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眼中にない  作者: アンリ
第一章
4/10

1-4 お前はそれをゆるすのか

 その日、ナギはシャバで随分気楽に過ごせた。


 朝から夕方まで大学で授業を受けていただけなのだが、たとえば登下校、たとえば休憩中――不特定多数の人間とすれ違うような場においてはシュリという盾を常にそばに置いておける安心感はプライスレスだと気づいたのである。例外は朝面倒な男二人に絡まれた一件だが、それくらいのことはナギにとっては蚊に刺されたようなものだ。


「ただいま」


 機嫌よく門をくぐったところで、別邸の方からちょうど舎弟二人を従えた桜田が出てきた。


「おお。帰ったか」


 桜田は財前組の若頭だ。つまり重蔵の右腕のような立場にある。


 桜田も瀬名と同じくカタギが着そうなスーツを身に着けている。だが、艶めいたオールバックの髪も、眼光鋭い双眸も、ガタイのいい全身から滲み出る悪鬼のごときオーラも、何もかもが本人の素性をつまびらかにしている。


「お嬢、お帰りなさい!」

「お嬢、お勤めご苦労様でした!」


 同じくカタギには見えない舎弟らが次々に頭を下げる中、桜田と目が合ったシュリが直立不動になった。その様子を見れば、シュリが昨夜桜田にどんな教育的指導をされたかはナギにも想像がついた。


 固まったシュリを感情の映らない瞳でしばらく眺めていた桜田だったが、シュリが緊張でどうにかなる直前、最高のタイミングで煙草に火をつけた。ステンレスのオイルライターがいい音を放つ。


「お嬢の面倒はちゃんとみれたか?」

「……はい!」

「何言ってるのよ。今朝のことは忘れたの?」


 呆れるナギの一言に「あー、あれは……」とシュリが言葉を濁した。


「まあいいわ。それより、桜田。私はお嬢じゃないわ。何度言ったらわかるの?」


 矛先を変えたナギを桜田はただ冷めた目で受け止めた。何も言わず、悠々とした態度で煙を吸い込む。やがて無表情で煙を吐き出しながら「ゆうべも言ったがな」とナギを無視してシュリに語りだした。


「お嬢はこれでもこの組の大切な人間なんだ。いいか、絶対に傷をつけるなよ。もしもつけたら……わかってるよな」


 ドスをきかせた脅しに、伸びていたシュリの背中がそりかえるほどぴんとなった。


「はい!」

「じゃあ裏に回って飯の支度を手伝ってこい」

「はいっ! 失礼しますっ」


 早足で去っていくシュリの背中をなんとなく目で追っていたナギに、「で、どうしてあいつのことを拾ったんだ」と煙草の灰を地面に落としながら桜田が訊ねた。舎弟二人はいつの間にか駐車場の方に向かっている。


「店に無断でウリをやっていたことへの落とし前、それと準備金として店の方であいつにツケていた金、総額二百万円をなぜお嬢が立て替えてやる必要がある」

「立て替えてなんかいないわ。給料から天引きすることになってるもの」


 今朝シュリに提示した月に五万という数字は実は天引き後のものだ。


「しかし毎月二万だと完済に百か月もかかる。百割る十二……は八年ちょいか。それまであいつが五体満足に生きているかどうかも定かじゃないな」

「うるさいわね」


 本音も事実も、桜田に対してつまびらかにする必要はないとナギは思っている。下手に打ち明ければ、それは自分自身の弱味になり得るからだ。ここには自分の味方はいない――誰一人として。夫とて例外ではない。


「あと、私のことはお嬢じゃなくて姉御か姐さんって呼びなさい」

「まったく……」


 言葉通り、面倒くさそうに桜田が紫煙を吐き出した。


「これだからガキは。……おっと」


 ナギの渾身の蹴りを、桜田が右足を軸にして身を翻して避けた。


「言葉を使わずに女の口を割る方法なんていくらでも知っているが」高身長から見下ろしてくるその目はナギを小馬鹿にするようだ。「さすがにお嬢には手出しできないしな。ま、とりあえず花柄はやめておけ」


 その視線の先は明らかに――。


「桜田……! あんた殺されたいのっ?」


 だがそれすらも桜田は受け流す。


「さあて。遊ぶのはこの辺で終わりだ」


 吸いかけの煙草を地面に落とし、エナメルの靴でぎゅっと踏みつけると「これからおやっさんを迎えに行かなくちゃいけないんでな」と肩の上で手をひらひらと振りながら桜田は去っていった。


 その背中を睨みつけながら、このまま全速力で駆けて思いきり蹴ってやりたい騒動をナギはなんとか堪えた。猪突猛進に襲ってもかないっこないのは十分すぎるほどにわかっているからだ。桜田はその腕っぷしでも最強の名を冠するにふさわしい組員なのだ。だがスカートを握るナギの両手は怒りで細かく震えていた。


「いつか必ず! ぶちのめす……!」


 よく言えば冷静沈着、悪く言えば感情の起伏が薄いこの男に、ナギは一度も触れることすらできていない。



 *



 空気中、わずかな負圧によって後ろ髪がひかれる感覚をシュリは覚えた。


 縁側で明日の朝食用のさやえんどうの筋をとっていたシュリが手を休めることなく首を七度傾ける。一秒後、そこには誰かの素足があった。そして数秒後には入浴剤特有の香りがほのかに鼻に届いた。


「へえー。やっぱりお前、武闘関係のスキルあるんだな」


 蹴りを入れてきた張本人、瀬名がのんきな声でさらに核心を突いてきた。


「どうして昨日はお嬢にやられたふりをしたんだよ」


「何言ってるんですか」筋をぴーっと引っ張りながらシュリがしらっと答えた。「ナギさんのように強い人に俺がかなうわけないでしょう」


 まあ実際には弱っちいふりはしたが。


『それ』がどんな状況下で起こるかはわからないが、自分の持っているすべてのカードをヤクザの前で切って見せる必要はないと、昨日は咄嗟に判断していた。だから弱いふりをした。だがこの一日でそういった打算は無意味な気がした。……それだけだ。


「それが兄貴分に対する態度かよ」


 瀬名がけらけらと笑った。


 下っ端のシュリの非礼を気にも留めていないのは、年齢や階級以前に強いかどうか、その観点でもって人間を評価するくせが瀬名にはあるからだ。上位の人間にはその都度きつく叱られ、逆に下位の人間には別の意味で恐怖を覚えさせる、そんなやっかいな性質である。


「お嬢とはうまくやっていけそうか?」

「どうなんでしょう」


 どうやら愛人にされることはないようで、ナギの言葉を額面通りにとれば普通の大学生として接していればいいようだが――。


「正直、よくわかりません」


 まだナギの本性も真意も掴み切れてはいない。


「あ、そ」


 勢いをつけてシュリの隣に座った瀬名は、胡坐をかいた上に肘を立て、手の上に顎を載せ、なんとはなしに愉快げな表情になった。湯上りの体に無地の白Tシャツとハーフパンツといういで立ちは昼間よりもいっそう年若く見えるし、一般人のようだ。


「なんかお前、ウリやってるだけあってぽやんとしてるよな」

「そんな風に言われたことはないですけど」


 どちらかというと、男らしいとかたくましいとか、そういう印象をもたれることの方が多かった。実際、面と向かってそう言われたことも何度かある。だが瀬名は「いいや」と首を振った。


「本気でやってそうで、その実本気になってない顔してるって。人生どうにかなると思ってんだろ」

「そんなつもりはないんですが」

「あるって」


 ウリもそうだが、ヤクザの組員にさせられたのに平然と大学に通ったり、さやいんげんの筋をとったりできるあたり、腹が座っているだけでは到達できない境地だ。しかしシュリの深層心理を追求するつもりは瀬名には毛頭ない。


 それよりも。


「けどな、お嬢のことに関しては話は別だぜ。いいか、お嬢には絶対に傷をつけるなよ」

「それ、昨日も言ってましたよね。桜田さんにも今日また言われました」

「ああ、過保護かって話だよな」


 笑い上戸なのか、からからとシュリが笑った。


「でも勘弁してくれ。うちの人間はみーんなお嬢のことが好きだからよ」

「それは見ていればわかります」

「だっよなー。でも悲しいことに、お嬢にはぜーんぜん伝わってないんだな、これが」


 そういう言う瀬名はにこにことした表情を崩さない。「俺もお嬢のそばに三年いるけど、他の奴らより嫌われてるかもしれない」とまで言う。


「……もしも、ですけど」今朝チンピラまがいの男にからまれたことを思い出し、シュリはそれとなく訊ねた。「もしもナギさんが襲われたり怪我をするようなことがあったら……どうしますか?」


 このままナギの同伴者をつづけていれば、いつかまた同じことが起こる。


 まあ、ほとんどの相手は今日のようにナギ自身が撃退するだろうが――それが無理な場合もあるはずで。しかしシュリ自身にもナギのことを確実に護りきれる自信などまったくなかった。


 ナギがかなわない相手に自分が勝てるか? いや、否だ。覚悟も根性も、修羅場をくぐった経験数も、何もかも自分とは違う。それが鳳ナギという女だ。それはこの二日間彼女の言動を目の当たりにすれば十分わかることで、その彼女がかなわない相手に自分が勝てる道理があるとは思えないでいる。


 しかも想像しうる最大の敵は本場のヤクザだ。他の組の人間が突然目の前に現れて逃げ腰にならずにいられるかといえば――正直に言おう。無理だ。この身も命も一つしかないのだ、他人よりもまずは自分だろう。


 だが瀬名の表情は変わらなかった。


「はあ? んなことは起きねえし起こさねえよ」

「だからもしもの話で」


 これに瀬名が強めに言葉をかぶせてきた。


「起きねえことを話しても仕方ねえだろうが。たとえ天と地がひっくり返ろうがそんなことは起こらねえよ。で、お前は?」

「え」

「お前はそんな未来が起こり得ると思ってるのか?」


 思っている。


「起こってもいいと思ってるのか?」


 それは――。


「お前はそれをゆるすのか? ゆるせるのか?」


 どこかで犬がけんけんと吠え、遠くで救急車のサイレンの音が膨らみ、消えた。その間、二人はお互いのことを見つめていた。ぴんと張り詰めた空気の中、シュリはなぜか「いいえ」と言っていた。


 すかさず瀬名がシュリの首に腕を回す。


「うわっ」

「よーしよし。だったらこの瀬名様が認めてやらあ。お前はお嬢の二代目番犬だってな」


 シュリの頭を強引にわしわしとなでながら、「だがな」と瀬名が釘を刺した。


「ぜってえお嬢には触れるなよ。いいな」

「当たり前じゃないですか」


 そんな不埒なことをしたら命がいくつあっても足りない――それこそ誰に教わらなくてもわかることだ。

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