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眼中にない  作者: アンリ
第一章
8/10

1-8 芍薬、そして百合

 気だるく暑い日曜の午後。暇を持て余したナギはシュリを呼び出した。「花を買いに行くわよ」と。ちなみに重蔵は今日も不在だ。いや、たとえ在宅だとしてもナギに構うことなどないのだが。


 シュリはナギの命令に嬉々として従った。


「助かったよ」道すがらシュリが言った。「あやうく瀬名さんに裏山まで走らされるところだったからさ」


「シュリは走るのは嫌いなの?」

「往復二十キロは好きとか嫌いっていう次元で語るものじゃない」


 渋い顔で首を掻いてみせたシュリに、ふふ、とナギが笑った。


「……なによ」


 長い間見つめられてナギが睨むと、シュリはすいっと目線を逸らした。


「あ、いや」

「言いたいことがあるなら言いなさいよ」

「え。いいのか」

「いいわよ」


 最近シュリが自分について情報収集していることをナギは知っていた。そんなに雇い主の素性が気になるのかと思っていたのだが、ここでシュリが変化球にみせかけた直球を放ってきた。


「おやっさん、外に愛人を囲っているってホントなのか」


 ナギの足が止まりかけた。だが意地で歩きつづける。


「本当よ。それが何か?」

「あ、いや」


 まだ何か言いたいことがあるのだろう。だが言っていいものかどうかはかりかねている。


 そういう人間と接するのは久しぶりで、ナギはシュリの態度、その存在をあらためて新鮮に感じた。ナギの周りにはオブラートに包まない人間と、包むどころか何も提示してこない人間、この二通りしかいなかったからだ。


「ちょっと待って。先に花を買いたいわ」

「え」

「そのあとでかき氷を食べに行きましょう」


 話は、そのときに。


 ナギの足が自然と速くなったのは、素足に絡むロングスカートのフレンチリネンの感触が心地いいことだけが理由ではなかった。



 *



 花屋ではクーラーの冷気と幾枚もの花びらを重ねた大輪の花々が二人を歓迎してくれた。


「あ、牡丹ね」

「違う。よく見ろよ」


 花瓶の下、シュリが指さすポップには手書きで「芍薬しゃくやく」と書かれていた。


「へえ。これが芍薬なのね」


 名前は聞いたことはあるが実物を意識して見るのは初めてのような気がして「随分牡丹に似てるのね」とナギがつぶやく。これに「だな」とシュリがうなずいた。


「立てば芍薬、座れば牡丹って、結局どっちも同じように美しいってことなのかもしれないな」

「じゃあ歩き出したら別人になるってこと?」


 歩く姿は百合の花、というくらいだから。


「黙っていれば美人だけど動き出したら印象が変わるってことじゃないか」

「なるほどね」


 と、目の前にある芍薬と、すぐそこに見える肉厚の百合を見比べながらシュリが独り言のように言った。


「芍薬に比べたら百合は凛として賢そうな感じがする」


 さらには「ただ立ったり座ったりするだけの存在では身に着けることのできない品位、それに知性を感じる」とまで言った。


「あんたってけっこうロマンチストなのね」

「そこは論理的と言ってほしいかな」

「しかも意外と饒舌」

「……悪いか」


 そこに先程から二人の近くにいた店員が突然話しかけてきた。


「お客様。百合の花言葉を知っていますか」


 こうやって一般人から気軽に声をかけられるのもシュリが同伴者だからだが、まだ慣れないナギはなんとなく面映ゆい気持ちになりつつ答えた。


「ええと。確か純粋、ですよね」

「はい。そのとおりです」


 人懐こい笑顔で店員がうなずいた。


 ああ、こんなふうに混じり気なしの笑顔を向けられるのも随分久しぶりだ。


「聖母マリアの象徴でもありますし、花言葉として純粋や純潔は有名ですものね。でもその他に威厳という花言葉もあるんですよ」

「えっ。そうなんですか」


 百合という花は想像以上に力強い言葉を纏っているものらしい。


「ええ。ですから先ほどお連れの方がおっしゃっていた百合のイメージは、純粋と威厳、まさにこの二つで言い表せるんです」


 いかにも花が好きそうなベテランっぽい店員は、どうやらシュリの発言が的を得すぎていてつい話しかけてきたようだ。


 純粋と威厳――人間として尊ばれる性質ではあるものの、二つが並ぶとこうも圧倒されるのはどうしてだろうか。


「あの。芍薬の花言葉はなんて言うんですか」


 なんとなく気になってナギが訊ねると「はじらいとか慎み、ですね」と返された。


「もっとパワーワードみたいなものはないんですか。さっきの威厳、みたいな」

「そういったものはないと思いますよ」


 いよいよ気になったナギはスマホで検索することにした。ちなみに今は和カフェで注文したかき氷を待っているところだ。


「芍薬って色によって特別な花言葉があるんですって」

「へえ」

「赤は誠実、ピンクははにかみ。そして白は」


 ベンチ型の横に長い椅子にはその三色を五本ずつ束ねたものが置いてある。


「白は……幸せな結婚」


 その呟きはそれなりに混んでいる店内ですぐに霧散した。

 だが対面に座るシュリにはしっかり聞こえていた。


「花屋に入る前に話していたことの続き、だけど」


 そうくるだろうとわかっていたから、ナギは目線だけで先を促した。


「俺みたいな人間にも聞こえてくる醜聞をどうしてナギさんは放っておくんだ。おやっさんが出ずっぱりなのもその女のところに通っているからだそうじゃないか」

「へえ。よく知ってるわね。でもいいのよ」

「どうして」

「鳳のすることを邪魔したくないの」

「そういうことじゃないだろ」

「ねえ。どうして怒るの?」

「どうして?」


 シュリが宇宙人を見るような目つきでナギを睨んだ。


「当たり前じゃないか! ゆるせないだろ!」


 最もそばにいて最も献身的な人間を蔑ろにするなど、シュリにとって不愉快の極みだった。たとえ組長であろうとも。


 だが怒りで肩を震わせるシュリに対してナギは冷静だった。


「シュリがそんなふうに怒ることじゃないと思うんだけど」


 机に両肘をつき、組んだ両手に顎をのせてナギがシュリをじっと見つめる。私はあなたの母親とは違う、と。


 シュリは「それは」と口をつぐんだものの、やがてため息とともに言った。「ナギさんのことが心配なんだよ」と。少しでも力になってやれたなら……それだけだ。


「他にどんな話を耳に入れたのかは知らないけど私は心配されるような女じゃないわ」ナギが笑い飛ばした。「それよりも自分のことを考えたら?」


「なんでここで俺の話になるんだ」

「この世界にいったん足を踏み入れたらそれ相応の覚悟なしには生き残れないってことよ。こんなこと、あんたをかどわかした私が言うことでもないけど」


 かどわかした、というところでナギは笑いをとったつもりだった。だがシュリはちっとも笑わず、それどころか「そんなの初めてウリをした夜に比べたらどうってことはない」とぶっきらぼうに言い放った。


「どうってことない?」自然とナギの姿勢がよくなる。「確かに体を売ることや奪われることは辛いことだと思うわよ。でもシュリは違うでしょ。店側がそうならないように気をつけていたのにその目をかいくぐってしていたんだから」


 太く長く稼ぐため、どの店もそういったことには神経を使っている。それをナギは書類上ではあるが知っていた。


「なんだよそれ。俺が自分で望んだことだから仕方ないって言うのか?」


 シュリが剣呑な態度を示したことで、ナギは自らの失言に気づいた。ナギも父親によって売られる寸前だったが、そんな事態になるまで父親のそばにいることを選んだのは自分自身だったからだ。自業自得なんて言葉では誰も救えない。


「……ごめんなさい。そういう問題じゃないわよね」


 長いまつげを伏せて謝るナギは美貌による相乗効果でいっそう儚げに見え――シュリはこれ以上身勝手ないら立ちをナギにぶつけるわけにはいかなくなった。


「……いや。こっちこそむきになって悪かった」


 そして今、シュリは自らの発言によってひっそりと自爆していた。表情には出さないようにしていたが、ウリを正当化していた当時の愚かさだとか、己の運命を過剰に悲嘆すべきものとらえて満たされていた恥ずべき過去などをあらためて思い出してしまったからだ。


「俺の方こそ……悪かった」

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