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眼中にない  作者: アンリ
第一章
5/10

1-5 拾った理由

 母子家庭の一人っ子。幼い頃から自堕落な母親の代わりに家事をこなし、大学生となってからも授業料免除かつ給付型の奨学金をもらえるほど優秀で――それが新井修理という男だ。しかし裏の顔はホストであり、かつウリもしていたアウトローである。そんなシュリも今やヤクザの組員にまで成り下がってしまった。


 だがこの奇想天外な運命をシュリはいつしか受け入れていた。それどころか、アパートで一人暮らしをしていた頃に比べたら今の方がよほど健康的な暮らしができている。


 ただ、「まだヤクザのヤの字もつけられないガキだけどなー」とは、瀬名の弁。「立派な番犬に育てなくちゃなあ」と、暇を見つけてはシュリに鍛錬をつけている。それはもう、嬉々として。今朝など五時から軍隊さながらの掛け声が中庭から聞こえ、日中のシュリは魂が半分抜けたようだった。そして早朝から騒音で起こされたナギは一日中不機嫌だった。



 *

 


「私の連れてきた男が朝からうるさくてすみません」夜、帰宅した重蔵にナギはまず謝罪をした。「瀬名にもよく注意しておきましたから」


 だがうつむくナギに反して重蔵は寛容だ。「気にせんでええ」としゅるりとネクタイをはずす。


「ですが」


 はずされたネクタイを受け取りながら「この家ではくつろいでいただきたいのに」とナギが言い募ると、「やる気を削ぐようなことはしたらあかんで。それに頑張る人間は応援せんとな」と重蔵が説くようになだめた。


「さ、着替えを手伝ってくれや」

「……はい」


 夫の身支度を世話するのは妻であるナギの役目だ。この頃は仕立てたばかりの夏物のスーツ五着をローテーションで着まわしてもらっている。


 今日も重蔵の背に貼りつく虎は猛々しい。肌の上に描かれた創作物、ただそれだけのはずなのにひりつくような生気と闘気を感じ取れるほどだ。ナギはたまに夢想する。いつかこの虎に喉元を噛みつかれる日は来るのだろうか、と。



 *


 

 それから、しばらくして。


「なんだか日に日にすごいことになってない?」


 昼休み、大学構内のベンチで弁当の包みを開いた瞬間、ナギは白目をむきそうになった。


 炊き込みご飯のおにぎり、アサリの佃煮、アスパラの牛肉巻き、里芋の煮っころがし、これに保冷パックで冷やされたあんみつまでついている。昨日はローストビーフのサンドイッチにミニグラタン、コンソメスープと甘夏ゼリーといった洋風弁当だったが、今日は和風ときたか。


 ヤクザの組員として順調な滑り出しをしたシュリだが、元から備えていた家事能力も新たな生活の場でいかんなく発揮している。ただ、これについてはシュリが瀬名との会話を引きずっていることが理由だった。ナギに関することはパーフェクトにこなさねばいけない、そんな強制観念につきまとわれているのだ。


「この炊き込みご飯、炊き込みご飯の素とか使ってないんでしょ」

「当たり前だろ」


 そんなものを使ったら瀬名に何を言われるかわかったものではない。まさか自分が母親以外の人間、しかも女にこうまで尽くすことになろうとは……人生とは数奇なものだ。


「ほら」


 むっとしながら手渡すコップには冷えた麦茶がなみなみと注がれている。こちらもぬかりなしだ。


「ありがとう。……いただきます」


 食べ始める際、ナギは一瞬ためらった。だが一口食べたら躊躇する心は消えた。シュリの作る料理はなんだっておいしいのだ。悔しいけれど。


「……やっぱりシュリのこと拾ってよかったわ」


 おいしいものを食べるとつい顔がほころんでしまうのはどうしてだろう、そんなことを思いつつも咀嚼は止まらない。


「拾ったんじゃない。かどわかしたんだろう?」


 ぶすっとした顔をしてみせたものの、その実、シュリは怒っていなかった。こんなふうにあけっぴろげに味を褒められたのも、自分がいることで喜ばれたこともなかったから、どんな顔をすればいいのかわからないだけだ。そう、その点ではナギは母親とは違っていた。拉致まがいのことをした張本人相手でなければもう少し正直になれたのかもしれない。


 二人の間に何ともいえない沈黙が流れた。


「どうした? 嫌いなものがあったか?」


 ナギの箸が止まってしまっている。


「ううん。全部おいしいわ。……あー、うん。ごめんね」

「なんだよ急に」

「拾っちゃって。シュリのこと」


 どこにいても常に誰かに見られている――それがヤクザの娘、もとい妻であるナギの日常だ。なのに一般人だったシュリは今やすっかりナギの同類とみなされてしまった。


 今もそうだ。ベンチに座りランチをとる二人ははた目には和やかに映るが、通り過ぎる同年代の視線はどこか痛い。誰も近づいてはこないし声も掛けてこない。間近でゴシップを楽しむ感じに近いのだろう。だが二人は芸能人ではない。そのことを意識した瞬間、どうしようもない罪悪感をナギは覚えたのだった。


「自分の味方がね、ほしかったのよ」


 突然語りだしたナギにシュリがぼんやりとした目を一度まばたきをした。

 ナギが薄く笑った。


「それがシュリを拾った本当の理由」

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