065 翔屍体
翔屍体。
空飛ぶ屍体。
この世界の女性は、死後起き上がる。
その体に残された願いの言葉、その結晶。死後生み出される最後の石を原動力に、女たちは起き上がる。
たった一つの願い、それは敵討ち。
父親の娘が、弟の姉が、兄の妹が、夫の妻が。そして、息子の母が。自分の体を空飛ぶ槍に変え、シグドゥに吶喊する。
それが翔屍体という現象。
「無駄なことや……」
そう、無駄なこと。そんなことをしてもシグドゥは倒せない。シグドゥは殺せない。
しかし、シグドゥを刺激してしまうことに変わりはないらしく、男達が命を懸けて遠ざけたシグドゥの進路を不用意に変えてしまう危険性がある。何より、男性がシグドゥと戦っている最中に翔屍体が激突したら。
そうなれば、陸が無事で済むはずがありません。
そうさせないために、この世界の女性たちは空に上がり、翔屍体を討伐する。それがこの世界に生きる、わたしたち女性の役目。
『人は死んだ後、空を飛ぶかもしれないからです』
ヌイちゃんのお話を聞き、わたしが今まで疑問に思っていた様々なことが氷解しました。そう、お母さまは翔屍体のことを言っていたのです。
まず喧嘩。
わたしが無駄だと思っていた喧嘩は空で戦う身のこなしを身に付けるためのもの。翔屍体を討伐するための訓練だったのです。
思い出すのはわたしがアルカディメイア初日に相手をしたリフィーチのお二人。何故あんなに高く跳ぶ必要があるのか全く分かりませんでしたが、あれは空を飛ぶために必要な初速、そのための跳躍だったのです。
そして石作り。
限定的で独創的。操縦性が低く、汎用性は皆無。この世界の女性の作る石がどれもピーキーな理由。
『それではダメなのですわ! それでは届かなくってよ!』
ジュッシーお姉さまが喧嘩の得物に求めた性能。あれは対翔屍体専用のものだったのです。
ホロデンシュタック領の研究棟で触れた様々な石の資料、その目的が判明した今なら分かります。あれらは全て対翔屍体戦闘において効果的な働きのできるものでした。
「ゼフィリアはんはよう分かってはる、賢明や。知らなければ成りようが無い」
それは、わたしが今日までこのことを知らなかった理由。
お母さまがわたしに石作りの存在を悟らせまいとしたのは、わたしの肉の弱さを心配してのことでした。翔屍体もそれと同じだったのです。
危険なものの存在をあえて知らせず、遠ざけたままにする。
お母様がわたしに技を伝授する時に用意したあの状況。完全に人払いされた修練場。あれは伝える情報を最小限にするためのもの。ヌイちゃんの言うとおり、ゼフィリアはその情報統制が徹底された島だったのです。
空を飛びたいと思わなければ、そもそもその技術は身に付かない。空を飛ぶ技術を身に付けなければ、死後起き上がる確率は低くなる。
共同体としてのゼフィリアが翔屍体の発生を未然に防ぐために身に付けた慣習。ヌイちゃんが言うには、事実、ゼフィリアの女性からはもう千年以上翔屍体が出てきていないそうなのです。
しかし、それでも起き上がる時は起き上がってしまう。そうなった時の備えは絶対に必要。
アルカディメイアは、そのための備えを学ぶ場所だったのです。
わたしたちにとっての脅威はわたしたち自身。空を飛ぶ方法をなるべく広めず、翔屍体に備えて空を飛ぶ方法を身に付ける。これがわたしたちの社会が抱える大きな矛盾。
しかし……、
「そや、生活の基盤が安定せんと、強い石は生まれてこんかもしれへん。せやから、メイちゃんのやっとることは間違っとらんのにゃ」
トーシンはこの世界で唯一、生活に石を必要としない島。それはつまり、石作りのリソースを全て特殊な技術開発に割けるということなのです。
「空を翔けて石を斬る。それがうちらトーシンの石斬り女や」
ヌイちゃんの持つ無刃。翔屍体を討つ為に編み上げられた、断空の刃。トーシンに生まれた全ての女性は、無刃を作り担う義務があるとのこと。ヌイちゃんは既に二度も翔屍体を討ったことのある経験者なのだそうです。
ヌイちゃんのお話を聞き終えたわたしは、両手でぎゅっと腰巻を握り締めました。
翔屍体のことを知り、頭の中で符合していく様々な事柄。ゼフィリアでの暮らし、この世界に生きるわたしたちの生活、その全てが整合性を持って、繋がったのです。
これはこの世界に人として生まれた、わたしたちの義務。望む望まないに関わらず、その能力を備えてしまった、持てる者としてのわたしの責務。
ですが……、
腰巻を掴みながら、かたかた震え始めたわたしの両手。
肉の弱いわたしに、果たしてその役目が務まるのでしょうか。
「関係無いで」
「え……?」
俯くわたしに、ヌイちゃんは覗き込むようにしてはんなり笑い、
「肉の強い弱いは関係無しや。空に上がれば分かる。うち、メイちゃんならやれる思うわ」
「ヌイちゃん……」
「どや? うちの勘が外れてへんかどうか、試してみたない?」
立ち上がり、ヌイちゃんが片手で得物を振ると、風の刃が唸るようにヴンと明滅しました。
ゼフィリア領の島屋敷。
その裏庭こと修練場。
無刃の残した緑色の軌跡を前に、わたしは震えを抑え込むように両手を重ね、
「はい、お願いします……!」
その日から、新しい日課が加わりました。
講義を開くかたわら、わたしはヌイちゃんと沢山お話しし、翔屍体に関する対策を立て始めたのです。
ヌイちゃんと一緒に考え、喧嘩をして知った、翔屍体にまつわる様々なこと。
まず、翔屍体の習性。
死後二週間で起き上がり、その後二週間は昼を回遊する。そして死後一ヶ月を経ると、翔屍体は星の自転方向、東回りで夜へ向かう。
回遊の分類は今のところ二通り。海中回遊型と空中回遊型。厄介なのは海中回遊型で、衝突体としての装甲を組み上げるまで空に上がらないため発見するのが難しいそうなのです。
お母さまの海守というお役目。海の健康管理も勿論重要ですが、海守には翔屍体を発見するという役割もあったのです。海と空を見張り、男衆の戦う海域を翔屍体の介入から守る。それが海守というお役目の本質。
そして、この世界の人が死者を水葬する理由。屍体が起き上がるまでの二週間の間にシグドゥに踏み潰されてしまえば、起き上がりようがないのです。予防策として根付いた人の弔い方なのでしょう。
次に、翔屍体との会敵。
翔屍体は目が合った人間を襲ってくる。生前の習性なのか、翔屍体としての防衛本能なのかは分かりません。しかし、翔屍体を夜に向かわせないために、足止めの方法として知っておかなければならないこと。
そして、翔屍体の討伐方法。
屍体から生み出された最後の石、翔屍体を起動させた石を破壊することで、翔屍体は停止する。その石は手ではなく、必ず胸の前に浮遊している。
死後、肉体の構造が変わり、経路が開いてしまうのかもしれません。臨床実験が出来ないので、翔屍体に関しその殆どが分からないままなのです。
翔屍体を知ることは空を飛ぶ技術を、そのための石作りを知ることにも繋がりました。
ヴァヌーツの女性は足に経路が開いた特異な体質の持ち主で、足に石を纏うことが出来るのだとか。ヴァヌーツの女性が空を飛ぶ時は、火込め石を足に纏わせ推進力にするのだそうです。
更に、使いこなす人が少ないのであまり知られていないそうなのですが、はがね石でも空を飛ぶ方法があるとのこと。もしかしたら、磁力操作なのかもしれません。
翔屍体になる女性が多いのはヴァヌーツ、ガナビア、リフィーチなど、火込め石や風込め石を作れる島の人。翔屍体を討伐するために磨いた技が、翔屍体の数を増やすことになってしまう、完全にジレンマです。
「首に的ぶら下げての仮想翔屍体ん喧嘩はおもろいわ。太刀筋見直すええ機会になるし」
夜空に瞬き始めた小さな星々。
冷気を含み始めた、日暮れの風。
黒紬から覗く真っ白な足。浜辺の砂を撫でるように踏み、ヌイちゃんが言いました。
「ばってん、ボク打撃しか使えんけん。あんやり方じゃ尻込みしてしまうと」
「せやったら陽岩で溶かしたらええやないの」
夕食を終え、わたしたち三人はゼフィリア領の海岸を南に向かって歩いています。明日からヌイちゃんは色々な領を回るそうで、テーゼちゃんはそれに付いていくことにしたのです。
テーゼちゃんは後遺症のこともあり、わたしはまだ心配だったのですが、このままではまた引きこもりになりかねないと、ナノ先生があっさり許可。わりとスパルタです。
「トーシンの無刃ばあらゆる剋に対応しとう。風ば作れんボクはいちいち式組み替えな足らんばい」
「難儀やねえ」
お話がひと段落したところでヌイちゃんが立ち止まり、だぼだぼの袂をふりふりさせて、
「ここらでええわ。メイちゃん、ほな、おやすみな」
「メイちゃん、また明日ばい」
「はい、また明日。おやすみなさい。ヌイちゃん、テーゼちゃん……」
小さく手を振り、わたしはホロデンシュタック領に向かうお二人を見送りました。
その場に佇み、仰ぐ空。
ヌイちゃんの言う通り、空でのわたしは違いました。
目と頭が追い付けば、わたしの石の作成速度と射程を以ってすれば、この世界の人の筋肉にも余裕で対応できる。加えて、風纏いによる防御と空中制動。そして、速翔けでの緊急回避。
確かに、わたしの喧嘩は対翔屍体戦法としてこの上ない正解なのかもしれません。
お母さまは翔屍体討伐者として、わたしをしっかり完成させていたのです。それを確信したから、わたしをアルカディメイアへ送り込んだのです。
心構えにおいても、もう問題ありません。アルカディメイアで過ごした日々のおかげで、今のわたしには暴力に対する恐怖、喧嘩に対する忌避感が殆ど無いのです。
翔屍体討伐訓練は相手に膝を突かせるための、屈服させるための行動ではありませんし、気兼ねなく石の力をふるえました。
この世界で生きるためのことは、人と人との間、その繋がりの中で身に付ける。わたしはヌイちゃんとの訓練を通し、生れて初めて、その当たり前を経験しました。
それでも、わたしは自信が持てずにいるのです。
わたしはヌイちゃんやテーゼちゃんと肉の質が違う。動きが違う。取る手段が違う。考え方が違う。この世界の普通には絶対になり得ない。
そのことが本当に、心の底から分かってしまったから。
今もそう。
普通なら隣の領まで筋肉でひとっ跳びなのに、お二人はわざわざわたしに合わせ、歩いてくれた。有難いと思いつつ、どうしても申し訳なく思ってしまう。
そのことが、ただ寂しいのです。
わたしは回れ右をして三人分の足跡を辿り、帰り道を歩き始めました。
遠く夜闇に浮かぶ、島屋敷の灯り。ひいお爺さまの作った、火込め石の灯り。
「はい、ひいお爺さま。わたしは頑張ります……」
わたしの独り言を乗せて去る、夜の風。
腕に絡む金色のはねっ毛を背中に流し、わたしは右手に横たわる暗い海に目を向けました。見れば沖の方、海の上に小さな人影がちょこんと立っています。
ホロデンシュタックの子でしょうか。あんなに小さくても、やっぱり男なのです。
海の上に立つ、一人の少年。
その子が掲げる、小さな拳。
月と星の舞う、アルカディメイアの深い空。
陸から海に向かい吹いていく、夜を追う風の音。
わたしはその小さな背中を見て、とても頼もしいと思いました。




