196◇恩義
「ヤクモ、アサヒ」
出発前、ミヤビが現れた。
水と食料など移動中に必要なものに関しては、《エリュシオン》の者達が喜んで用意してくれた。
準備は整い、後は出るだけ。
兄妹が寝泊まりに使った木造家屋の一室に、師が尋ねてきたのだ。
「えぇい、なんですか。兄さんとわたしの至福の二人きりたいむを邪魔するとは、我が師ながら忌々しいことこの上ありませんねまったく」
ぐるる、と妹は威嚇するように唸る。
そういえば作戦開始からこちら、二人きりと言えるタイミングは無かったかもしれない。あったとしても単騎での移動中くらいで、気の休まるものでもなかった。
普段はモカと同じ寮室で生活を送っているし、アサヒからすれば貴重な時間。
「そう荒ぶんなよ」
ミヤビは楽しげに笑いながら部屋に入ってくる。
チヨもいたが、中には入ってこない。
そのままミヤビが扉を締めたので、外で待つらしいと分かる。
珍しい。ミヤビがチヨを遠ざけるのは見たことがない。
一度目のカエシウス戦での件が尾を引いている……というわけでもないだろう。弟子の立場から見ても、姉妹の絆は強固だ。
辛い選択だったが、それで関係がギクシャクしているというわけでもないだろう。二人とも思ったことをハッキリと口にする人物で、その上でここまで一緒に歩いてきたのだろうから。
「おはようございます、師匠」
「弟子の見送りする暇があったら、一度見捨てられて拗ねてるだろうチヨさんのご機嫌取りでもしたらどうです?」
アサヒは不機嫌なままだ。
「機嫌ならとったさ。昨日の夜にたっぷりな」
ミヤビはわざとらしくニヤッと笑う。
含みを持たせたその言い方に、アサヒがボッと顔を赤くした。
「うぇっ……? まさか……そういう?」
おろおろし出したアサヒをしばらく眺めていたミヤビだが、堪えきれなくなったとばかりに吹き出す。
「くっくっ……アサヒ、お前は可愛いやつだよ」
「……じゃあ、嘘なんですか?」
「さぁな?」
くつくつと笑いながら、ミヤビはとぼける。
ぐぐぐ、とアサヒは悔しそうに拳を握り、師匠を睨んだ。
「ほんと嫌いです」
アサヒが一方的に敵対視してはいるが、二人の関係は意外と良好だとヤクモは思う。
「それで、どのようなご用件で?」
ヤクモが改めて尋ねると、ミヤビは鷹揚に頷く。
「おぅ」
と、そこまではいつも通り。
だが自信に満ち満ちた《黎き士》はそこまで。
ミヤビは彼女にしてはとても珍しいことに、悩むような仕草を見せた。
これは大ごとだぞとヤクモが構えたところで、ミヤビは動き出した。
「うぷっ」
アサヒの声。
「え」
ヤクモは反応に迷ったが、結局抗わなかった。
兄妹揃って、抱きしめられたのだ。
「なんでずごれ……ぐるじいっ……」
師の胸の中で窒息しかけるアサヒ。
なんとか行動を読めていたヤクモは、隙間から顔を出すことに成功。
「あの……師匠?」
師匠と弟子の関係とはいえ、ミヤビは美しい女性だ。抱きしめられて無反応とはいかない。
ミヤビの手が二人の背中から、頭へ移る。
またしても珍しいことに、優しく撫でられる。
いつもは髪がぐしゃぐしゃになるような撫で方なのに。
「お前らはもう《黎明騎士》だかんな、他の奴らの手前、こんなこたぁ出来ねぇだろ」
「いぎでぎないのだが? ……ぷはっ。何の拷問ですかこれ兄さんにわいせつ物を押し付けないでください叩き斬りますよ?」
アサヒの抗議は無視。
「今回は本当に助かった」
その声があまりに真剣なものだから、アサヒも静かになる。
ミヤビとの再会は戦闘中で、その後も常に他者の姿があったので師弟だけで話をする時間がとれなかった。
彼女はもうヤクモ達を認めている。《黎明騎士》として。
普段ならばともかく、今回は命を救われたのだ。
感謝の意を示すにしても、他者の目がある中で頭を撫でるというのは不適切。
《黎明騎士》が《黎明騎士》を下に見ている、ととられかねない。
彼女は《黎明騎士》としてのヤクモ組に配慮したのだ。
だが今ここに他人の目は無い。
だからこそ、彼女は自分のしたい方法で弟子に感謝を示すことが出来る。
チヨを入れなかったのは、彼女の側が気を遣ってくれたというだけのこと。
ヤクモはそういうことだろうと判断。
「大きな借りが出来たな」
その、ミヤビのあまりに的外れな発言に。
アサヒはため息を溢し、ヤクモは苦笑した。
「それは違いますよ、師匠」
「兄さんの言う通りです、馬鹿らしい」
「あ? どういうこったよ」
そっと離れるミヤビの顔には、困惑が浮かんでいる。
「僕らはきっと、一生師匠に貸しは作れませんよ」
「……えぇ、癪ですが。既に返しきれない恩を受けていますから」
あの日、ミヤビに声を掛けて貰えなければ。
ヤクモ達はあれからもずっと闇の中で戦い続け、家族は日に日に減り、生きる為だけに生きる人生を送っていただろう。生き残る為だけに戦う命として散ったことだろう。
ミヤビが見つけてくれたから。
兄妹と家族には未来が開けた。
誰に知られることもなく数を減らすだけだった夜鴉の群れは、幸福になれる可能性を手に入れた。
人生を変えてもらったのだ。
恩義云々を持ち出したら、こちらは何をしても返しきれない恩を既に受けている。
「僕らは当たり前のことをしただけですよ」
「感謝するのは結構ですが、恩なんか感じられても困るだけですから」
そんな弟子の言葉に。
「……あー、ったく。お前らはそうだよな。そういう奴らだった」
ミヤビは呆れた顔をしてから頭を掻き、そのまま背を向ける。
「らしくねぇことしちまった。忘れてくれ」
ひらひら手を振って出ていこうとするミヤビ。
退室の前、一瞬立ち止まった彼女は振り向かずに呟いた。
ように聞こえた。
「かたじけない」
その声は、少し照れくさそうだったように思う。
「……なんですカタジケナイって」
生粋のヤマト民族でないアサヒが首を傾げる。
「幾つか意味はあるけど、今のは……ありがとうってことだろうね」
「調子が狂いますね」
憎まれ口を叩きつつ、やはりアサヒは師匠が嫌いではないのだなと、微笑する妹を見てヤクモは思った。




