041 トーシンとの連絡
すだれを通り抜けて入ってくる、湿った空気。
遠く聞こえる、寄せては返す波の音。
明るい陽の光が射し込む部屋で、わたしは目を覚ましました。
視界には小さな手の平。朦朧とした意識の中、自分の身体の感覚を確かめるように、握り、開く。
大丈夫、わたしはわたし。
でも、何か大切なものを忘れてしまったような……。夢、そう、夢を見たような気がするのです。そして、とても怖い思いをした気がするのですが、記憶に靄がかかったように、何も思い出せないのです。
それに、何だか今日は、とても瞼が重くて……。
「姫様! お気付きになられましたか!」
駆け寄ってくる女性を見て、わたしは思い出しました。そう、ここはアルカディメイア。ここはゼフィリア領の島屋敷。
「ナノ先生、わたし……」
「姫様、ああ、おいたわしい……」
ナノ先生は枕元に座り、わたしの左手を握り、
「申し訳ありません。アーティナの温室は我々屋敷番の間でも超警戒区域に指定されるほどの獄所。まさかそのような場所に姫様が足を踏み入れるなど、露ほども思わず……」
「アー…ティナ……?」
その言葉、その情報が、わたしの本能を覚醒させました。
「そうです、ナノ先生……。わたし、しなければならないことがあるのです……」
「姫様……」
「洗浄です……。今すぐ浄化せねばなりません……」
「姫様……?」
がくがく震えるわたしの体。熱に浮かされたように言葉を吐き出す、わたしの口。
「あああアーティナの温室を! この世から焼却せねば! きちゃないものは分解! 撃滅です!」
「姫様……!」
「姫様、お体は大丈夫なのですか?」
「はい、大丈夫です。ナノ先生」
ゼフィリア領の島屋敷。
時刻はちょうどお昼時。
無事お布団から起床したわたしは、イーリアレと大広間に並んで正座しています。
「姫様、お脳は大丈夫なのですか?」
「はい、大丈夫です。ナノ先生」
対面に座るナノ先生を心配させまいと、わたしははっきり答えました。本日はまた大事なお役目があるのです。
というのも、昨日わたしが不在の間島屋敷にある連絡が届いたそうで。その用件はゼフィリア本島ではなく、わたし個人に相談がある、というもの。
そのお相手はトーシンの島主、シン・ウイさまの旦那さま、ヤ・カさまという方。
つまりこれはある種の外交。しかもこの世界の男性が動くなど滅多にないこと。体調が優れないという理由でお断りする訳にはまいりません。それに、わたしは正気に戻ったのです。もう大丈夫なのです。
そんな訳で、わたしたちはこうしてヤ・カさまからの連絡をお待ちしている最中なのでした。ちなみに、ディラさんとシシーさんは他島の領に肉のお手入れの指南に行き、泊りがけになるとのこと。
板間に正座しながら、わたしは蔵で覚えたトーシンの記録を思い返しました。
序列第四位、極東のトーシン。
ゼフィリアの北東に位置し、アルカディメイアのほぼ星の裏側の島。面積はゼフィリアに次いで狭いトーシンですが、その自然に特徴があります。
それは深い森に覆われた山々と、大きな川。高低差のある地形と水源、つまり水が豊富にあるのです。
そんな豊かな自然に恵まれたトーシンの人々、その暮らしはこの世界では特異なものとなっているようです。
まず建築が一切無く、屋根の下で生活するという習慣がありません。島民は家を持たず、山で暮らす。利益社会から最も遠い、個人主義の集団。唯一の寄り合い所が温泉という、風流な生活の島です。
特徴的な生態はその石作りにも影響を与えています。水が豊富で家屋を作る必要が無いので、生活に殆ど石を使わない。気込め石で着物や楽器を作る程度。生きるだけなら筋肉だけで充分という、この世界らしい人間の在り方。
そして、不思議なのはトーシンの序列。
今年度、アルカディメイアに来ているトーシンの学生はなんとゼロ人。というか、トーシンから学生が来ること自体非常に稀なのだとか。それなのに序列四位というのは、ちょっとよく分かりません。
わたしが頭の中で情報を整理し終え、向かいに目を向けると、ナノ先生が緊張されているように見えます。
トーシンは今真夜中、当然男衆が夜の海を見張っている時間。更にヤ・カさまはひいお爺さまに近いお歳とのことで、これは確かに失礼があってはいけません。
わたしがナノ先生と同じように緊張していると、ふっと大広間の空気が軽くなりました。
外から入ってくる風に違和感を覚え、わたしがすだれに目を向けたその時、
『時間通りや、揃てはるね』
「ふえ!?」
突然大広間に、いえ、直接耳に声が届きました。
『初めまして、ゼフィリアはん。トーシンのヤ・カいうもんです』
「ふぁ、ひゃ、ひゃい!」
「姫様、落ち着いてください」
驚くわたしに続けて聞こえる、のんびり穏やかなヤ・カさまの自己紹介。
そういえば連絡手段を聞いていなかったのですが、まさか星の裏側から声だけが届くなんて思いもしなかったのです。
トーシンは風とはがねの島、とすると音飛び石のような技なのでしょうか。しかし、その媒体が見えないので全く原理が分かりません。ていうか、ヤ・カさまのお声がすんごい高いんですが、これ本当に男性のものなのでしょうか。
よく分からないわたしはとにかくその場で頭を下げ、
「ひゃ、ひゃじめまして、ゼフィリアのアンデュロメイアと申します! こっちは側付きのイーリアレです!」
「はじめまして」
『はい、よろしゅう。もう一人はフィリニーナノちゃんやね。うちのもんがようお世話にならはったようで、おおきにな』
「初めまして、ヤ・カ様。ゼフィリアの島屋敷を預かる屋敷番、フィリニーナノと申します」
『聞いとった通りや、かったいなあ』
風に乗って聞こえる、ヤ・カさまの笑い声。
トーシンはアルカディメイアで唯一領地のない島。なので、トーシンから来た学生はアルカディメイアにいる間、色んな島の島屋敷を渡り歩いて暮らすのだとか。
ゼフィリアはトーシンの学生を数多く受け入れてきた実績があるそうで、ヤ・カさまのお礼はそのことなのでしょう。
頭を上げたわたしは何も無い虚空に向かい、
「ご連絡ありがとうございます、ヤ・カさま」
『やあ、かまへんと。おなご衆はみな寝とる時間やし、僕が言い出したことやしな』
「ヤ・カさま、ご相談というのはどのようなものでしょう?」
『切らんでええよ。ゼフィリアん嬢ちゃんにゃ言い難いやろ。みんなヤっちゃんカッちゃん言うてますわ。相談いうのはあれや、食事の話でな』
軽ーくお話を続けるヤカさまですが、わたしはどうにも落ち着きません。やはり目の前にお相手がいないと、どうにも調子が狂ってしまうのです。
『ゼフィリアんレイアちゃんが急に訪ねてきはって何事か思うたんやけど、話聞いて納得や。こら本気でやらなあかん、そういうもんやと思いました』
ヤカさまは風の向こう、はあ、とため息を吐き、
『せやのに、シンのやつがなあ、生んだ肉が弱いてそら気の毒にと笑うもんやさかい、怒鳴りつけてやりましてな』
「いえ、その、お手柔らかに……」
この世界の男性はめったに怒らないというか、超温厚なのです。その男性に、しかも旦那さまに怒鳴られたなんて。大丈夫なんでしょうか、シン・ウイさま……。
『そんでな、ゼフィリアんメイちゃんに味見を頼みたいねん。肉に合わせて食い方を変える。その道理は分かってんけど、まだ要領がよう掴めへんねや。それに島のモンは味見の役に立たんねん。何食わしても、ええよーしか言わへん。そらおなご衆が笑うんは大事や思うけど、僕らが学ばんといかん、ええよーはそれとちゃいますやろ』
星の裏側から聞こえるお話に、わたしは合点がいきました。
ヤカさまは自分たちの作ったお食事が島の主食として形になっているのか、そして肉の弱いわたしにも食べられるものであるか、その確認をしたいのです。
わたしは口元をむにゃむにゃさせ、しかしと思います。
「あのー、ヤカさま。お味見と言われましても、それはちょっと無理なような……」
『ああ、大丈夫や。僕らん風はそよ風やさかい』
ヤカさまがそう言った途端、フッと歪み始める目の前の空間。
その歪みの中、小さな粒子が集まり、何かを形作っていきます。ちょっとよく分かりませんが、声と同じで物質を転送するつもりなのでしょうか。だとしたら、これは凄い技術だと思います。
送られてくるもの、その輪郭がはっきりしてくるにつれて、わたしの脳裏にあることがよぎりました。それはアーティナの男性の風貌。そしてヘイムウッドさんが淹れていた泥、いえ、お茶。
トーシンの男性もあんな感じだとしたら、その人たちの作るお食事も酷いものなのでは。いえしかし、トーシンはゼフィリアと同じく入浴の習慣がある島。だだだ大丈夫。きっと大丈夫なのです。
わたしが内心超ブルッていると、
「きゃっ……!」
大広間を包む、ひときわ強い風。その風に驚き目をつぶり、再び開くと、床の上にわたしたち三人分のお食事が出現していました。
気込め石製であろう朱色の膳。
その上に載せられた白いお皿とお箸。
お椀は膳と同じ朱色。
何処までもシンプルな、普通のお食事の形。
献立は白身の蒸し魚と白身のお刺身。小皿に魚醤、お椀は植物の茎が二本浮かぶお吸い物。蒸し魚とお椀からはほこほこと湯気が立っています。
わたしは絵に描いたようなその試作にほっとしました。ナノ先生とイーリアレの分は勿論ドカ盛り、安心です。
なのですが、わたしはお膳の作りをしげしげと眺め、はてと首を傾げました。お膳やお皿の形がゼフィリアのものとクリソツ過ぎるのです。
それはゼフィリアのお屋敷に近い意匠のもので、頭の中の記憶にある、和風に近い形。
アーティナからひいおばあさまが嫁いできたことでゼフィリアの様式に変化が起こったのはここ百年の出来事のはず。もしかしたら、ゼフィリアとトーシンの文化はその発祥が同じなのかもしれません。
「姫様」
「あ、すみません。ナノ先生」
ナノ先生に注意され、わたしは本来のお役目を思い出しました。わたしたちはお膳に向かい頭を下げ、
「それではヤカ様、いただきますです」
「いただきます」
「いただきます、ヤカ様」
『ええ、どうぞー』
わたしとイーリアレ、ナノ先生はお箸を持ってお食事開始。意識を取り戻したのがついさっきなので、お腹がぺこぺこだったのです。
お箸で蒸し魚をひと口いただき、その完成度に驚きました。ただの蒸し魚ではなく、酒蒸しだったのです。ゼフィリアとはお酒の風味が違うのでしょう、とても淡白ですっきりとしたお味。
わたしはそのお酒が気になり、ヤカさまに、
「これは、トーシンのお酒で蒸したものなのですか?」
『そや、トーシンと言えば酒。山育てるんは僕らの生き甲斐やさかい。枯れへん程度に活用せんと、勿体ないわ』
聞けば、トーシンのお酒は頭の中の記憶で言う、焼酎に近いもののようです。その原料はサトウキビのような植物で、竹糖に近いものだとか。これはワクテカしてまいりました。
続けてお刺し身。わたしは向こう側が透けて見えるような薄いお肉を箸で掴み、お口に入れてなるほど理解。
「これは、タコですね?」
コリッとした微かな歯ごたえの後にプツンと切れる心地良さ。そして噛むたびに肉から染み出してくる、絶妙なうまあじ。そう、これは生タコのお刺身。
『今が一番活きがええ季節やし、味もそうやろと思いまして。ウチのは口ん中が楽しい言うて笑とりました』
なるほど、シン・ウイさまもご満足なのですね。獲れたて新鮮で更に旬とは、なんて贅沢なのでしょう。
さて、最後にお椀です。
ひと口飲んで、澄んだお出汁のお味にほっとひと息。使われているお魚はゼフィリアと違いますが、とてもよく出来たお吸い物です。中に浮かぶ茎はフキのような植物らしく、ほのかな風味がとてもいいアクセントになっています。
体に染み渡るような安心感。どれも食べやすく、どれもおいしいお味。試作とは思えない出来栄えのお食事です。
「ご馳走さまでした……」
空になったお膳を前に、わたしはお辞儀。
見ればイーリアレもナノ先生もとっくにご馳走さまであるようですが、さて、今日はここで終わりではいけないのです。
わたしはナノ先生に目を向け、
「ナノ先生はどう思われましたか?」
急に振られた質問に、ナノ先生は少し答え難そうなお顔をしたあと、
「失礼ですが……、姫様の考えられたものよりも、何故か食事として正しいものであると感じました。おかしな表現かもしれませんが、自分の体に純粋な血肉として馴染むような……」
「わたしもそう思うのです。ヤカさま、この形に辿り着いた理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
わたしが虚空に向かってお尋ねすると、
『料理いうんが一体どんなもんならええのか、僕ら何も知らんのや。だから生のもんから離れんよう、下手に手え加えるんはやめよ話し合いましてな』
風の向こうから聞こえるヤカさまの回答に、わたしはやはりと思います。わたしたちはもともと生魚ボリボリ星人。生食に近い形の方がこの世界の人間の肉に馴染むのは当然。トーシンの人たちは理に適った感覚をお持ちのご様子。
何より、ナノ先生です。
ナノ先生もわたしたちと暮らし始め調理済みの食事を経験済みですが、まだその習慣に馴染めていないぽいのです。
それはつまり、加工された食事に馴染めていないこの世界の人間に、トーシンのお料理がどう受け入れられるのか、その判定者として適任である、ということなのです。
わたしはナノ先生に一度頷き、
「ヤカさま、これはヤカさまが望まれるようないいものに、充分仕上がっていると思われます」
『安心しました……。せやけど、その……』
風の声が小さく途切れ、
『上手く言えんのやけど、まだ足りひんと思うんや……』
「なるほど……」
自分たちは何も知らない、ヤカさまはそう仰いました。料理はこの世界での流儀が確立していない分野で、第三者による観測と分析が無ければ方針が立てられないのは当然です
そして、感覚で得たものを明確に言語化できなければ、それは理解足りえません。今のヤカさまに必要なのは、自分達が作り上げたものがひとつの形になったという、自信に繋がる認識なのです。
わたしは虚空に向かい顔を上げ、
「ヤカさま、お食事は習慣です。そして、お料理は身の回りのもので賄うものだと、わたしは考えます。例えばこのお膳なのですが、何故この色に?」
『そらおなごが喜ぶさかい。今トーシンはその色の花が盛りやので、おんなじ色ん器で食べたら楽しい思いましてな』
ゼフィリアとは違い、トーシンには四季があると聞きます。ナチュラルに風流ですねー。
わたしは風の声に頷き、
「周囲の自然から情報を読み取り、ヤカさまはこのお食事に生かしたのです。それは既にトーシンの個性、流儀になっていると、わたしは考えます」
そう、ヤカさまたちには既にスタイルを獲得しているのです。
お母さまのふんわりとした指南からこれだけのものを作り出せた、その資質はおそらくわたしたちゼフィリア以上。
「申し訳ありませんが、ヤカさまのおっしゃる足りないものはヤカさまにしか気付けません。ですから、もし足りないと感じたならば、今一度周囲の、トーシンの自然を見渡してみてはいかがでしょう。お料理はあくまで形あるもの。色だけでなく、お膳やお皿を葉っぱなどの自然の造形に見立てることも可能です。川に雨に雪に、形の無いものに模すことで何かを表現できる。その捕らえ方、受け取り方を形にし、人に伝えられる。その時その季節の自然を体に取り込む、お料理はそのための技術」
頭の中の記憶でいうと、日本の和菓子でしょうか。素材は勿論、その形状や味、名前などに意味を持たせる、表現としてのお料理。
「全ての生き物には旬がある。ヤカさまは既にご存知のはずです」
それは自然との間に壁を作らない、トーシンの人ならではの食の在り方。
『季節を楽しみ、季節を食す……』
風の向こうから聞こえる、呟くようなヤカさまの声。
『まるで自分が見てきたことのように話しよる。陸のことを、人の生活をよく見とる証拠や、ほんま面白い子ぉやね。メイちゃんのような子がおんにゃから、スナッちも安心やろ』
スナっち? ああ、スナおじさまですね。
「あの、スナおじさまと交流が?」
『そらそや、トーシンとゼフィリアは近いさかい。夜の海でたまにな。まー、頭んカッタい男やし、僕もシウ爺ちゃんもよう心配や話してん』
わたしは首を傾げ、そうになってやめました。見た目がちょっと残念なだけで、スナおじさまはしっかりものを考えている人なのです。多分。
「あとですね、ヤカさま。わたしのような肉の人間を心配してくださるのはとても有難いのですが、まずはお料理を、お食事を楽しむのが一番かと。ゼフィリアのシオノーおばあさんがお料理に取り組み始めた時は、それはもう楽しそうでした。楽しくなければ長続きしませんし、原動力にならないと思うのです」
『そうやな、その通りや。はあ、なんや肩に力入っとったみたいで、恥ずかしな。歳取ると頭が固くなっていかんねえ』
ヤカさまの気の抜けたような声を聞きながら、わたしは隣に目を向けました。そこにはいつも通りの無表情で座るイーリアレ。
おいしいは最優先。イーリアレはこの大広間で確かにそう言ったのです。お料理は最早イーリアレの人生の一部。そしてお料理をしているイーリアレがいつも楽しそうな雰囲気を放っていることを、わたしは知っているのです。
わたしは再び虚空を仰ぎ、
「模索や試行を楽しむことが出来れば、それは継続に、人の習慣に根付くと思います。ヤカさまはお料理で試してみたいこと、出来ましたか?」
『勿論や。あれもこれも、試してみとうてウズウズしとるよ』
その弾むような声を聞き、わたしは安心しました。
陸の資源をきちんと把握し、尚且つ創意に溢れるトーシンの男性。この人たちならきっと間違えない。わたしはそう思い、あるお願いをすることにしました。
「ヤカさま、お願いが。山に詳しいトーシンの男性たちに、探して欲しいものがあるのです」
ゼフィリアに自生している植物はどれも根が浅く、根菜などの植物が殆どありません。トーシンはゼフィリアと全く違う自然の島。そして山を育てるのが生き甲斐と、ヤカさまはそうおっしゃいました。
ものが増えれば、可能性は広がるのです。
ゼフィリアの島屋敷は大広間。
すだれを通り抜けて入ってくる、暖かな陽光と楽しそうなヤカさまのお声。
『何でも言うてみ。また面白い話が聞けそうや』




