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眼中にない  作者: アンリ
第一章
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1-7 魂をかけるもの

 その夜のシュリは勉強に集中しきれずにいた。文字も数式も目を滑るばかりで、日付が変わったところでとうとう諦めて教科書を閉じた。


 この別邸は朝から晩まで騒がしいし、ちょっとへまをすればすぐに拳骨や平手が飛んでくる狂った世界だ。シュリの体にもつねに数個の青黒い打撲痕があるのが当たり前になりつつある。だが誰もが寝静まる時間となればここにも普通の夜がやってくる。静かで、物憂げで、なのにどこかぴんと張りつめた夜が。


 思えばここに来るまでの半年の方が異常だった――そんなことをシュリは思った。ホストをし、ウリまでして、ほとんど眠る間もなく大学へ行き、授業が終わればまた……。


 昔と言うほど遠くもない過去、シュリにとっての夜とは金を稼ぐ時間だった。欲という名の泥沼につかることは屈辱だったが、それは気づけば濁水程度に感じられるようになっていた。濁水だからこそ満たされる自分がいたのも確かだ。……しかしそれももはや過去のこと。


 ふと窓の方に視線をやった。


 このカーテン越しに自分をこの世界へ誘った元凶がいると思うとわけもなく胸がざわめく。ただ、それが浮ついた感情によるものではないことはわかっている。しかし恐怖や憎悪といった感情とも違う気がする。そして彼女との距離は近いようで、遠い。だが遠いようで――近い。


『ね。勉強すれば今の地獄から抜け出せるって信じてたでしょ』


 確信に満ちた声音で問われて、つい『今も信じてる』と答えてしまった。だがシュリは先日瀬名に言われた一言を否定しきれずにいた。


『本気でやってそうで、その実本気になってない顔してるって。人生どうにかなると思ってるだろ』


 そうなのかも、しれない。


 これまでいろいろあったけれど、結局死ぬどころか重傷を負ったことも一度もない。今日も平和といえば平和な一日だった。ウリをすると決めた瞬間も、実行した夜も、ひどい屈辱と後悔で胸をかきむしられはしたが――結局はそんな日常を当たり前のものとして受けとめることができていた。


 ああ、そうだ――。


 とうとうシュリは認めた。俺はとうに学ぶことを明るい未来を掴むための手段、架け橋とは思えなくなっていたんだな、と。ただ心の平穏を保つために、世間が認める高尚な付加価値を獲得するために――そして他に無心になれるものがないから、だから書物を読みペンを握っていたんだな、と。


 実際、知識欲なんてとうに失せているではないか。意味もなく数式を解いて、解いて、解きまくって……それでいったい何を得た? 学者になるつもりなんてさらさらないのに。


 冷静に我が身を振り返り、シュリは一人きりのダイニングでこらえきれずに笑ってしまった。笑いは長くつづいたが、やがて収まり、すると今日ずっと考えていたことが口から漏れ出ていた。


「……世界で一番憎い男の妻でいるってどんな気持ちなんだろう」


 それほどまでに他人を憎いと思ったことがシュリにはなかった。ウリの相手に対しても気持ち悪いとか汚いと思うことはあっても、憎しみを覚えたことはない。母に対してはそういった次元では語れない感情しか持ち合わせていない。いや、そもそも憎いという感情を真に理解できていないのかもしれない。憎まなければいいのに、そうナギに忠言した自分が急に愚かに思えてきた。


「そんなの本人にしかわかるわけがないだろう」

「……桜田さん?」


 いつからだろう、桜田がそこにいた。


 だがシュリがさらに問いかけるよりも先に桜田は「便所だ」とそちらに行ってしまった。だが戻って来た桜田は部屋に戻ることなく、なぜかシュリの向かい側の椅子に腰をおろした。


「水をくれ」


 命じられたら即行動、それがここで暮らすための掟だ。


「どうぞ」


 桜田は目の前に置かれたグラスを手に取ると、なみなみと注がれた水道水を一気に喉に流し込んだ。そして空のグラスを音もなくテーブルに置いた。そんなありきたりな動作にシュリがいちいち緊張してしまうのは、桜田という男の発する凄味ゆえだ。実年齢は知らないがそんなものは訊く必要がない。今目の前にいる男、それがすべてだ。


 気づまりな沈黙が下りる。


「あの。訊いてもいいですか」口火を切ったのはシュリの方だった。「ナギさんは不幸……なんでしょうか」


 これに桜田が限界まで目を細めた。


「お前にはお嬢が不幸そうに見えるか」

「いいえ」


 即答するシュリに桜田は否定も肯定もしなかった。ただ、こう言った。


「幸せは本人が決めるものだ。誰にどう見られるかなんて関係ない。他人が決めたものさしで測られる道理もない。違うか?」


 ――答えられなかった。


「それとな。人間にできることなんて限りがある。ヤクザだろうが聖人だろうが、一生のうちにできることには必ず限りがある」


 ――何から何まで正論だ。


「今いる場所で、今あるその身で何ができるのか。それをよく考えることだな」

「俺に、できること……」


 この組のために自分が役立てることと……いえば。


「炊事に洗濯、掃除……それから」


 指を折って数えるシュリのその手首を桜田が突如掴んだ。そして机の上に置くや、手の甲に空のコップを間髪入れずに叩きつけるように置いた。


「ぐうっ……!」


 骨が軋むほどの激痛が手の甲から脳天まで一気に駆け上がっていく。


「そんなことは誰にだってできるし、やらなくたって死にはしない」淡々と桜田が言う。「あるはずだ、お前がその魂をかけてやるべきことが」

「すみませんっ……!」


 痛みをこらえながらシュリはあらためて考え、その痛みと恐ろしさゆえにすぐに結論づけた。他にできることといったらこの体で奉仕することだけだ、と。そうだ、それならば自信がある。


 ナギは「この世に二人きりになってもあんたには絶対に手を出さない」と強く拒絶したが、これまで関わった女は誰もがこの体を狂おしく求めるようになった。ならばこの体はナギにとっても価値があるはずだ。……しかし俺はあの女に欲情できるだろうか。その刃を模したような双眸に見つめられるといまだに心のどこかが竦んでしまうというのに。これまで二回スカートの中を見てしまったが、どちらも戦闘服の一部にしか見えなかったくらいだ。……ああ、しかしあの足のラインは綺麗だった。彩るスカートと対比する白い足が健やかに伸びていたことをつい思い出す。


 と、じっとこちらを見つめる桜田とシュリの目が合った。


 その目が宿す光はこの世のものとは思えない闇の力で彩られている。


「……今お前が考えていることを実行してみろ。組員総出でお前をぶち殺す」


 ヤクザが加減なしで放つ殺気に、シュリの体が一瞬にして凍りついた。

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