二狩目 禁じられてない遊び・2
ハローハロー、エブリハニー。お元気ですか。
俺ちゃんツァスタバさんはっさい、ただいま箱詰めの貨物扱いで荷馬車に揺られてまーす。
やったねツァスちゃん移動が楽だよ!
内側に一応クッション材は入ってるけど、箱詰めとかマジ絶許。この時点で加減とか遠慮とかその辺の文字と言葉は私の辞書から蒸発しました。
あいつらすり潰して鉄分たっぷりのパッサータにして残飯と一緒に豚の餌箱ん中にブチ撒けたる。
それはそれとして、何でこうなったのか。
あれはそう、保元の乱の時のこと。西の空から輝く円盤が現れて……うん、ちょっとしたジョークだから、場をこう、盛り上げる前段階の。
六日前、ドライゼのおっさんに持ちかけられた「誰にでもできる簡単なお仕事のお手伝い」の仕込みは、盛大にトイレでゲロ吐いた翌朝から、既に始まってた。
アルコール分解能力が不十分なお陰で、頭蓋骨の中身がゴッソリ鉛と入れ替わった二日酔いなう、の青い顔をぶら下げ下りた宿の一階には、既におっさんどもが雁首揃えて勢揃い。
うん、サコーの父ちゃん怖いからやめて、その目ぇだけ絶対零度の穏やかな微笑みとか、本気で怖いから。
その場の雰囲気とノリと勢いでやらかしちゃったのはマジ済まんかった。
反省も後悔も大いにしてるからホント勘弁して。
風呂にも入らず寝床に倒れ込んだお陰で、肌も髪も微妙なぺっとり感だし、酒のお陰で、いつもはほぼ無臭に近い体臭が、少しだけ汗っぽく饐えた感じで鼻につく。
うわくっせ、私くっせ! とウッカリ草生えそうですわー。
頭洗いてぇー! 風呂入りてぇー! と思いつつテーブルに着けば、朝食より先に出てきたのは、ショウガを漬け込んだ蜂蜜を湯で割って、絞ったレモンを一垂らししたドリンク。
二日酔いの人間に必要な水分、糖分、ビタミンのスリーランとか、できるなおじじ。
ぐっとサムズアップするおじじに頭を下げ、ぬるま湯程度のぐびぐび飲める温度のそれを一気に飲み干し、人心地ついたところで出てきた朝食をしっかり平らげ、食後のコーヒー(ただし私は除外)でうだうだしている頃合いに、ドライゼのおっさんが、今回のミッションについての詳細を切り出してきた。
売買会場は既に判明済。依頼人が伝手を使って、参加者の護衛として一人ねじ込めたから、引き込みも無問題。
後は、囮が上手いこと餌に食いつかせて、商品の調達・保管・運搬担当と鼻薬をかがされたアホの洗い出しのアシスタントだから、責任重大ですわー。
けど、囮ってことはスタンドアローンですやん? 下手におっさんたちにつなぎを入れれば怪しまれるし、どーすんの?
と、呈した疑問への返答が、箱詰めなうの私の耳の後ろ、髪に隠れる位置に仕込んだ魔道具でございます。
耳の後ろ五メル弱ほどのところの皮膚を、縦方向に二メルほど切開し埋め込まれた魔道具は、耳朶のピアスとセットになった画像の受送信を可能とするスパイグッズ。
あ、もちろん埋め込みの際にはきちんとインフォームドコンセントに則って、リスク含む説明を受けた上で、施術に同意してますよ?
さて、このアイテム。節足動物型――ぶっちゃけると蜘蛛ですな。
その、ゴルゴン=アラーニアなる魔獣の複眼を使ったピアスがカメラのレンズの役割を果たし、耳後ろの皮膚に埋めた、小豆粒より一回り小さな赤い石を嵌め込んだ、親指の爪より一回り小さい金属板が、ピアスに映った画像を受像器に送るのだとか。
ピアスの方にも一応この石は使われてるけど、複眼の下に仕込んであるので、外見からは魔道具と分からないようになってる。
なお、この石、魔道具には欠かせないもので、人間の内部魔力の肩代わりをしてくれるバッテリーと、動作プログラムとかぶっこんだIC的なモノを兼ねてるそうな。
何その無駄な高性能っぷり。どこでどう採れるかは、そのうち分かるっつわれたけど……普通じゃないんだろうなー、きっと。
とにもかくにも、誰が思いついたか知らないけど、これ考えたのって別の転生者なんじゃね? と思うのですよ。
いやだって、こーいう発想ってさ、現状出てきにくいんじゃね? 文化の発達度合いとか文化の熟成具合とかからして、もしかしなくても:オーパーツじゃん。
そんな疑問にお答えして下さったのが、施術してくださったアストラのおっさんでした。
何でも、今を遡ること十二年前――私の産まれるわずか四年前、レリンクォルの北にあるヴェルパ、東のウェントスと国境を接する、ナートゥムという小国が滅亡するとゆー大事件があったそうな。何それこわい。
詳しい話は後でまた、ってなったけど、その時、ナートゥムに居合わせた同業の女冒険者からアイディアを頂いたそうで、苦節ウン年、魔道具研究開発仲間と技術開発に明け暮れ、ついに完成したとか何とか。
つか、その女冒険者って、転生者なんじゃね? いやだって、発想が色々ブレイクスルーし過ぎですやん。
だって隠しカメラですよ? だとしたらちょっと、いや凄く興味ある。できるものなら、ぜひ一度お会いしたいものです。
で、まあ、雑談交じりのすごーくフランク&ザッパな打ち合わせを経て、その日の午後には古着屋でいい塩梅の古着を入手し、貧民街で見かけた体格の似通った子との物々交換(物理)を成功させ、手足と顔と髪に泥擦りこんで下準備を済ませたのですよ。
いやー、半月は確実に洗濯してない熟成された古着とかすんげえキッツイです。
精神的にも物理的にも。インベントリから引っ張り出した除虫香(無臭)で二回燻蒸しちゃったよ。
さて、この猛禽面に少女としての需要がないのは火を見るよりも確定的に明らか。
まだ少年としての需要のほうが見込まれる。てな訳で……ててててっててーん、せ~いぎょ~くた~ん&せ~きか~んた~ん(十分の二)。
ただし、今回は長期戦なので、今回は、本当はもんっっっっのすごっっっっく使いたくなかったんだけど、状態異常延長アイテムを併用することにした。
碧甘丹、赤甘丹、青玉丹や豊胸薬のようなネタアイテムから、運営から封印指定を受ける雨傘も真っ青なガチンコ生物化学災害発生ブツまで、衝動の赴くままにぶっこんでくる奇人集団が生み出したそれは、文字通り状態異常時間の延長を可能とした、あらゆる意味で禁断の魔薬だった。
一時的なステータス上昇も、平時のステータスを逸脱してるっつー意味で異常と判断されるため、効果がプラスでもマイナスでも特に意味がなくても効果時間を延長するそれは、『こっちだけズルして無敵モード』すら夢ではない神アイテムだが、一度使用したPLが、二度とそれに手を出すことはなかった。
理由は単純。不味いのだ。
ゲーム上、人体に有害とされる成分は一切含まれていないにも関わらず、不味さだけで卒倒して強制ログアウト→現実世界における味覚と嗅覚の一時的障害がもれなくついてくる程に、真剣に切に純粋に――不味い。
この世のものとは思えないその味は、強いて言うなら
『特濃煮出しセンブリ茶とくさや汁(百年熟成)にドクダミ(生)、沖縄が誇るサクナ、島菜、雲南百薬、フーチバー、ハンダマ、ニガナ(やっぱり全部生)、トリニダード・スコーピオン・ブッチ・テイラー、シュールストレミング(缶汁ごと)、ホンオフェをぶっこんでミキサーにかけたやつを体積が千分の一になるまで煮詰めてルートビアとドクペとイ○ジンうがい液(原液)1:1:1の混合液で割ってサルミアッキと正露○トッピングにしたのを五十六億七千万倍に凝縮』
した感じ。
それも、専用のスポイトで一滴舐めただけでこの感想である。
で、この状態異常延長アイテム(地獄味)、一滴につき効果時間×3となり、二滴に増やせば×3×3、三滴ならば×3×3×3と増えていくが、人類の味覚を悪い意味で天元突破したシロモノだけに、二度目に手を出す勇者(愚者)はいなかった訳ですが……何らかの形で確認される可能性を考慮し、最低でも売買会場襲撃当日となる十日後までの二百四十時間は必要ではないかっつーことで、前人未到の四滴に挑戦することと相成りました。
もうね、青玉丹と赤甘丹(十分の二)と一緒に口にした瞬間、飛んだから。意識が。頭蓋骨の中からポーンと音立てて。
意識と一緒に眼球飛んでったんじゃねーのとか思ったし。
幸い、半分崩れた元民家に身を潜めてゴソゴソやってたんで路地裏で無防備に行き倒れることはなかったけど、気が付けばまるっと翌日の夕方で一日以上を無駄にしてたとか、後でどやされんの、確実ですわ。
ついでに味覚と嗅覚は現在進行形でガッツリ麻痺状態。
お陰様で、泥水で煮込んだよーな服と顔のご同輩に紛れての、裏通りでの残飯漁りもあんまキッツくなかったです。
あ、ちなみにこの辺の一部始終は、おっさんたちに見られないように耳の上に布巻いて「見せられないよ!」しときましたよ、勿論。
親しき仲にも礼儀あり。隠し玉は隠してあるから意味がある。
そんな努力の甲斐あって、狙う獲物が喰いついてきたのは、準備万端整えて貧民街に入り込んでから三日目(囮開始から実質四日目)の夕方のことだった。
二日目からちらちら視線は感じてたけど、予想以上に接近が早くてビックリだよ。
いやー、案外優秀だね私の顔。つってもM仕様の顔が、だけどな!
引っ掛かったのは、薄汚れてくたびれてはいてもこっちと比べれば表通りを日中歩けそうなだけ大分マシ、といった格好の、年のころは十三、四ほどの少年だった。
身形を整えにっこり笑えば、どこぞの有閑マダムがツバメ候補に拾ってくれんじゃなかろうか、って顔だけど、親切面の裏っ側に、ちらほらとさもしさが見え隠れしてるもんだから色々と台無し。
胸焼けしそうな善意モドキをごってり塗りたくった笑顔と猫撫で声で、飯と寝床をちらつかせ、私だけじゃなく、数人の子供に声をかけてきた辺り、実に手馴れていらっしゃる。
一本釣りよりタモ網でまとめてすくって選り分けてキャッチ&リリース。釣られた一が消えるより、まとめてすくった十の中から一が消える方が目立たないし、消えた理由が、仮に「運よくどこかの篤志家に引き取られた」なんて眉唾ものの話だったとしても、一定の信憑性を持たせられる。
そうやって、ガキが消えたところで誰も怪しまない状況を作ってうまいことやってきたのに――いや、だからか。
調子ぶっこいて「おっかない」とこを敵に回しちまったとか、ご愁傷様としか言えねーわ。
囮に喰い付いた釣り針役のガキの案内で向かった先は、貧民街と下町の境に近い、程々に治安が悪く程々に安全な辺りにある、程々に手頃な一軒家だった。
臭い・汚い・不衛生の塊といった連中にも関わらず、割とどこにでもいる普通の主婦といった中年女は、嫌な顔一つせずにガキどもを家へと迎え入れ、まずはお風呂に入ってらっしゃい、と家の奥へ向かわせた。
不信感を抱かせないためにか、釣り針役のガキが率先して着替えを受け取り、風呂場があるだろう奥へと進んでいく。
腐りかけの饐えた臭いとは別物の、温かい、まともな食事の匂い……つっても嗅覚臨死中で分からんかったけど、そのアシストもあってか、タモ網ですくわれたお仲間も着替えを受け取り釣り針を追いかけてくので、私は最後尾をのろのろついていくことに。
その間も、飛んでくる品定めの視線に気付かないフリすんのがめんどくさくてもー……。
で、こざっぱりきれいになったところで食事して、ハ○ジベッドに雑魚寝だけどちゃんとした寝床で一夜を過ごし、翌朝起きればパンとスープがあって、となりゃあっさり懐柔されちゃう訳ですわ。
朝飯の後は釣り針がガキどもを連れて、徒弟常時募集中(身の上不問・危険手当なし・限りなくブラックに近いダークグレー)な職場見学会。
こうやって自分もあのごみ溜めから這い出たんだ、とか何とか言っちゃいるけど、マジあの職場で徒弟しとったんなら、そんなまっさらな手ぇしとらんわ。
だが、ガキどもはあっちの職場一人、こっちの職場で二人と引き取られていく。
そのことに大した疑問も持たずに、素直にお世話になります、つってたけど……これ、昨夜のうちに仕分けして割り振りしてたんだろうね。段取りいいもん。
競りにかけるよか実入りは少なくても、古着と飯と風呂でかかった分差し引いてつりが来るくらいの金にはなってるんだろう。
で、無事残りものとなった私を連れて、釣り針は、きっと運がなかったんだよ、明日には雇ってくれるところが見付かるから、とか適当なことを言いつつまたあの家に戻った訳ですが、風呂入って飯食ったら、やられましたよ。
痺れ薬的なものが混ざってたみたいで、全身麻痺して動けねーでやんの。
味覚と嗅覚が臨死ってたお陰で気付けんかったのです。
あークッソ、しくじった。
睡眠薬じゃないのは、食事に混ぜて摂取させるから、途中下手に寝ゲロで窒息死させない用心なんだろうけど、どっちにしろ最悪だ。
一方の釣り針はっつーと、痺れて麻痺って動けない私を見てせせら笑ってたかと思えば、急に喉掻き毟って悶えだし、血反吐ブチまけてました。
あー、これは噂になり過ぎたんで、釣り針交換ってなったんだろうなー。
売りに出せば金になりそうなのに勿体ない、とは素人考え。
こういうお仕事の片棒担いだ奴を野放しとか、後々絶対面倒なことになるに決まってる。
強請りたかりは当然として、同じ仕組みを作って商売敵になることだって考えられる。だったら後腐れなく始末した方が安くつく。
友釣りの鮎だって、最後はスタッフに美味しくいただかれるんだし、しゃーないわな。
とりま、貨物扱いで荷馬車に揺られてる経緯はざっとそんなとこ。
一部始終はちゃんと伝わってるはずなんで、心配とか不安は全くない。
問題は、この痺れが競りの当日までに消えるかどうかだけど、消えなきゃ消えないで、内部魔力ガン回して、汗と一緒にムリクリ排出って手もある。
閉暗所恐怖症なら暗いよ怖いよ狭いよー! とパニクりそうな箱に詰めて、荷物扱いしてくれやがった礼は、きっちりしてやらにゃ気が済まない。
それなりによく考えられた手段だとは思うけどね。身動き取れない状態で閉暗所に閉じ込めるのは、反抗心とか自尊心とか諸々へし折って従順な奴隷に仕立てる一環なんだろうし。
それも含めて、やられたらやり返す? やった本人じゃなかろうが、そいつの仲間ならやり返す。
誰彼構わず八つ当たりに決まってるじゃないですかやだー。
あいつらどうして殺ろうかと、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、愛のように甘い思いに胸焦がしながら、ひたすら闇を凝視する。
ああ――本当に、どうして殺ろう。うふ、うふ、うふふふふふふふ。
† †
そろそろ切り時かと思っていた釣り針が引っ掛けてきたのは、想像以上の上物だった。
身形は酷かったが、垢と埃で汚れていてもなお損なわれない容姿は、金と時間を持て余した貴族のご夫人方はもとより、そっちの趣味の連中の財布の紐も、大いに緩めてくれることだろう。
件の上物が、風呂で垢と埃を落として出てきたところで、その予想は確信に変わった。
汚れの下から出てきた髪は、銀を紡いで糸に縒ったとしても、こうも輝かしくはないだろう。
遠く、北方の山岳地帯に降る雪とはかくなるものか、と思うほどに白い肌は、王族の肌を覆う絹よりなお滑らかだ。
幼く柔らかな子供らしさと、少年の潔癖な硬質さが混在する輪郭の中に収まる、形のよい柳眉、長い睫毛に縁取られた、淡い蒼と灰とが揺らめきながら交じりあう眼、すっきりと通った高い鼻梁、淡く血の色を透かせた唇が描き出すのは、人知を超えたなにものかが、「美」そのものにかたちを与えようとの真摯な戯れの末、偶然にも人のかたちに創りあげたと、そう思わずにはいられない、ただ美しいと、そう言うより仕方のない貌だ。
間違いなく、今回の――いや、これまで競りにかけてきた商品の中でも類を見ない、後にも先にも二度と出てくることのない、これっきりの、「超」のつく最高級品。
身代を潰そうが、領地を手放そうが、これを手に入れるためなら惜しくはなかろう。
そう確信した女が、転がり込んでくるであろうお零れの大きさに思いを馳せる顔は、人とはかくも醜く浅ましいものなのか、と人間に絶望しかねないものがあった。
その顔を隠すように背を向けて、釣り針に、いつもの手順を踏ませて、痺れ薬を入れた食事を渡す。
見ている前で、同じ鍋から同じものを器によそうことで、食べても大丈夫だと思わせるための工夫だ。
いつもなら、釣り針は予め中和剤を飲んでいるので、同じものを食べても薬は効かないのだが、今回釣り針に飲ませたのは、中和剤ではない。
単体では何の効果もないが、痺れ薬と前後して服用すると、極めて致死性の高い猛毒となる薬剤だ。
噂が流れ過ぎたためだろう、この小屋にまでやってくる浮浪児が出始めたこともあり、この街での『仕入れ』を畳むついでに、人相を知られた釣り針の始末もすることにしたのだ。
競りに出すには汚れ仕事の垢が付き過ぎているし、何より、生かしておいては後々面倒なことになる。
倒れ伏し、それでも気丈に睨みつけてくる『商品』の眼差しをせせら笑う釣り針が、血反吐を吐いてのたうち出したところで、女は奥で待機していた夫を呼んだ。
鼻薬を嗅がせてある衛兵が守衛の任に入るのは、今日を逃せば競りの当日になる。
今夜中に街を出て、競りの会場にこの『商品』を運ばなければならない。
輸送に使っている箱に『商品』を収め、小屋の裏手に用意した荷馬車に積みこんだ夫に、落ち合う先を伝えると、一路街門を目指すのを見送って、女は室内に戻った。
今回の『商品』は、どれだけの金を運んでくるのだろう。
きっと、これまで見たことも聞いたこともないような額になるだろう。
それで、何をしようか。
女と夫は、大分前から寝室を別にしていたが、夫婦仲が険悪かと言えばそうではなく、夫婦、男女と言うよりは、息の合った仕事仲間であり、そのため、夫が自分の取り分の範囲内で使うのであれば、宝石よりお高い高級娼婦を買おうが何をしようが気にはならないし、女の夫も、女が女の取り分の範囲内で使うのであれば、若い男を買おうが何をしようが気にはしない。
その前に、と、苦悶の表情でこと切れている釣り針を女は見やる。
納戸には鶴嘴があるが、床石を退かして穴を掘るのは女一人には難しい。
どうせ女も明日の早朝にはこの街を出る。
浮浪児どもの寝床に使った部屋に、火のついた蝋燭と一緒に放り込んでおけば、小屋ごと片づけてくれるだろう。
幸い、周囲にあるのは空き家と半分崩れたあばら家と空き地だ。仮に延焼したとしても、貧民街の外に飛び火しない限り、そう大事にはならない。
釣り針の足を掴み、よっこらせ、の掛け声とともに引きずっていく女の姿を、どこからか入り込んだ一匹の鼠が、まるい眼で見送っていた。




