十一狩目 エネミー・オブ・ケレンディア
膝が、かくかく笑っている。
膝だけじゃなく、全身の関節がどうしようもなく震えて、止まらない。
がちがち鳴っているのは、打ち合わさる歯の音か。
指先が冷たい。
乾いた喉が、ひきつれて痛い。
脊髄から熔けた鉛と液体窒素を同時に流し込まれたみたいに、体温が乱高下して心臓が跳ね狂う。
開いた毛穴から汗が噴き出す。
脳と内臓を、見えない手がぐちゃぐちゃと捏ね繰り回し、腐った汚泥にして押し縮める。
息ができない。
眼球が乾く。
「……ほう、まだ意識があるのか」
ずしりと重たく、ベルベットより柔らかな低い声の甘さは、甘汞――塩化水銀の毒性の甘さだ。
飲み込んでしまったら最後、自分の全てを失う。これは、こいつはそんな毒だ。
口の中に、生臭い鉄錆の味がじんわりと広がる。
頬の内側か、強張ってる舌のどちらかを噛んでしまったらしいが、その感覚はまったくない。
何だ。
こいつは、これは、一体何なんだ。
こっちを同じ生き物だと思っていない目には、冷たさすらない。
サバンナを行く象が、足もとの草に一々気を払わないように、これにとって私は、象にとっての草と変わらない、ただそこにあるモノと同じだ。
ただ、その草が、本来その場所に生えていない種類で、ああ違う草が生えているな、程度の認識なんだろう。
それにこれは、象が草を踏み潰すよりも簡単に、私を殺せる。
……いや、違うな。これはそんなこと意識する必要すらない。
力加減を知らない子供がコツノアリを摘まもうとして、ぶちっと押し潰してしまうようなもので、存在が脆弱すぎるから、持っただけで勝手に潰れて死んでいく、そういう話だ。
ああクソ、だから嫌だったんだ。厄ネタ地雷原になんて足を踏み入れるべきじゃなかったんだ。
大体、例のオクスリの出所を探ることは、私の役目じゃないじゃないか。
それなのに。
舞台引けたし、外の空気が吸いたくなったんで衣装の上から上着引っかけて外に出ただけだったのに――何でこんな化け物が涌いて出るんだよ! 本気で訳わかんねーよ! ねーよ! マジねーよ! 美形だからって何でも許される訳じゃねーんだよ! ただしイケメンに限るがすべての染色体XXに有効だと思ってんじゃねーぞ! 最初の村で玄関開けたら五分で裏ボスとかバグもいいとこじゃねーかよ!
曇りガラス調白コンタクトで視界は濁ってるけど、そのせいで余計感じる圧倒的存在感は、人喰い覚えた穴持たずの半矢の羆の前に、吹雪ん中真っ裸で立った方が生き延びるワンチャンあるだけ遥かにマシ、ってレベルで強烈に重い。
ここ数日のうちに、次の「入荷」があるらしいって、おっさんと兄ちゃんが言ってたけど……これがその仕入れ先だとしたら、こんな化け物相手に取引してる連中は、無謀とか勇者とか、そんなレベルじゃ済まないホンマモンのキ■■■だ。真剣に切に純粋に正気じゃない。
気が付かないで取引してるなら、神を真似て聡いつもり、賢しいつもりの猿にすら劣る大間抜けのスットコドッコイだけどね。
これは、天使に見とれて獲物の魂を奪りっぱぐれたゲーテの悪魔なんかじゃない、目玉一つと歯のかけらの他は何一つ余さず、獲物を地獄の底に引きずり込んだ正真正銘、真の悪魔だ。
そうだとすれば、これがおっそろしく美形なのも納得ですわー。ベルニーニのダビデもアポロンも存在価値崩壊で泣き叫んで裸足で逃げ出す雄の頂点みたいな美形。天使とかどう見ても怪物です、みたいのばっかだけど、人間誘惑して堕落させるお仕事簡単にするなら美形って第一条件だもんねー。
そんなモノを前に、マナーモードで絶賛呼び出され中ながら、目だけは逸らさない。
多分だけど、目ぇ逸らした時点で「つまらん」とかスーパー理不尽ターイム私が死ぬ、になる気がする。
少なくとも、目を逸らさないでいる、ってことが現在進行形で生きてる理由なんじゃないだろうか。
……なーんてカッコつけてるけど、ぶっちゃけ逸らさないっつーか逸らせないだけなんですけどねーあはははは!
視線は逸らせなくても、視界にあるものが見えない訳じゃないから、本当はもっと前から見えてたんだろうけど、認識してなかった別の何か――あからさまに面白くない、気に食わない、って顔で、ガンくれてる野郎がいるのに気が付きました。
今更気付くとか、削れてますわーガリゴリ高らかに音立てて削れてますわーSAN値が。
男の嫉妬は見苦しいぞー。女の嫉妬も相当アレだけど、男の嫉妬は隠るから怖い。
で、嫉妬ムンムンのそっちは、これに比べればまだ大分マイルドな化け物だ。回復アイテムアリアリ強化オールMAXで挑むシリーズ最弱の某咲いてるラスボスくらいにはワンチャンある。
ワンチャンある方の手には、夜目にも鮮やかな緋色の更紗で包んだ、一抱えほどの箱があった。
中に「ほう」と笑う少女がみっしり詰まってそうだけど、箱から漂う、ほんの微かな、だけどここしばらくのうちに随分と嗅ぎ慣れてしまった匂いは、そんな可愛げのあるもんじゃないことを示している。
うわあどんぴしゃどっぴんしゃんじゃないですかーウソダドンドコドーン。
どうした私の豪運! ここは頑張るとこだろぉおおオイ! 出張帰りに他所の上司に強制連行された地下カジノでファイト一発ブラックジャック出したあの頑張りどこやったよ! なんでここ一番で厄ネタ引き当てるんだよドチクショー!
と、光速で空回る思考とは裏腹に、時間はそんな経ってない。
実際のところ、店の裏の暗がりから現れた化け物と目が合ってから、こめかみにじわりと結んだ冷や汗が、顎の先に向かって流れ落ちるくらいの時間しか経ってない。
相対性理論は、異世界の壁を超越してなお正しいことが証明されましたよアインシュタイン博士!
口の中の鉄臭さをどうにか飲み込んで、ゆっくりと息を吐く。
細く、長く、深く、呼吸と脈拍を整えるように慎重に。
身欠き鰊か鰹節かってくらい強張った舌を、スローロリスがチーターに思えるくらいにゆっくりと動かす。
万が一の時は、脳と心臓、あと延髄脊椎だけは守れるようにと、内部魔力でじわじわと各部とその周辺の強度を上げていく。
焼け石に水? うん、知ってる。
そんな、死なないための姑息な努力に気付いた化け物が、ニイッと笑った。
愚かで卑小な人間の行いを憐れむ、どこまでも無慈悲な超越者の笑いはかくあらん、みたいな笑いだ。
腹が立たないったら嘘になるけど、腹立ててもしょーがないってのも理解してる。
ボツリヌスさんだって、亜硝酸ナトリウムとか加熱処理(百度六時間/百二十度四分)の前には膝を着くんですよ?
「この俺を前に、無駄と理解しながら足掻くか。面白い――貴様等劣等にしては、実に面白い」
うわーモロゴーマーン。劣等ですってよ奥様。どんだけー。
どこの円卓から来やがったんですかねぇ。確かにこれは、そーいうレベルの化け物だけど、勇者系魔王様よりは……あ、どっちもイヤだわ、うん。
身欠き鰊か鰹節かって舌が、気持ちビーフジャーキーくらいには柔らかくなったので、まだ歯の根は合わないけど、無理無理動かす。
大丈夫イケる。頑張れ横隔膜、頑張れ肺胞、頑張れ声帯!
「……生き物の、義務ですから」
めっちゃ噛み噛みで、訳わかんない音の細切れみたいになったけど、頑張った偉い私の横隔膜、肺胞、声帯超偉い! 感動した!
……あ、箱持ちがハンケチギリィしそうな顔してる。ウザっ。
「義務。義務か。そうかそうか。義務か」
え。
何、近――
「なら、その義務とやら。貴様に果たせるか否か、試してやろうではないか――この俺が」
……え。
え?
あれ。
何で。
何が。
わか ら な
い
ど
う、
し
し
ん、だ?
† †
それは、男が永の無聊の慰めにと始めた暇潰しだが、早くも飽きが来ていた。
それなりの評価を得て、世間的には一廉の人物といわれていたものが、目の前にぶら下げられた餌に、それが何を齎すかも考えず、ただ目先の欲に目を眩ませ、肥えた腹を揺さぶり、のべつまくなしだらだらと餌を喰いつづけるだけの豚に変わるまではそれなりに愉快ではあったが、そうなってしまえば、後は退屈で単調な繰り返しでしかない。
それを見付けたのは、そろそろこの暇潰しも切り上げるかと思った矢先のことであった。
店の裏手に、不機嫌そうな顔をして立っていたそれは、男の存在に気付くと同時に、男が「恐ろしいもの」であると正しく理解した。
理解し、恐れ、生き延びるため――死なないための努力は、いっそ健気ですらあった。
そこそこ目がいい人間ならば、それを中性的な少年と見ただろうが、男の眼には、女の骨格に、何らかの方法で後天的に男の骨格としての要素が付加され、比率が逆転した結果、そういうふうに見えるものとして映った。
その、妙な捻じ曲がり方をした在り様の歪みも、なかなかに面白い。
だから、試した。
壊れるかもしれない。
壊れないかもしれない。
壊れたなら、それまででしかなかったと、数時間後には忘れているだろう。
壊れなければ、二、三日はそれの存在を覚えているだろうし、もしかしたら、もう少し長く記憶に残り、男を面白がらせるかもしれない。
くたりと頽れたそれの脇を通り過ぎながら、男は、この面白さをなるべく長引かせるために、すっかり飽きてしまった暇潰しを終わらせるべく、「餌」を運ぶ下僕に扉を開けさせ、遊技場に足を踏み入れた。
岸に打ち上げられ、生き腐れた魚が転がる中を、支配人室へと男は向かう。
途中、劣等どもが寄越すべっとり粘り付くような眼差しに、警戒で武装した鋭い視線が交じる。
先程のあれの、師か仲間か、そんなものの類いだろう。
あれが壊れたら、どうするだろう。
嘆くだろうか。それとも怒るだろうか。
どちらにせよ、なかなかに愉快な愁嘆場が楽しめるのではないだろうか。
いつにない上機嫌で遊技場の奥、支配人室に入った男だが、跪かんばかりの勢いで現れた支配人の姿を前に、機嫌は一気に下降した。
卑屈を顔中に塗りたくり、阿諛追従を撒き散らす様の醜さに、男の眉間に皺が寄る。
贅を尽くした長椅子に腰を下ろし、長い脚を組んだ姿は、傲岸不遜そのものだが、同時に、非現実的なまでに美しい。
一見質素だが、一着でひと財産になりそうな黒の上着とトラウザース、白い上衣の下、抜きん出た長身に相応しい厚みを持った雄々しい体躯は、北大陸に生息する獅子の威厳を備え、圧倒的な存在感を放っている。
べちゃべちゃと耳障りな音を立てる支配人の存在に、いい加減うんざりした男が、箱を持つ従僕に視線で命を下すと、従僕の目が歓喜に輝いた。
主の下す命令に従い、遂行する喜びに目を輝かせる従僕は、箱を手にしたまま、支配人の鳩尾を爪先で蹴り上げ、続けて仰向けに引っくり返った支配人の顎を横合いから蹴り抜いて顎関節を外し、涙と洟、涎を垂れ流し、這いずり後ずさろうともがいているのを踏み付け、箱から取り出した瓶を、その口へと突っ込んだ。
本来なら、ブランデーかワインで数十分の一に希釈して刻んだ煙草の葉に吹き付け、煙としてごく少量を取り込むものである。
そうやって希釈しても、強い中毒性と、それ以上に恐ろしい毒性を持つ劇薬を、原液のまま、一度に大量に摂取すればどうなるか。
気管から流れ込む劇薬に肺を焼かれ、手足をばたつかせる支配人の、赤黒く腫れ上がる皮膚を埋め尽くす水疱が、針の頭ほどから瞬く間に大人の親指ほどの大きさになって弾けると、体液を滲ませる剥き出しの肉が、押し出されるように膨れ上がり、それなりに金と手間隙をかけた衣服を襤褸切れに変える。
空になった瓶を押し戻す舌は二回り以上長さと大きさを増し、比喩ではなく物理的に大きく裂けた口の、並びの悪さと煙草の脂で染まった薄茶色の汚さはそのままに、内側から圧迫されているのか、ひび割れながら肥大化する歯の間からでろりと喉元まで垂れていた。
肺を満たし、肺胞に接する血管から浸潤した劇薬に侵された筋肉が、神経が、脳が、全身の細胞が、凄まじい速度で変異と膨張を繰り返す。
「……醜いな」
分かってはいるが、こうやって改めて目の当たりにすると、些かうんざりした心持ちになると同時に、例えようのない怒りが頭をもたげてくる。
もとの形状が何であったか、想像すら付かない、襤褸をまとって蠢く肉の塊と化したそれが、知性の欠片もない餓えにまみれた音で吠えた。
こうなったが最後、この肉の塊からは人としての理性も知性も失われ、生きた血肉への底無しの食欲の他は何もないモノと化す。
生物として完全に変質した肉の塊は、男と従僕には目もくれず、肉に埋もれた手足の代わりか、腹部に生じた芋虫の擬足じみた突起をざわめかせ、扉へと全身を打ち付ける。
外へ出るためには、扉を開けなければならない。
それすらも忘れ果て、扉の向こうから漂うヒトの血肉の気配に、涎を垂れ流し体当たりを繰り返す様は、憐れみすら催すほど滑稽であった。
肥大し、異形と化した肉の塊の体当たりに、ぎしぎしと軋んだ音を立てていた扉が吹き飛ぶ。
甘ったるい煙と共に雪崩れ込み、一気に濃度を増した血肉の気配に、肉の塊が、岩の隙間を風が吹き抜けるような、太く、低い音を立て吠えた。
† †
「おいこら一体どういうこった!? 聞いてねえぞこんな話!?」
「あーうん俺もこんな話聞いてねえなあ」
「畜生どうなってやがんだクソッタレ!」
「それは俺も山ほど知りたいね。まあとりあえず、動ける連中だけは逃がしとこうぜ」
「だな」
控えめな表現を使っても阿鼻叫喚としかいいようのない光景を前に、ステアーとシグは軽口を叩きあうが、人並みのやや上ほどには二枚目で通る顔は緊張感に満ち強張っていた。
怒号と悲鳴、グラスや瓶が砕ける不協和音に、中に軟組織がみっしり詰まった硬い物体を、同じかやや上回る程度の硬い物体が力任せに押し砕く音が、おぞましさを上乗せする。
煙のべとつく甘ったるさ、零れた酒の華やかさを塗り潰すのは、鉄錆に似た濃密な生臭さ――血腥さだ。
ごりゅ。
ずぞぞ。
ぬじゅ。
ごちゅ。
上顎と下顎に手をかけて、首まで一気に割り裂いたような悪夢じみた造形の口が、硬く湿った音を立てながら、何かを咀嚼している。
ややあって、咀嚼していた何かが吐き出され、毛足の長い上質な絨毯を、べちゃりと汚した。
硬い殼ごと噛み潰され、吐き捨てられた胡桃、というのが一番近いだろう。
ただ、胡桃よりも随分と大きく、殼の内部も随分と柔らかいものでできているが。
「畜生この立地じゃ火ィ無理じゃねえかバカヤロウ!」
「せめて出るなら野中の一軒家に出ろやコノヤロウ!」
へらへらと涎を垂れ流し、何が起きているか理解していない長椅子の連中までは、手が回らない。
半ば恐慌状態に陥ってはいるものの、自力で動け、逃げる意識のある連中を優先させることに、後ろめたさがない訳ではないが、これは割りきらなければならない事案だ。
店員たちの尻を蹴飛ばして、店の外へと誘導しながらも、ステアーとシグがそれから意識を外すことはなかった。
その間も、十四年前、ナートゥムで見たものが脳裏をちらつく。
地獄と、そうとしか呼べない光景に、傭兵稼業から抜けた者も少なくなかった。
その地獄を、更なる地獄で上書きして蓋をした、遠い島国から来た女傑に、顔形はどこも似たところはなく、性別も異なるが、何故か不思議と印象が重なる養い子――というには自立心旺盛で実行力にも富み、九割方自活していたので、軒下に住み着いた野良猫と、それをたまに構う家主が近い――はどうしているだろうかと、ふと考える。
目端が利き、腕も立てば頭の回転も悪くない、歳不相応に肝の据わったクソガキのことである、金目のものをガメた上で、ちゃっかり安全圏に退避していてもおかしくはない。
以前、人身売買組織をひとつ潰した時も、金の細工物や銀食器をちょろまかし臨時収入などと宣っていたし、今回は発端となった箱の二つ三つもくすねて、何かあったら落ち合うことになっている小屋に、一足先に向かっているのではないかと、そう思っていた。
だが。
「……やべぇ。俺らサコーの野郎にブッ殺されんぞ」
「……だな」
長椅子でへらへらとどこかへブッ飛んだきり、戻っていない連中が、吠え転がる肉の塊に押し潰され、ぶちりぶちりと首から上をかじり取られている間に、動ける連中は全員逃がしたため、店の中はほぼ無人。
あとは、肉の塊を「処分」するだけだというのに――
「ああもう何してんだ坊主!」
低く小さく、舌打ちと共に押し出したシグの視界に、ゆうらりと立つ影が、ひとつ。
踊り手としての衣装のまま、ふらり、ふらりと俯き歩く姿は、それだけならば放心しているようにも見えるが、まとう空気の底冷えする物騒な剣呑さは、心神喪失者のそれではない。
「……お」
い、と続くはずだったステアーの声どころか、存在にすら気付いてないのか、養い子――カレルレンがぽつりと呟いた。
「ああ、うん。そうだよね」
ぼそぼそと乾いた声で、なおも続ける。
「……駄目じゃあないか。忘れたりしちゃあ。大事なことなのに。格下相手に無双していい気になって。それで――いい訳ないじゃあないか」
呟く声は小さく、雨漏りのようにぽたり、ぽたりと一定の幅で落ちてゆく。
「そんなだから」
足が止まる。
「……そんなだから、死んだ、なんて」
バネ仕掛けの玩具じみた勢いで、俯いていた顔が跳ね上がった。
盲の踊り手に扮するための小道具による演出はそこにはなく、晒す素顔には何の表情もない。
何かが欠け落ちた平坦さの中、目だけが炯とした光を宿している。
「あの化け物だったら、殺されても仕方ない、なんて」
薄めの唇をきりりと噛み締め、呪詛染みた呟きを吐き出すのを、ステアーとシグはかける言葉もなく、ただ見ていた。
内容はよく理解できないが、カレルレンにとって何か大きな出来事があったのだと、漠然と理解はできた。
「そんなの、赦せる訳ないじゃあないか。なあ、そうだろう……?」
だから、と、噛み締めたせいで薄く血が滲む唇の両端が吊り上がる。
人の嗅覚では嗅ぎ取れないほどのわずかな血臭を、鋭敏に嗅ぎ付けた肉の塊が、顎の内側にびっしりと生えた臼歯を剥き出し、カレルレンへと頭らしき部位を向けた。
腹の下の擬足じみた無数の突起を蠢かせ、新鮮な血の香りに、ぼう、と吠える。
「だから、八つ当たりで悪いんだけど、さ?」
向かってくるおぞましいそれに、カレルレンは――笑った。
花が綻ぶように柔らかく、蕩けるように艶やかな、憤怒の相で。
「ぶ ち こ ろ さ せ て ?」
いつ、手にしていたのか。
最初から持っていたのかもしれない。
余りにその手の中にあるのが自然過ぎて、あることに気付けなかったのだろう、幅は広いが優美な曲線で構成された二振りのナイフ。
刃の付け根に刻み目の入った、刃渡りだけで四十メルはあるそれを閃かせ、舌に乗せれば顎の骨までぐずぐずに崩れそうな甘い声で、殺意を囀り、嗤う。
ぞぶり、と肉の塊の顔の中心に一振りを、もう一振りを顎の下から斜め上へと突き立て、手首を捻り刀身で周囲の肉を抉りながら引く抜く。
噴き出す血は、蠢き盛り上がった肉に塞がれたちどころに止まった。
巨体の割に俊敏だが、攻撃手段は体当たりくらいしかない。にもかかわらず、普通の生物なら確実に致命傷となる傷を与えてもそう簡単に死なない。
それが、この肉の塊――瘴魔と、そう呼び伝えられているモノが恐れられる所以であるが、それをカレルレンは知らない。
少なくとも、ステアーとシグは、カレルレンに瘴魔について教えたことはないし、最低でも紫以上にならなければ開示されない情報だ。
普通の生き物と思って、致命傷を与えた段階で気を抜けば、逆に食い殺される。
まだ死んでいない。
そう言いかけ、ステアーは口を噤んだ。
知識はなくとも、感覚が、それがなかなか死なない、何度でもぶち殺せるモノだと判断したのか、カレルレンは嗤いながら、二度、三度とナイフを振るい、突き刺し、切り裂き、抉り、再生速度を上回る勢いで、目の前の存在を刻んでいく。
舞台で見せたそれよりも優雅に、鋭く、ただただ殺すという行為を突き詰めて昇華させた踊りを、カレルレンは自分のためだけに繰り広げる。
「うん、やっぱりさ。居心地いいのって、いいけど、ダメだよね。ダメになる。ちょっとくらい死にそうな、死ぬかもしれないような、そういうのじゃないと、やっぱりダメなんだ。そうじゃなきゃ、殺されても仕方ないとか、そんなになっちゃうんだ」
刃毀れしたナイフを手に、組織を癒合させようと露出した断面をひくつかせるものの、それ以上はどうにもならなくなったそれを見下ろし、カレルレンはやっと踊りを止めた。
血溜まりを素足で踏みしめ、跳ね上がった赤に足首を染め、昂った神経を鎮めるために、深く、大きく呼吸を繰り返す。
「探さなきゃ。やっぱダメだ。どっかにないかな、そういうの。死ぬかもしんない程度に危なくて、格下無双じゃなくてちゃんと強くて、そういう敵がいて、毎日殺し殺されみたいな、そういうのじゃなきゃ、強くなれない」
いつにない饒舌さに、ステアーとシグが顔を見合わせた。
常よりも子供っぽい口調と、物騒な内容に、違う意味で相当ぶっ飛んでるなこりゃ、と肩を竦める。
「強くなって。そしたら、いつか必ず、どこにいても何をしてでも見つけ出してぶち殺してあげるから。だから――ねえ」
待ってて、と。
あらぬ彼方を見つめるカレルレンの唇が、綻んだ。
何もかもが、激情の中に沈んだ。
微笑みかけた友情も、芽生え欠けた親愛も、秘密も。
そして、あらゆる悪徳も同じだ。
全てが振り出しにもどった。
少年は最初の渇望を疲れた身体に包んで、泥濘と、硝煙の地に向かった。
次回「バトルフィールドオブナートゥム」。
傭兵は誰も愛を見ない。




