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眼中にない  作者: アンリ
第一章
6/10

1-6 憎い

「……どういう意味だ?」

「似てたから。シュリが、私に」

「俺が? ナギさんに?」

「私もね、シュリと同じだったのよ」


 極道の妻たるもの夫の力になるべきだから、と組のシマにあるお水系の店にナギは幾度か足を運んでいる。こういう世界こそ極道の妻が管理すべき場所だろう、と。……もちろん夫には内緒だし、組の人間――つまりは当時の番犬、瀬名を同伴してのことだが。


 正直、ああいった世界のことはナギにはよくわからない。理解しようと努めてはいるが、「お嬢にはこういうのは汚すぎて似合わないよ」とある日瀬名が言った一言こそが的を得ているのだろう。


 けれどあの日、薄暗い新宿の店でシュリを一目見た瞬間、ナギは強い既視感を覚えた。理解できない別世界で、なぜか自分によく似た人間がいる――と。


「なんでそんなに頑張っちゃってるんだろうって思ったのよ」


 指名を待つ小部屋で黙々と教科書を読むシュリの姿はある意味シュールだった。あまりいい生活を送っていないのだろう、それなりにいい顔は青白く、なのに真剣に線形代数学と題打った小難しい本を読んでいて――。


「ね。勉強すれば今の地獄から抜け出せるって信じてたでしょ」

「今も信じてるさ」

「でしょうね」


 ふふっとナギが笑った。


「知ってるわ。うちに住み出してからも夜遅くまで勉強していることは」


 離れの台所にいつまでも灯る電球、学習するシュリのシルエットはナギが暮らす母屋からでもよく見える。以前住んでいたアパートからシュリが取ってきたものはごくわずかで、その半分は学習に関するものだったという報告も受けている。


「信じてた、って言い方。それはナギさんにとっては過去形だから?」

「そうよ。私はもう信じていないもの」


 言い切ってから、言葉が足りないような気がして「信じられなくなったのよ」とナギが付け加える。「うちは父子家庭だったの」


「……だった?」

「もう父はいないから。最悪最低の親だったわ。だけど懐かしくもあるのよね」


 ナギの視線が遠くに立つ名も知らない樹木の健やかに伸びる様に向いた。まるでそこに遠い過去の記憶が埋もれていて、じっと見つめさえすればくっきりと思い出せるのではないかというように。


「血のつながりって、面倒よね。嫌いになって忘れられるものならそうしたいのに、飴をくれたとか、病気のときに背負って病院に連れていってくれたとか、そんなどこの家庭にもあるような思い出が父を憎めなくさせるのよ」


 どうして憎しみや恨みは思い出の中でも色褪せやすいのだろう。そして、どうしてちっぽけな喜びほど時の流れに比例して過剰に美しく見えてしまうのだろう。肉親のことだからだろうか、それとも自分が感傷に浸りやすいタイプだからだろうか。……それとも、誰にとっても思い出とはそうやって補正されるものなのだろうか。


「憎まなければいいじゃないか。その方が楽だぞ」

「シュリはそうしてきたのよね」

「あ、ああ」


 どうしてそんなことまで知っているんだとその瞳が物語っている。そんなことまでは履歴書に書いていないし、どこをどう調査しても出てこないはずだ、と。それはシュリがただ一人胸に秘めてきた感情であり、誰にも語ったことがない闇の一つだった。


「シュリはすごいわ。男に貢いで借金作ったお母さんのためにウリまでしちゃえるんだから。……でも私はそんなふうには思えなかった。だから、高校を卒業して、大学を卒業して、いい会社に入って、絶対に『普通の』幸せな未来を掴むんだって、そう心に誓ってたの。毎日毎日、バイトや勉強ばかりで一日が過ぎていったけど、今我慢していればなんとかなる、努力は裏切らない、学力は正当な力になる……そんな風に思ってたのよ」


 近所の空手の道場に通うこと、それだけがあの頃のナギにとっての娯楽であり息抜きだった。そこのおじさんは優しい人で、ナギのようなお金のない子供を集めて無料で稽古をつけるボランティア活動をしていたのだ。週に二回、一回につき二時間――その時間さえあればナギは十分幸せを感じることができていた。


 なのに――。


「なのに父は私を売ったのよ」

「……え」

「正確には売られる直前、未遂で終わったんだけどね」


 閉めきった六畳の部屋。

 暑くて湿っぽい、むんとした空気が重たいボロアパート。

 焼け付くような西日が差し込む部屋で、ナギは自分の親世代よりも年上の男に容赦なく品定めされたことを思い出す。




『なんて名前や』

『……ナギ。小暮、凪』

『なんや。人形みたいなナリをしとるくせに貧相な名前やな』


 男が薄く笑うと、夕焼けに染まる室内がいっそう燃え立ったように感じられた。男の足元には、さっきまでナギを値踏みし組み敷こうとしていたパンチパーマのヤクザ二人が泡を吹いて気絶していた。


『何歳やったか』

『十……六』


 本当は答えたくなんかなかった。自分に関わる一切をこの男に教えたくなかった。だが脳の一部が警報を鳴らすのだ。この人はただの借金取りじゃない、と。男の采配一つで私の人生も、命も、いかようにでも扱われてしまうだろう、と。


 実際、ナギの父は一時間ほど前に別のヤクザに両腕を抱えられて連れていかれた。「腎臓売って、それからマグロ船で一生働いてもらうからなあ」と。いつも調子のいいことを言っては夢に賭けつづけていた父だったが、最後に見た横顔は能面のようだった。


 男は大型の獣のような体をゆったりと動かし、畳に座り込むナギに膝をついた。


『十六か。……若いのう。だがきれいや。いい目をしとる』


 近づく顔から離れたかったけれど、体のすべてのパーツが一切動いてくれなかったことをナギは覚えている。指が、体が、心が震えそうで、でも震えることもできなかった。とはいえ、この時は捕食者が乙から甲に変わっただけのことと思っていた。


 だが。


『なあ、ナギ』


 ナギ。


 男によって発せられた自分の名前が異物のように感じられ、うまく取り込めずにいたら。


『お前、今日から鳳凪になれ。おい、桜田』


 男は自分の一歩後ろに控えていたサングラスの男に野太い声でこう命じた。


『届、用意せえ』


 わしはきれいなもんが好きやで――そう言った瞬間の男の顔は、逆光が眩しすぎてよく見えなかった。




「……それが今の私の夫ってわけ」話を締めくくり、ナギはアスパラの牛肉巻きに箸を伸ばした。「ね。どうしたらこんなふうにきれいに肉を巻けるの? 私がやるとすぐに肉がちぎれちゃうんだけど」


 さりげなく世間話に戻そうとしたナギの善意を無視し、シュリが言った。


「もしかして……ナギさんはおやっさんのことが憎いのか?」


 あまりに真剣に問われ――。


「ええ。憎いわ。世界で一番憎いわ」


 ナギは即答していた。


 誤魔化すことはできなかった。

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