116◇懇願
ルナは完璧だった。少なくとも周囲にそう思われるだけの実力を示し続けていた。
完全者を冠し、そのことに異を唱える者がいないことからもそれは分かるだろう。
正規隊員はみな、学舎を卒校した者達である。
魔力炉の活動は年齢と共に衰え、また体調や精神が武器の性能に影響する。
つまり、加齢は《導燈者》《偽紅鏡》の双方を弱体化させる。
どれだけの鍛錬を積んだところで、精々が引退を数年引き伸ばせる程。
戦闘員の中では、三十半ばの頃には老兵扱いされるのが実情。
領域守護者は若年層で構成される。
だが、そんな若い彼らに不足しているものがある。
経験だ。
十代後半から二十代半ばの者を中心に編成される《班》。
大きな戦闘をほとんど経験したことがなく、魔人が現れれば応戦した者の大半は殉職し、《黎明騎士》が対処にあたる。
スファレ=クライオフェンを中心とした訓練生の《班》が魔人を討伐した功で勲章を受けて以後、彼らの戦闘記録が各組織間で共有されることとなったが、それを即座に飲み込み反映出来る程、彼らは素直ではなかったし、仮に努力したところで実行出来たかは怪しい。
スファレ、トルマリン、ネフレン、スペキュライト、ヤクモ。
彼らは揃ってランク保持者だった。
だが正規隊員のほとんどは、当然だが訓練生当時ランク外だった者ばかり。
故に。
訓練生から学ぶということがプライドから出来ず、それが出来る者達も実力不足から再現が出来ない。
結局、世界の理は変わらない。
強い者だけが、結果を残せる。
今のルナのように。
「……役立たずばっかり」
都市には《偽紅鏡》の発動を取り締まる法があるが、人命や都市機能が危機に瀕している場合に限り発動が許される。
ルナや一部の領域守護者は正式な任務の発行を待たず、壁の穴に向かっていた。
『東に、行こう』
ルナは《導燈者》であるグラヴェルの身体を使って戦う。その間、彼女の精神は武器化された《偽紅鏡》のような状態になるのだ。
頭の中に響く彼女の声に、ルナは苛立たしげに表情を歪めた。
「はぁ? ヴェルのくせにルナに指図しないでくれる?」
壁に穴が空いた時、ルナは本家に顔を出していた。
そして父の命令で、北に向かったのだ。
男女の双子の魔人だった。
想定よりも被害が少なかったのは、彼らが人間を嬲り殺しにするのが趣味だったから。
ゆっくりと虐め抜き、死ぬまで遊ぶ。
趣味が悪いにも程があるが、その趣味に興じていたことで北方面は破壊の規模が小さかった。
一般人や、周囲を巡回中だったらしい『赤』の隊員、ルナと同じように駆けつけた『白』の隊員が被害に遭っていた。無残な死体となって。
今、死体の山に二体の魔人が加わっている。
セレナの部下だったらしいが、どちらも二級指定といったところ。
凡才では束となったところで敵わない相手だが、一部の天才は違う。ルナは違う。
北の壁の穴を塞ぐ。ルナは土魔法も搭載していた。
『でも、ツキヒ』
「ルナはルナだって言ってるでしょ」
『二人の家族は、東の外周に住んでる。きっとあの二人は……』
ヤクモとアサヒなら、助けに向かっていることだろう。
分かっている。
だが。
「だったら何? ルナには微塵も関係ないんですけど?」
壁の縁に配置されていた『蒼』からの反応は無し。壁の穴は四つで、魔人は六体程。模擬太陽は落ちた。
穴を三つに減らしたところで、絶望的な状況には変わりない。
大本の命令を下すタワーが襲撃されたことで指揮系統は大混乱。もし意図してのことなら、あのセレナという魔人は思っていたより賢い。
魔獣の侵入は無く、壁の外では紅蓮の炎が燃え盛っている。
《黎明騎士》第三格《黎き士》ミヤビは壁の外らしい。
まだ都市が滅びていないのは、確実に彼女のおかげだった。
魔獣が一匹も侵入していないのは大きい。
後は各方向で魔人を討伐し、穴を塞げばいいだけ。
しかし、それは容易なことではない。
私情で不出来な姉を助けに行く余裕など無いのだ。
『ツキヒ』
「うるさいってば!」
気付けば、足が東に向かっていた。
「言っとくけどね、ルナはあんなやつどうでもいいんだ」
ルナは姉が大嫌いだ。
魔法は持ってないし、武器は脆いし、自分に自信がなく、そしてあの目だ。
あの、黒曜石のような瞳。
あの女と同じ瞳。
アサヒは才能が無く、卑屈で、泣き虫で、全てにおいて自分に劣っていた。
なのにいつまでも姉のような面をやめず、姉のような振る舞いをやめず、それで。
それで。
ちり、と脳裏によぎる記憶。
――『お父様、ツキヒはとても優秀な子です。わたしなんて及ばない。本当に素晴らしい《偽紅鏡》になります』
胸が絞られるように苦しくなる、十年前の記憶。
――『だから、どうかお願いします。あの子にチャンスをお与えください。わたしは何のお役にも立てません。けどツキヒは違う。あの子は本当に、すごい子なんです』
十年前、ルナは欠陥品扱いされていた。
まだグラヴェルに会う前だ。
《偽紅鏡》は道具。使われる者。
だがルナには分かるのだ。《導燈者》が無能過ぎることが分かる。人格を交代する魔法もあって、自分で戦う方がいいと分かる。
それは常識外。
《導燈者》は誇り高い職だ。
だから、道具に使われるなんてことは受け入れられない。
ルナ自身の優秀さと、《導燈者》のプライドは噛み合わなかったのだ。
そしてルナは決して譲らなかった。使役されるなんて御免だった。
結果。
ルナと組もうと考える者はいなかった。
だから母が死んだ時、父はアサヒもルナも捨てようとしていたのだ。
魔法を搭載していない娘も、魔法を多く搭載しているが誰とも組めない娘も、価値は同じ。
ルナはある夜、父に懇願しようとしていた。
自分は役に立てるから捨てないでくれと言うつもりだった。
父の書斎には先客がいた。
無能な姉だ。
てっきり、同じ目的かと思っていた。先を越されたと思った。苛々した。
でも違った。
姉は、最初から自分自身のことなど考えていなかった。
父に向かって、妹の価値を説いていた。
意味がわからなかった。
壁の外に捨てられるのだ。
魔獣に食われてしまうのだ。
そんなの嫌だ。嫌に決まっている。
だというのに、アサヒは妹だけは壁の内に残してほしいと頼み込んでいる。
――『お願いします、お父様。ツキヒだけは、どうか』
何を思ったか、父はそれを承諾した。
ルナは自室に駆け戻り、頭から布団を被った。
喜びは無い。微塵も無い。
吐き気がした。自分にだ。自分が、才能溢れる自分が、将来確実に成功を収めるだろう自分が、とんでもなく卑しく醜い生き物に思えてならなかった。
あの姉にさえ出来ることが、自分には出来なかったのだ。
あの夜から、ずっと消えない。
吐き気と嫌悪が収まらない。
自分が忌み嫌う才能無き者。
その最たる存在である姉に、あろうことか命を救われたという事実。
「ルナは……」
消えないんだ。いつまでも消えてくれない。
――きみに生かされたって思いが、消えない。
これが消えるまで、あの女に死なれては困る。
それだけだ。
本当に、それだけの。




