<40>別れのとき
「炎の精、お前の真実を」
カーテンを閉めた部屋に、光が満ちる。王宮の、以前会合で使用していた一室。あのときと同じ顔ぶれが、そこにいた。全員がシャンテナの手元を注視している。
光を当てられたハンカチに、複雑な模様が浮かび上がった。同心円に、文字と数式が並び、それぞれが等式で結ばれている。解錠のための魔法陣だとその内容から判別して、シャンテナは、円の中心に欠けた翡翠の首飾りを置いた。すると、翡翠は淡い光を放ち、青みがかった緑色から、赤へと変色した。
息を大きく吸い、シャンテナはフォエドロ家の工具の針とピンセットを持つ。
手当はしたものの、怪我の痛みはまだまだ引かない。身体を動かすたびに、顔をしかめるほどの痛みをもたらす。だが、シャンテナは、集中力で痛みを克服し、それらの先端をぶれることなく、慎重に翡翠に挿し込んだ。
弾かれることもなく、工具の先は石の中に吸い込まれていく。
「やった……!」
「うるさい」
クルトを叱り飛ばしたのは、ベルグ王太子だ。あわてて口をつぐんだクルトを横目で睨んで、彼女はさらに作業を進めた。
金の板を掴んで、引き出す。力を入れ過ぎれば、金の板が変形してしまうだろう。しかも、水晶とは勝手が違う。組成が違うのだから当然なのだが、手応えとして、翡翠は水晶より粘土が高くねっとりした印象だった。当然、金の板にかかる抵抗も大きくなるので、作業は慎重を期す。
呼吸を忘れるほどの集中のあと、彼女は、別珍の上に金の板をゆっくりと置いた。
後ろで見守る王太子とその配下たちが、喜びの声を上げる。だが、それで作業は終わらない。
今度は、別珍に載せた三枚の金の板を作業台に並べる。蘭と二等の踊る角馬、そしてそれを囲う蔦。見慣れた、リングリッドの国紋。
隙間がないように並べ、接続部分に針を当てる。今度は使い慣れた自分の工具だ。やはりいい。手に馴染んでいる。口の端に笑みを刻み、針先に金線を当てた。
「土の精、お前の慈悲を」
独特の金属臭を発しながら、金線の先が溶解する。そこから流れ出した金色の液で隙間を埋めるようにして板同士を溶接して行く。間違えても彫り込みの部分に付着するようなことがあってはならない。印面がつぶれてしまう。
作業は時間がかかり、見ている王太子の配下たちの数人は、緊張と興奮で疲れたのか、額の汗を拭ってそっと息をつき、部屋の隅の椅子に腰をおろしたりしていた。目頭を手でもみほぐしたり、浅いため息を繰り返す者もいた。
最後までシャンテナの隣でその様子を見守っていたのは、クルトとベルグだけだ。カークとサイクスも疲れた顔で、壁に寄りかかって作業終了を待っていた。
すべて接合し終わってから、針で接続部分を撫でると、でこぼこしていた溶接部分があらかじめなかったように、均されて馴染んでいく。
「できた」
手放された針から、魔力の光が失せる。シャンテナは大きく息を吐いて、肩の力を抜いた。
カーテンを開けると、昼の光が部屋の中に差し込んだ。
昼の明るい光に照らされて、別珍のクッションの上で、完全な一枚になった印面が、重厚な輝きを返す。
「これが……」
クッションを覗き込んだカークが息を飲んだ。
「ああ、たしかに子供のころ見た印面そのものに見えるな。あとは、試しに押印して、過去の押印と比較してみるしかない」
「では、持ち手を接合します」
「それはさすがに、他の職人でもできるだろ。よくやったな、シャンテナ」
「わ」
ベルグの感謝の抱擁はしかし、成し得なかった。
厳しい顔のクルトが、敢然と、王太子とシャンテナの間に腕を差し込んだのだった。
ベルグ王太子は、怒るでもなく、クルトを見るとにやりと笑った。降参するように両手を上にして、首を横に振る。
シャンテナは硬直していたが、サイクスの咳払いで、我に返った。
「では、こちらを」
別珍のクッションを差し出すと、王太子は、恭しく、それを両手で受け取った。
「おい、呼んでこい」
王太子が促し、カークが部屋を出て行く。
シャンテナとクルトは、顔を見合わせて、他の近衛兵が固める王太子の部屋のドアを振り返る。
そこから意外な人物が、現れた。
フラスメンだ。供の者をふたり従えて入室してくる。
周りの目をはばかるように、暗い色の地味な服装をした老人は、頭部に包帯を巻き、なんともいえない渋い顔をしている。
シャンテナには、これが自分をここまで滅多打ちにしたあの老人だとは思えなかった。随分疲れている。
たしかに、その疲労は分からなくもない。私邸が焼け、怪我をして、しかも政敵の懐に呼ばれたのだ。もちろん、この場で刃傷沙汰にはなるまいが、それでも彼だって緊張するだろう。
フラスメンは、椅子に座ったシャンテナとその隣に立つクルトを見つけると、わずかに目を細めた。
シャンテナは殺気を込めて老人を睨みつける。
「お前たちは外へ。シャンテナとクルトはここに」
王太子に促されて、カークたちは部屋を出た。フラスメンの供も、フラスメンが顎をしゃくってみせると、一礼して、部屋を出る。
「さて、フラスメンよ。わざわざ足労だったな。大変なときに。不審火で全焼とは、エウス神もあてにならんな。敬虔な信徒を見捨てるとは」
不敵に笑って王太子は老人を椅子へと誘った。シャンテナ、王太子、フラスメンと、三角形を描いて座る。クルトはシャンテナの隣に立っていた。
いきなりの毒にも慌てず、フラスメンは切り返してきた。
「いえいえ、本来はさらに被害甚大となるところを、エウス神の奇跡で、大火があっという間に消え去りました。あれこそ、ご加護でしょう」
老人は冷たい視線をシャンテナに送った。次いで、彼女のそばの机の上に並べられた、フォエドロの工具を見る。何を思ったのか、その表情からは、読み取れなかった。
「なるほど、それは結構だ。ところで、摂政のお前には、先に伝えておこうと思ってな」
ベルグ王太子は、シャンテナから受け取った別珍のクッションを引き寄せた。
「実はこの度、縁あって、我が手中に、失せていた国璽が戻ってきた」
「それは、なんとも、慶ばしいことです。もちろん、本物であればですが」
「本物さ」
重々しく言った老人に、王太子は軽妙に笑った。お前ならわかるだろう。言外にそう示すように。
「長らくお前には負担をかけてしまい、申し訳なく思っていた所だ。だが、こうして我が手中に、失われた国璽が戻ってきた」
王太子の強い語調に、フラスメンは口を閉じた。
王太子が立ち上がった。ばさりと上着がはためいて、さらに彼が長身であるように見えた。その顔に張り付いた獰猛な捕食者の笑みは、見ているだけのシャンテナまで緊張させる。
「フラスメン、これは、俺が国政を担うに男だと、エウス神がようやく認めてくれたのではないか? この先もお前におんぶに抱っこではいけないという、叱咤激励ではないか?」
「……おそらくは」
「不安げな顔をしているな。そうだろうな、お前からすれば、俺のような若造、この国を治めるには不足かもしれない。だから、俺はその信任を、別な人間たちに確認しようと思う。既にお前のところにも招集が来ているだろう? 午後から、緊急議会をひらくという」
「ええ、だからこそ、焼けた私邸の後始末を家宰に任せて、こうして登城しておるのです」
「そこで、俺は事の次第を話し、議員に俺の信任を問おうと思っている。お前には――」
言葉を区切って、王太子はフラスメンの前に膝をついた。肘掛けに置かれた、しわの寄った手に、自分の手を重ねる。
「お前には、先に相談しておかねばならんと思ったのだ。なにせ、お前は俺の摂政だからな」
力強く、フラスメンの手を握り、王太子は、どうだ? と問いかけた。
「……お心のままに」
「そうか! そうか、そうか。お前にそう言ってもらえると、俺もほっとする」
シャンテナと、クルトは息を飲んでふたりの様子を見ていた。
深くまで切り込まれた老人は、それでも表情をかえず、ぎらぎらしている王太子の目を、傲然と見上げている。
「忙しい所、すまなかったな。午後の議会、ぜひこの俺の背を、お前が押してくれよ」
ぱんぱんと王太子が手を叩く。
カークたちが全開にした観音開きのドアの向こうに、フラスメンの背中は消えていった。ついぞ、声を荒げることもなく。
「さあて、あの爺さんは、もうちょっと粘るかな? それとも、逃げるか?」
鼠狩りを楽しむ猫のように目を細めて、王太子が上唇をちらりと舐めた。
「少しは、気分が晴れたか? シャンテナ」
「え?」
「おそらく、この先、フラスメンは落ちる」
彼は、断言した。
「……本当にそうでしょうか、あの男が?」
どんな手を使ってでも、王太子の即位を辞めさせようとしてくるんじゃないだろうか。
そう不安げに言うと、王太子は肩を竦めた。
「そうだな。なにか抵抗はするかもしれん。だが、絶対に、最後は俺が勝つ。なぜなら、あいつはもう、歳だ。今乗り切っても、五年後、十年後、同じように執務ができるか? 今と同じ求心力を保てるか? いいや、絶対にそれはない。普通の頭がある奴は、わかるさ。今から俺に付いたほうが、賢いとな。国璽に認められた、正統な者に」
もし本当にそうなったら、いずれ自分も堂々と水晶庭を作れる日が来るのだろうか。そうあってくれと思うと、自然とシャンテナの頬は緩んだ。
王太子はにやりとした。
「お前たちも、若いんだ。この先、いくらでもいいことがあるぞ」
意味ありげな視線を送られ、シャンテナはようやく肩に乗せられたクルトの手に気付いた。
クルトを見やると、彼は耳を赤くして、視線を泳がす。シャンテナは、ためらった後、彼の手に自分の手を重ねた。顔が熱い。クルトが驚いた顔をした後、照れくさそうに笑った。
王太子が、満面の笑みを作って、ふたりの肩を叩いた。
二日後、フラスメンは突然の辞任と、地方にある自分の領地で隠居することを発表した。私邸の火事に重なって、国璽を得た王太子が議会の信任を得たため、引退を決意したという。二週間後には、官位を返上し、自領へと去って行った。
辣腕の摂政の引退の、あまりのあっけなさに、国民の誰もが、驚かされた。
一方、こんな噂もあった。
彼の焼けた私邸から、焼死体がいくつか発見された。そのうち一体は、両腕が欠損していた。
――何か、事件があり、摂政は退任を決意したのではないか。
だが、その真相を知る者は、いない。
× × × × ×
「シャンテナさん!」
息を切らせて『碧玉兎亭』最上階の部屋に入ってきたのは、クルトだ。
荷造りを終え、シャンテナはいつものように髪を銀の針でまとめようとしていたところ。
クルトの灰色の目は、かすかにシャンテナを責めている。しかし、シャンテナはそれには気付かないふりをして、身支度を整えだした。
「帰ってしまうんですか? どうして?」
「身体もすっかりよくなったし、これ以上鑿を握らないでいたら、腕が鈍るわ」
王太子が国璽を手に入れた日から、今日で三月半。医者から、フラスメンにやられた怪我は完治というお墨付きももらった。
療養中、手指は無事だったので手慰みに小さなインタリオをひとつ作っただけで、他にろくな手仕事をしていない。
「それなら、この街で店を開けばいいじゃないですか。もう、フラスメンもいない。メルソに隠れ住む必要はないのに」
置いていかれる犬のような顔をしているクルト。彼を見て、シャンテナは優しく微笑む。
「そうは言っても、法律が改正されるまでには時間はかかるし、社会がそれに適応するまでにはもっと時間がかかるでしょう。それまでにやっておきたいこともあるのよ」
「やっておきたいこと?」
「そう。昨日、テオに会ったの」
フォエドロ家の工具を、テオのもとに返却しに行ったのは、先週のこと。詳しい事情は話せなかったが、祖父の手放した工具だと知ると、彼は泣いて喜んでいた。
その礼にと、彼は昨日、わざわざ城の近くまで出向いてきたのだ。そのとき、クルトは王太子の警護の任についていて不在だった。
「彼、彫金の勉強をしたいそう。祖父の工房を継ぎたいと。……もうひとつの技術も復興したいらしいわ」
シャンテナはそのときのことを思い出す。
彼女が作ったインタリオを、よほど気に入ったのか、少年はいろいろな角度から見て、触って。そして、希望に満ちた顔をして、こう提案してきたのだ。
「ヴィザンテ宝飾工房を、エヴァンス・フォエドロ宝飾工房にしないかって」
「それって」
「もちろん、乗ったわ」
クルトの顔が明るくなった。
「ロリメイで技術を磨く機会なんて、なかなかないもの。テオに彫金の手ほどきをするかわりに、工房を折半させてもらうことになった。だから、一度、家に帰るの。荷物の整理も必要だしって、く、苦しい! クルト、苦しい」
思い切り抱きしめられ、シャンテナは悲鳴を上げた。
クルトが鼻面を首筋に埋めて、歓声をあげる。じゃれつく犬のように。
諦めのため息には、笑声が混じる。クルトの胸に手をついて、シャンテナは身を放した。そして、彼の大きな手を握る。
自分を守ってくれた、手を。
ふたりはいつかのように優しい口付けをした。
別れの挨拶と、再会の誓い。これはその代わりだ。
「行ってくるわ。帰りは街の入り口で待っていて。最初に、新しい店に案内するから」
「仲間を連れて、お祝いに行きます。絶対です」
「今度こそ、ロリメイ観光頼んだわよ」
「すみません、約束したのに。思ったよりバタついてしまって」
「ああ、でもすぐに私のほうが詳しくなるかもね。そのときはあなたを案内してあげる」
「……楽しみにしてますよ」
シャンテナは荷物を肩から掛けた。反対の手は、クルトとつないだままだ。
「シャンテナ、馬車が到着したわよ」
わざわざ自ら報せにきてくれたアリーサが、ふたりの様子を見て、笑みを作る。クルトは照れくさそうに頬を掻いたが、シャンテナの手を離そうとはしなかった。
「――そろそろ行かないと。殿下によろしく。挨拶は済ませてあるけれど、最後には会えなくて、申し訳ないわ」
「いや、殿下はきっと今日、上機嫌ですよ。なんていったって記念すべき日ですから」
「そうね。なんていったって、記念するべき日だもの」
ふたりは顔を見合わせて笑う。そして、部屋を出た。開いた窓から風が吹き込んで、無人の部屋のカーテンを揺らす。
この日、王太子ベルグは、戴冠の儀を執り行い、リングリッドの王位についた。三十余年にわたった、フラスメンの統治が、終焉を迎えたのだ。
(了)




