111◇夜雲
「ねぇ父さん。僕の名前って夜の雲って意味なんだよね?」
妻が倒れる少し前、息子がそう尋ねてきた。
「あぁ、そうだなぁ」
仕事を終え、贅沢とはいえない食事を家族三人で囲んでいる時のことだった。
「えー、なんかいやだなぁ。ぼく、夜は嫌いだし。みんなも嫌いじゃないか、夜なんて」
確かに他のヤマトの者にも縁起が悪いと言う者達はいた。
ヤマトを夜鴉と呼ぶくらい、人々は夜やそこから連想させる黒を忌避している。
だが、もちろん理由があった。
妻が柔らかく微笑んでいる。
「わたしも訊かれたんだけど、お父さんから説明してあげた方がいいと思って」
「二人で付けた名じゃあないか」
「そうだけどね」
ヤクモは早く答えを聞きたいのだろう、コウマを急かした。
「なんで父さんは光馬で母さんが空之なのに、ぼくは夜雲なの? 明るい名前がよかったのになぁ。ねぇ、どうして?」
コウマは説明した。
ヤクモが生まれたのは、真夜中のことだった。
貧乏人は夜に灯りを確保することさえ苦労するが、その時ばかりは他の家の者達も協力してくれた。
息子が生まれたのと、光源が絶えたのは同時。
真っ暗闇で泣きじゃくる息子。
その時だ。
いまだに分からない。錯覚か、他に理由があるのか。
窓から弱々しいが、確かに光が射し込んだのだ。
外を見ると、空には雲が泳いでいた。
「雲? 夜なのに?」
「あぁ」
ヤクモが椅子から下りて窓に近づく。
「見えないよ。絶対見えない」
「お母さんも見たわ。本当の話なのよ」
「母さんが言うならほんとかも」
「おい」
皆で笑う。
「本当だぞ。真夜中なのに、白い雲が浮かんでいたんだ。それ自体が光っているみたいな、綺麗な雲だった」
「夜を照らす、白い雲。そんな日に生まれたから、夜雲と名付けたの」
「それにな、まず父さんが光ってことで太陽だろ? 母さんが空だ。んでもって、お前は雲」
ヤクモがハッとしたように両親を見る。
「全部空のものなんだね!」
嬉しそうにヤクモが笑う。
「あら、そんな理由もあったのねぇ」
妻も笑っている。
今でっちあげたということを知りながらも指摘しないあたりが、妻らしい。
「そうしたら、雲の上に太陽があったのかもね」
ヤクモが言った。だから雲が光ったように見えたのではと。
「どうだろうなぁ」
太陽が世界から消えて久しい。
あの夜の雲のことは分からない。
「きっとそうだよ!」
でも、息子がとても嬉しそうに言うので。
「そうかもしれないわね」
「あぁ、そうかもしれないなぁ」
なんて言って、夫婦は微笑んだ。
今なら分かる。
あれはきっと、自分で光ることが出来る雲だったのだ。
夜に光る、白い雲。
闇を払う、柔らかい灯火。
自分と妻の愛する、自慢の、誇りである息子に相応しい名前だ。
いつか、もう少し難しい話も理解出来るような歳になったら、改めてそう言ってやりたい。
その機会は、ついぞ得られなかった。
◇
クリードはコウマを殺した。
セレナとの約定がある為に、ヤクモは殺してはならないが、それはクリードの本来のやり方では無い。
挑んでくる者には全力で応える。
媚びる者には仕事を与える。
従う者は殺さない。
クリードは魔人だが、人間の殲滅には大した興味が無い。
だが、人間は追い詰められると、たまに面白い存在を生み出す。
ミヤビのような強者、ヤクモのような興味深い人間。
そしてコウマのような戦士。
元よりそういう生き物だったわけではないのに、必要に迫られて開花する。
精神的強者というべきか。
それがクリードは好ましかった。
退屈な世界の中で、そういった者との戦いだけが心を潤してくれた。
ただ強いだけの存在など無意味だ。どうせ自分よりも弱い。ならば自分一人いれば事足りる。
だが、精神的強者は違う。
自分のように強く生まれたわけではない。
弱いのに、強さを見せてくるのだ。
そのちぐはぐさが、胸を躍らせる。
未知に、好奇心がくすぐられるようなものだろう。
コウマも面白かった。笑えるという意味ではない。満足が得られた。
彼は百や千、幾億回生まれ変わったとて、クリードには勝てない。そんなことは明白。なによりも彼自身がそれを自覚し、無様に震えていた。
だというのに。
絶対に死ぬと分かっていながら、クリードに立ち向かったのだ。
息子が純白の糸で傷を縫い終わるまでの、長くても十数秒。
たったそれだけの時を稼ぐ為に、命を使った。
人間は、生き汚い生き物なのに。生きる為なら肉親を売る者だってクリードは見てきた。
最後は自分大事。百人いれば百人がそうだ。
だが千人いると、たまに違う行動をする者が現れる。恋人であれば見捨てる者の方が多い。夫婦でも。きょうだいともなると、立ち向かう割合が少し高くなるが、まだ見捨てる者が多い。
そして、親子。これが一番興味深い。
どうにも、我が子を見捨てられない者というのは多いようだった。
だがコウマはそういった親達とも違った。
基本的に、親がするのは懇願だ。子供だけは見逃してくれと頼む。自分を殺せと叫ぶ者もいる。
それが自然だろう。挑もうものなら、怒りを買って我が子もろとも殺されると考えて。
だがコウマは、戦った。
息子を見逃してくれと頼みはしなかった。
そこが素晴らしい。
彼は信じたのだ。
十数秒を稼げば、ヤクモがクリードを討つと。
命を捨てれば、息子が勝てる道が拓けると。
そして、その信頼が愚かで無かったことをクリードは悟る。
そこからの戦闘は、クリードが生きてきた中で一度も味わったことのない興奮をくれた。
ある意味で、ミヤビよりも余程熱が入ってしまった。
コウマの首を剣で刎ねてから、それが地に落ちるより先に、戦いは再度始まった。




