小さな希望
由梨ちゃんが拓海さんのもとから旅立って数日が経ち、俺と明日香は今日から夏休みを迎えていた。そして俺は今日も明日香を起こしに部屋の前へと来ている。
「明日香、もうお昼だぞ。そろそろ起きて来ないか?」
「……うん。分かった」
目の前にあるドアをコンコンとノックして中に居る明日香に問い掛けると、少し間を置いたあとに弱々しい返事が聞こえ、その返事を聞いた俺は部屋の前から離れて一階のリビングへと戻り始めた。
「はあっ……」
由梨ちゃんが旅立ったあの日以来、明日香はずっと塞ぎ込んだままだ。それでも一応夏休みを迎えるまで学校には行っていたけど、自宅に帰って来ると夕食とお風呂の時以外は部屋に閉じ篭る様になっていた。
そのせいもあってか、俺は明日香とまともに会話をする機会がめっきり減ってしまった。俺としてはそんな明日香を元気づけたいと思うんだけど、いざ明日香を前にすると、途端に何も言葉が出なくなってしまう。
言い訳がましく聞こえるかもしれないけど、それは仕方ない事だと思う。だって、親友が居なくなってしまった妹を前にどんな言葉を掛けてあげればいいかなんて、俺には分からないんだから。
それから十分くらいでリビングへと下りて来た明日香と一緒に少し遅めの昼食を摂ったが、やはり今回もいつもの様に沈黙したままの食事タイムとなってしまった。
そして昼食後。
片付けを済ませた俺は家にあるお弁当箱に作った料理を詰め込み、用意したお弁当をコンビニ袋に入れて玄関の廊下に置いてから明日香の部屋へと向かった。
「明日香。お兄ちゃんちょっと出掛けて来るから」
「うん……」
その言葉に相変らずの弱々しい返事をする明日香。俺はこの弱々しい返事を聞く度に、思わず溜息が出そうになる。
俺は沈んだ気分で廊下をトボトボと歩いて階段を下り、用意していたお弁当を持って家を出た。
「暑いな」
七月も後半になると外は本格的に夏の様相を見せ始め、それに伴って蝉達の忙しない鳴き声が幾重にも重なって聞こえてくる。
「拓海さん、どうしてるかな……」
道路から陽炎の様な揺らめきが立ち上り、身体に感じる直接的な暑さと共に視覚的にも夏の暑さを伝えてくる。毎年の事ではあるけど、本当に日本の夏は辛い。
休みなく襲いかかる夏の暑さに音を上げそうになりながらも、俺は拓海さんの家へと向かって歩いた。
由梨ちゃんが旅立ったあの日以来、俺は拓海さんと会っていない。何度か電話しようかとも思ったけど、俺はそれを躊躇した。電話をかけたところで、拓海さんと何を話せばいいのか分からなかったからだ。
だから拓海さんから連絡があるまでは、何もしない方がいいのかもしれない。
けど、あの時の拓海さんの様子を見た俺としては、やはり心配にもなる。なので差し出がましくもお弁当を差し入れるという理由を用意し、様子を見に向かっているわけだ。
本当ならサクラに今回の件について色々と聞きたいところだけど、あの出来事がある少し前からまったくその姿を見ていない。
そしてサクラが俺達の前に姿を見せない理由は二つほど考えられる。
一つは今回の件について俺達に詮索されるのを避ける為。そしてもう一つは、由梨ちゃんのその後について何かを行っているから。もしくはその両方って事もあり得る。
そんな事を考えている内に拓海さんの自宅前へと着いた俺は、戸惑いながらも玄関のチャイムを鳴らした。
「はーい」
チャイムを鳴らしてから数秒後。中から拓海さんの声が聞こえ、その足音が玄関へと近付いて来るのが分かった。
「おっ、涼太君じゃないか。どうしたんだい?」
ゆっくりドアが開くと、そこからにこやかで明るい笑顔の拓海さんが姿を見せた。
「こ、こんにちは、拓海さん。あのこれ、作り過ぎたお弁当ですけど、良かったらどうぞ」
そんな拓海さんの様子に動揺しながらも、俺は持って来ていたお弁当を差し出した。
「ありがとう、涼太君。わざわざごめんね。さあ、せっかく来たんだから上がって行ってよ」
そう言って俺の来訪を歓迎してくれる拓海さんだが、由梨ちゃんが居た時と同じ様に明るいその雰囲気に、俺はとてつもない違和感を覚えていた。
「それじゃあ、ちょっとお邪魔しますね」
俺はそんな拓海さんのお言葉に甘え、靴を脱いで家の中へと入ってからリビングへと向かった。
「ちょうど課題のレポートが一段落したところだったんだよ」
「あっ、そうだったんですね。邪魔しなくて良かったです」
拓海さんはコーヒーが入ったカップを俺の前にあるテーブルの上に置き、自身は俺が持って来たお弁当をテーブルに置いてから椅子に腰かけた。
「いやいや。僕も助かったよ。ちょうどお昼ご飯をどうしようかって考えてたところだったからね。さっそくこのお弁当をいただく事にするよ」
拓海さんはそう言うと嬉しそうにお弁当の包みを開いてから蓋を開け、中にあった割り箸を割ってから美味しそうに料理を食べ始めた。
「……あの、最近どうでしたか?」
美味しそうにお弁当を食べる拓海さんを前に、俺はそんな曖昧な質問をした。
「最近かい? ん~、普通に大学に行って勉強をして、夜はバイトをしてるって感じかな。まあ、いつもとあんまり変わらないね」
由梨ちゃんとの辛い別れがあった事など微塵も感じさせないその言葉と態度が、俺の中にある違和感を更に強くする。
「あの、拓海さん。数日前の事を覚えてますか?」
「数日前?」
「はい。僕がこちらにお邪魔した時の事です」
「涼太君が来た時の事? …………ああー、あの時はごめんね。ちょうど部屋の整理をしていたもんだからさ。僕はどうも部屋の整理整頓が上手じゃなくてね、時間がかかると思ったからあの時は帰ってもらったんだよ」
「えっ?」
その言葉を聞いた瞬間、俺は自分の身体が一瞬でピシっと硬直したのが分かった。
「……拓海さん。由梨ちゃんの事は覚えていますか?」
少し戸惑う気持ちはあったが、俺は直球でそう尋ねてみた。
「ゆりちゃん?」
由梨ちゃんの名前を出した瞬間、お弁当を食べていた拓海さんの動きがピタリと止まり、何かを思い出しているかの様な素振りを見せ始めた。
「…………ごめん、涼太君。僕にはその『ゆりちゃん』って子が誰なのか分からない……」
「そうですか……」
しばらく熟考したあと、拓海さんは申し訳なさそうにしながらそう答えた。そしてその答えを聞いた俺は、拓海さんも他の人と同様に由梨ちゃんの事を覚えていないんだと確信した。
「あの、拓海さん。本当に由梨ちゃんという名前に覚えはないですか?」
「…………ごめん。やっぱり涼太君の言ってる名前の子に心当たりはないよ。でもさ、昨日見た夢にそんな名前の女の子が出て来たのは覚えてるんだ。夢の中の僕はその子と手を繋いでいて、その子はとってもにこやかな笑顔を浮かべていたんだ。そして僕はその子に『兄さん』て呼ばれてた。変な夢だよね、僕には妹なんて居ないのにさ……」
そう言って小さく微笑む拓海さんの瞳から、一筋の涙が流れた。
「あっ……ごめんね、涼太君」
拓海さんは苦笑いを浮かべながら、零れ出る涙を手で拭った。
「いえ、こちらこそすいません。変な事を聞いてしまって……」
それから気を取り直して何気ない世間話を三十分くらいしたあと、俺は自宅へ帰る為に玄関へと向かい始めた。
「突然お邪魔してすいませんでした」
「いやいや。楽しかったよ。いい息抜きになったしね」
「それなら良かったです。それじゃあ、お邪魔しました」
「……涼太君」
踵を返して玄関を出ようとしたその時、拓海さんが俺の名前を呼び、俺は後ろを振り返った。
「はい?」
「僕が夢の中で出会った『ゆり』って女の子の名前、とってもいい響きだと思うんだ。だからさ、僕が将来結婚して、もしも娘が生まれたら、そのゆりって名前をつけてあげようと思うんだけど、どうかな?」
そう言うと拓海さんは本当に爽やかな笑顔を見せた。
そんな拓海さんの笑顔を見た俺は、拓海さんは由梨ちゃんの事を完全に忘れているわけじゃないんだと思った。だってそうじゃなければ、由梨ちゃんの名前を聞いて考え込みもしないだろうし、涙を流す事もないだろうから。
「はい。とってもいいと思います。是非そうしてあげて下さい。きっとその子も喜ぶと思いますから」
「うん。ありがとう」
その事が単純に嬉しかった俺は、拓海さんと同じ様に笑顔でそう答えた。
そして俺は少しだけ心が軽くなったのを感じながら、拓海さんの家をあとにした。




