1-3 弄ばない
今日は初夏を思わせる天気が一日つづくらしい。まだ八時前だというのに日差しはそれなりに強く、空はすかっとするような快晴ぶりだ。今日のナギはノースリーブのシャツにカーディガンをはおっている。だが昼前にはカーディガンは邪魔になるだろう。
「ほら、うちの若いのってみんないかにもヤクザって感じでしょ」
食後、ナギはシュリと共に駅に向かって歩いていた。
「だから先輩が一緒に外出してくれると助かるのよね」
外出の際には必ずうちの人間の誰かをつけること――結婚当初からの夫との約定をナギは今まで破ったことがない。だが非凡人的な男を連れて歩くのも、黒塗りのいかにもな車で送迎されるのもあまり居心地がよくなくて――。
通りすがりの人間に「ヤクザなんかと一緒にいる女はろくなもんじゃない」と暴言を吐かれたこともある。もちろん、そういう時に黙っているナギではないのだが、不快な接触も意味深な視線もないにこしたことはない。
「先輩はカタギって感じでいいのよね。全然とげとげしくないし、無害そうだし」
くたびれたTシャツにチノパンといういで立ちのシュリは、ラフな格好のくせになぜかあか抜けてみえる。たまにそういう希少な人種がいるのだ。さすが、ウリでそれなりの額を稼いでいただけのことはある。男を感じさせる体躯にアンニュイな雰囲気まで備えているから、金のある女がついお世話したくなるタイプだ。
ちなみにシュリの方もナギの外面の良さにあらためて感服していた。その言動がなければ至近距離にいても完璧なお嬢様にしか見えないな、と。目尻で長めに描くアイライナーと濃い赤の口紅は一見やりすぎに思えるが、あらのない色白の肌、桃色の頬に影を落とす長いまつ毛、小顔に腰まである黒髪――それらの組み合わせは絶妙にフィットしている。シャンタンのロングスカートを華麗にさばいて闊歩する様もモデル顔負けだ。そのくせスカートを翻して蹴りを繰り出すような不用心さがあるが。
「……あ、そうだ」
横目でナギを観察するのに夢中になっていて、すっかり言うのを忘れていた。
「その先輩っていうのはやめてくれないか」
「どうして? 先輩は先輩じゃない」
ナギは一年生で、シュリは二年生。年齢上も先輩後輩の関係にあることは確かだ。
「でも俺のことを敬う気なんかないだろう?」
「そうね」
「馬鹿にされている気がするんだ」
「気がする、じゃなくて馬鹿にしてるんだけど」
伝わってなかった? とナギに上目遣いに見つめられ、シュリは一瞬言葉につまった。この女の目はやはり刃のようだとも思う。女の上目遣いに媚ではなく悪寒を覚えるなんて初めての経験だ。
「……皆さんにもからかわれて困っているんだ」
ようやくそれだけ言うと、「一晩でもうみんなと仲良くなったのね」とナギが顔を綻ばせた。
これにシュリはとうとう全面降伏した。
「頼む。やめてください」
「わかった。じゃあこれからはシュリって呼ぶわ」
これにシュリがほっとした顔になった。だが「私のこともナギって呼んで」と言われるや難しい顔に戻った。
「姐さんって呼ぶべきなんじゃないか?」
昨日と今朝方の会話をシュリはしっかり覚えている。だがナギは「いいって言ってるでしょ」とどこ吹く風だ。
「敬語を使わなくていいっていうのも正直やりにくいんだけど」
再度抵抗を試みたシュリであったが、ナギはそれを一刀両断した。
「シュリの役目はね、私が普通の女子大生っぽく振舞いたい時にそばにいることなの。だから外でも家でも私のことは名前で呼んで。そういうわけで敬語はダメよ。もちろん、お嬢なんて呼んだらぶちのめすから」
実際にしかねないのがナギという女の怖いところだ。
「……わかった。じゃあナギさん。一つ訊いていいかな」
「いいわよ」
年下相手にさん付けはないだろうと思いつつうなずきかけたナギだったが、その顔が一瞬にして無表情になった。進行方向に立ちふさがる二人の男の存在に気づいたからだ。
「おおっ。君、かわいいねー」
なれなれしく声をかけてきたが当然無視だ。派手なスカジャンも、脱色しすぎて痛みまくっている髪も、ニキビ跡でクレーターができている頬も、こっちの男もそっちの男も、眼中にすら入れたくないほど醜い。
だが進路をずらして通り過ぎようとしたナギの左右は男達によって素早く固められた。
「黒髪ロングにぱっつん前髪って、どこかのお嬢様?」
「ねえねえ。たまにはパーっと遊びたくない?」
こういう時のためにそばに置いたはずのシュリだが、いつの間にかナギの三歩後ろにまで下がってしまっている。
「……まったく。ボディーガードどころか番犬にもならないのね」
ちっと、舌打ちが出る。
「ん? 何か言った? ……があっ!」
笑みを浮かべた右の男の顔に容赦ない裏拳がめり込んだ。
めり込ませたのはもちろん、ナギだ。
「シュリ。ハンカチ」
拳を振るったのに歩みを止めないナギの背後では、男達がぎゃーぎゃー叫んでいる。「なにしやがる!」「ただで済むと思ってるなよ!」などなど。朝から近所迷惑なことこのうえない。
「シュリ!」
ナギが強めに名前を呼ぶと、「あ、ああ」と遅れてシュリが追いかけてきた。
「ハンカチ貸してって言ってるでしょ」
「あ……持ってない」
「なんですって?」
ようやく足を止めたナギがまじまじとシュリのことを見つめた。
「大学生のくせにハンカチも持っていないの?」
「あー、うん。でもさ」
「でもなによ」
「昨日は急にアパートから連れ出されたから私物をほとんど持ってこれてないんだよ」
だから今日だって大学に行くのはナギの付き添い目的でしかない。
「……あー、そうね」
下手な言い訳をしたら腹に拳をめり込ませてやろうと思っていたナギだったが、確かにそれは不可抗力だ。
「今日明日にでも荷物を取りにアパートに戻っていいか?」
「いいわよ。解約も撤去も週末にする予定だから」
なぜそれを契約主であるシュリではなく他人のナギが決めるのかは謎だが、シュリは何も言わなかった。
「でもこれ、早くどうにかしたいわ」
いけすかない男の鼻血をいつまでも肌に付けたままではいたくなくて、ナギの眉がひそめられる。
「ナギさんのその鞄にはハンカチは入っていないのか?」
シュリの問いかけは無視する。他人の、しかも醜い男の血を自分のハンカチでぬぐうなど考えたくもない。
「あそこで手を洗っていくわ」
決めたら即実行、ナギが向かいの公園へと進路を変えた。風薫る光景の中、血で染まる拳を隠さず歩くナギはある種異様だ。だが当の本人は気にせず、水飲み場を見つけると流水で手を念入りに洗い出した。そんなに水を使ってもったいないと貧乏人根性で思ったが、やはりシュリは何も言わずにいた。
やがて満足したナギは蛇口を締めると正面からシュリとの距離をつめた。
「借りるわよ」
そして有無を言わさず腹のところ、シュリのTシャツで濡れた手を拭い出した。
「えっ」
不意打ちのことにシュリはなすがままだ。くたびれたTシャツの下、流水によって冷えたナギの指が素肌に何度か触れ、そのたびにシュリは説明し難いしびれを覚えた。たとえるなら、そう……恐怖と快感が得も言われぬ塩梅で混在したような感覚を。
最後に除菌できるウエットティッシュで爪の際までしつこく拭き、それでようやくナギの気持ちが落ち着いた。
「ありがとう。じゃ、行きましょうか」
と、シュリとの距離を元に戻したところでナギがシュリの異変に気がついた。
「どうしたの?」
やや目を泳がせたシュリは、ナギが声をかけても気まずそうにうつむいただけだった。
「そういえばさっきは何を訊きたかったの?」
横並びになって歩き出したところであらためてナギが訊ねると、シュリは少しためらいつつも言った。
「ナギさんは俺のことを弄ぶつもり……なんだよね」
「……は?」
ヒールの高さや足首まであるロングスカートが理由ではなく、ナギの足がつんのめりそうになった。思わず立ち止まり、しげしげとシュリを見つめる。
「なんのこと?」
「だから、その。俺で遊びたくて、それで俺のことを拉致したんだよね?」
「遊ぶって?」
「だから……。まあ俺にとってはウリの対象が不特定多数からナギさん一人になるだけのことなんだけど。……でも俺、金が必要なんだ。だから月に三十万はほしい」
シュリを見つめる瞳をナギが大きく見開くと、これにシュリも目を丸くした。
「……違うのか?」
「違うに決まってるでしょ? 私には鳳重蔵という夫がいるのよ。瀬名とか木村とかケンタとか、一緒にいた人間から何も聞いていないの?」
「ちゃんと聞いてる」
ナギが重蔵にぞっこんだという話も。
「でも愛人やペットを作るのは別の話だろう? ナギさんは極妻なんだし」
ナギが額に手を当てた。
「……あのねえ。私はそういうタイプじゃないし、たとえそうでもあんたみたいなもやしはお断りだから」
自分にとってあんたは人間どころか動物ですらない、そうナギは言っている。
「そう、なのか?」
「ええ。たとえこの世に二人きりになろうともあんたには絶対に手を出さない。この魂に誓って。わかった?」
左手を腰にあて、右の人差し指でシュリの胸をずんずんつつきながらナギがまくしたてると、ナギの剣幕に驚いていたシュリの表情が次第に緩んでいった。
「どう。安心した?」
「ああ。でも金はどうしたらいい? ほら俺、ナギさんのせいで働き先を失ってしまったから」
「その使い道の内訳を言ってみなさいよ」
思いもよらぬ切り返しにシュリが目をしばたいた。
「だから……食費に家賃、電気に上下水道とかさ」
「それ全部うちに住み込みなんだからいらないじゃない」
「他にもある。授業料の積立、教科書やノートの購入費用、スマホの使用料……」
「授業料は全額免除されているし、給付型の奨学金ももらっているんだから十分でしょ」
なんで知ってるんだよ、というシュリの無言の視線を無視してナギはつづける。
「ま、雑費には月に五万もあれば足りるんじゃない? うちはシノギのない下っ端には小遣いとして月に五万払っているわ。帰ったら瀬名に訊いておくことね」
「ちょっと待った!」
「まだ何かあるの」
きりっとアイライナーをひいた目が咎めるようで、シュリが心底言いにくそうに言った。
「……俺、あの店の店長に借金があるんだ」
これにナギが軽く顎をあげてみせた。
「それはうちの人間になったからちゃらよ」
「本当かっ?」
「ええ」
「………そっか」
もう満面の笑みだ。
これにナギが含み笑いを浮かべた。
「ま、その代償に命を張ってもらうこともあるけどね」
この世界の何もかもを理解しようなんて、百年早いのである。




