
警備員に連れ出され、会場の控え室に押し込まれたふたりだが、とある人物が事情を説明して主催者側に謝罪したことで、とりあえずは警察沙汰になることなく解放された。
要は、噂になっている皇家の後継者に取り入るためにわざと騒動を起こして近づこうとしたという説明だ。
事前の調査で、皇の孫がかなりのお人好しで、困っている人を見ると手を差し伸べる甘さがあると考えた彼らの依頼者が今回のシナリオを描いたのだ。
レセプション会場のスタッフとして以前から潜り込んでいた女が、わざと男にワインをぶっ掛けて怒らせ、男は女に暴力を振るう。
そこまで見せた上で陽斗に助けを求めれば、女に同情して庇おうとするだろうと見込んでいたわけだ。
そうして知己を得ることができれば、礼をしたいという口実で近づき、色仕掛けやその他の方法で陽斗と重斗を引き離すことができる。
そんな浅い目論見で起こした騒動だったのだが、知己を得るどころかあっさりと演技を見破られ、会場からつまみ出される羽目になった。
完全に顔を覚えられてマークされるであろう彼らはもう陽斗にも重斗にも近づくことができない。
ふたりを解放してくれた人物であり、今回の依頼者でもある男の車で移動する間、ふたりの愚痴が止まることはなかった。
「ですが、困りましたねぇ。あの様子では謀を持って近づこうとすればすぐに看破されそうですし、皇の後継者にあんな能力があるとは思いませんでした。敏い子供だとは聞いていましたが」
運転席の男が言葉とは裏腹にどこか可笑しそうに言う。
「それで、我々はこれからどうすれば?」
愚痴っていた男がおずおずと訊ねると、運転手は少し考える素振りを見せる。
その仕草はどこか芝居じみていて、パントマイムをする道化師を思い起こさせる胡散臭さがあった。
「そうですねぇ、多分今回のことで皇の老人には目をつけられたでしょうし、とりあえず今の会社は離れた方がよろしいでしょうね」
「なっ!?」
「せっかく築き上げた会社を手放すのは惜しいでしょうが、代わりのポストは用意しますよ。ほとぼりが冷めた頃、つまり皇が財界から消えればその資金を使ってまた返り咲けば良いのです」
「それまではそちらが待遇を保証してくれると?」
「はい。皇が居なくなっても他に力を持った家はありますからね。その時に味方が多い方がやりやすいですから。それまではおふたりでシンガポールにでも行っていてください」
運転手の言葉に、男は渋面を崩さぬまま溜め息を吐いたのだった。




