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眼中にない  作者: アンリ
第一章
9/10

1-9 そういうこと

 その時だった――背後にどす黒い気配をナギが感じたのは。

 ほぼ同時にシュリの表情が豹変した。


「お前はあの時の……!」


 振り向けば、そこにいたのは――。


「シュリの知り合い?」


 ナギには見覚えのない男だった。

 だがこめかみをひくつかせているから、何やら怒っているのは確かだ。


「面倒ごとは組に持ち込まないでよ。みんなただでさえ忙しいんだから」

「え、ええと。ナギさん」

「なによ」

「自分でこいつの鼻を殴ったの、覚えてないのか?」

「いいえ? 私、汚いものが嫌いなのよ。ねえ、それよりかき氷はまだ?」

「このアマ……っ」


 不穏かつ汚い発言にナギが視線を動かすと男は鬼の形相になっていた。


「お前に用があるんだよこのやろう!」


 ナギが大きなため息をついた。


「警察呼ぶわよ。今、圧倒的に不利なのはあなただけど?」


 机に置いていたスマホを手に取りひらひら振ってみせる。

 拮抗状態も嫌な沈黙も長くはつづかなかった。


「……覚えてろよ!」


 男は憎悪のこもった瞳でナギを睨みつけると乱暴な足取りで店内から出ていった。野蛮な人間がいなくなることで店内の空気がみるみる緩んでいく。


「案外あっけなく消えてくれたわね」


 だが店内の客や店員からの視線が痛い。ナギは一度目を閉じると席を立った。


「行くわよ」

「でもまだかき氷が」

「いいから行くの」


 ほらね、平穏なんてないでしょ。店を出た直後にナギがそう言ったら「確かに」とシュリが渋い顔になった。そのせいだろう、帰り道、シュリは落ち着かなかった。しょっちゅうあちこちに視線をやるし、急に後ろを振り向いたりする。


「あのねえ。そんなにびくびくしなくてもいいのよ」


 深いため息とともにナギが告げても、「でも不安なんだよ」と言い返す。そんなに殴られたり蹴られたりするのが嫌なのか、ああでも普通はそうかと思い至ったところで「ナギさんの身に何かあったら大変だ」とまで言われ――ナギはとうとう笑ってしまった。


「不思議ね」

「なにが」

「私はあんたをかどわかした女よ。私が死んだ方が嬉しいんじゃないの?」


 くつくつと湧き上がる笑いをこらえながら言うと、これにシュリがぽかんとした顔になった。


「あら。気づいてなかったの? 確かにシュリのことは子分にしたけれど、不可抗力で私が死ぬば、その時にはきっとお役御免で解放されるわよ。この任侠の世界から」

「……そうなのか?」

「ええ。だってここではシュリのことなんて誰もいらないもの。私以外にはね。ね、その日が来るのが楽しみ?」


 両腕を腰の後ろに載せ、無邪気を装ってシュリを見上げる。


「ねえ。楽しみって言ってよ」

「……どうして」


 シュリはひどく傷ついた顔になっていた。


「自分の命じゃないか。それをどうしてそんなふうに言えるんだ」

「実感がほしいのよ」

「……なんの」

「この世にいた証ってやつ。私がいたことで変わるものが一つくらいあるんだって信じたいのよ。……ね、やっぱり不思議だわ。ボディーガードどころか番犬にもならないあんたなんかに期待しちゃうなんて」

「いや」


 シュリが言い返す。


「ちゃんと言ってなかったけど、俺、中高の時はそれなりに喧嘩してたし、負けたこともないから」


 自分でも何をムキになっているんだろうと思う。


「ああ、もちろん組の人達がしているようなこととは比べものにならないけど。だから全然誇れることじゃない。だけど」


 そこで少しためらったものの、言った。


「女一人くらい、護れる」


 なぜこんなにも意固地になっているんだろう――そうシュリは思っている。今日の自分はどこかおかしい。いや、ここ数日ずっとこんな調子だ。あの夜、桜田と交わした会話がずっとどこかにひっかかっている。


 しかし当のナギも同じようなことを考えていた。シュリはなにを訴えたいのだろうか、と。私が死ねば楽になれるとせっかく教えてあげたのに、どうしてわざわざ辛い道を見出そうとするのか、と。


 やがてナギが目を伏せた。


「ありがとう。でももういいわ。忘れて」


 期待――そんな華やいだ言葉を使ったのが間違いだった。


「なんだよそれ」

「いいから。さ、帰りましょう」


 与太話はおしまいとばかりにナギが会話を打ち切った。


 美しい黒髪をなびかせてナギが歩きだす。その背を見つめながら、シュリが伝えきれないもどかしさできつく唇を結んだ。



 *



「リビングの芍薬、ナギが買ってきたんだってなあ」


 その夜、数日ぶりに帰宅した重蔵の着替えを手伝っているとふいにその話題になった。


「はい。駅前で買ってきたんです」


 ナギの頬が自然とほころぶ。こうして会話がはずむなら、これからは花を絶やさないようにしよう。もっと花について勉強もしよう。だが重蔵は予想外のことを言った。「どうして白ばっかりなんや」と。


「それは」


 ナギが言い訳するよりも早く「ケンタが言うとったで」と重蔵がつづける。「他の色が裏の方に捨てられとったってな」と。そして柔和な笑みを消し、いつになく真面目な顔になった。


「前に言うたよな。わしは中途半端は好かんて」

「え」

「買うたならちゃんと面倒みいや。切り花にも切り花なりの生ってもんがあるんちゃうか」


 怒られた――そのショックでナギが何も言い返せないでいると、重蔵が若干困った顔になった。


「なあ、ナギ。お前は好きにしとったらええんや。これまで好きにできなかった分、わしがお前のことを甘やかしちゃるけえ」

「あ、の」

「なんでも買ってええ。男をくわえても博打をやってもええ。店をいくつか任せてもええで」


 やはり知っていたのだ、重蔵に黙って夜の店を回っていたことを。


 だが動揺するナギに重蔵はさらに言い募った。


「でもな、何事も本気でやりいや。中途半端はあかん」


 目の奥底に炎がともった――そんな錯覚にナギはふいに襲われた。


 どうして――?


 どうしてそういう不道徳なことがゆるされて、花を捨てることはゆるされないの?


 そういうことをしても気にしない、その程度の存在なの――?


 点ほどの存在であった炎はあっという間に全身に広がり、瞬間的にナギを高ぶらせた。


 無理やり妻にしたくせに。

 なのにいつまでも『本当の妻』として扱ってくれないくせに……!


 三年――そう三年もの長い間ナギはこの男に軽んじられてきた。しかも重蔵はナギを迎える以前から別宅に愛人を囲っていて今も足繁く通うのをやめようとしない。その愛人との間には高校生になる息子までいて、遠くない将来、組の跡目を継がせるつもりなのだとか。


 だからナギに組長の妻としての責を期待するものは組員に誰一人としていない。ただ養われているだけの無益な存在であることを彼らもわかっているのだ。


 それでもナギは自分にできることはなんでもやってきた。


 なのにこんなの……あんまりだ!


 けれど怒りはすぐに沈下した。理由が察せられたからだ。


「……そういうこと、なんですね」


 この家に嫁ぎ、極道の妻となって以来ずっと自問してきた悩みになぜか今ナギは答えを導き出していた。


 そうだ、桜田が以前言っていたではないか。どうして何の益もない十六の娘を妻にしたのか意を決して尋ねたら「『きれいなもんが汚されるのは面白くない』とおっしゃっていたな」と、そう言っていたではないか。


 あの時には理解できなかったが――今ならわかる。『その言葉どおり』だったのだ。


 重蔵がやや驚いた表情になった。


「なんや? どうした?」


 これまで一切反抗的な態度を見せてこなかったからこそ、涙目になってしまったからこそ、この男を驚かせたのである。


 ナギが重蔵を睨んだ。だが言葉は出なかった。出るわけがないのだ。いくら激しい思いに揺さぶられていても、それを簡単に口にできるくらいなら今までこんなふうに苦しんではこなかった。伝えたいことを思うがままに伝えられるなら、こんなみじめな思いで三年も耐えたりはしなかった……。


 ナギはとっさに重蔵の部屋を飛び出していた。

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