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物置で胆力を練ること数時間。高い窓からのぞく空は、すっかり夜の色を呈していた。
いたいけな少女を一人置き去りにして、カミロはさぞやご満悦であろう。思い出すにつけ腹が立つ。胆力は練った先から怒りに変わり、腹立たしさは無尽蔵に増えていく。精神統一のための瞑想は、ひたすらに怒り一辺倒に統一されるのだから見事である。
数時間、ひたすら練り上げた我が憤怒の念を内に込め、私は空を睨み上げた。
脳裏には、私が物置へと追いやられた時のことが、まざまざと浮かび上がっていた。
○
これでも私は、確かに焦っていたのだ。
最後に聞いたベニートの報告からして、もう魔術は完成していてもおかしくない頃合いだった。城ではショウコの身に、今か今かと危機が手ぐすね引いて待っている。神殿はどうなったのか。キャンプファイヤーのお知らせと、悪徳王子の失脚はまだか。
尋ねても屋敷の人間は答えてくれず、カミロも黙秘を続けていた。これで焦るなと言う方が難しい。
時は無情に過ぎていくのに、脱走は失敗続きである。
無計画を絵に描いた脱走計画に成功の兆しはないが、しかして計画を練るだけの時間さえない。そもそも私は元の世界のみならず、この異界においてさえ、金も常識も先見の明も持たない身であった。
それでも逃げようという涙ぐましい努力。無謀と言うならそれでも良い。
なにしろ、カミロ邸を脱しなければ私に未来はない。協力を仰ぐべき相手もいない。最後の手段とカミロに泣き落としをしても、わずかにも通用しなかったのだ。
深謀遠慮のモットーはかなぐり捨て、即断即決のモットーもカミロにへし折られ、ならば残るは勇猛果敢。ただただ挑むのみである。
結果として、もはや数もわからない逃走の果てに、カミロに引き渡された。カミロは疲れたサラリーマンのような顔つきで、剛腕自慢の侍女に捕えられた私を見ると、ことさら声を張り上げて「物置に放り込んでおけ!」と叫んだのだ。
嘆く私はさておいて、カミロはしばし物憂げに私を見つめた後は、無言で背を向けて去って行った。私は背中に何度も哀願したが、カミロが振り向くことはなかった。
実に冷たい態度である。人とは思えぬ悪魔の所業である。さすがは悪魔王子の腹心であり、悪徳神殿の手先である。人の中の悪という悪を結集させればあのような人間になるのだ。などと、カミロの背に向けて叫んだ記憶がある。
それでもカミロは、最後まで振り向くことも、反論することもなかったのだ。
あとのことはお察しである。私が怒りに震えるのも、無理ないことだと承知いただけたであろう。
○
これが一年間の付き合いの成果か。私の危機に振り返りもしないのか。
心の中で私は毒づく。次いでお前は私のことが好きなのではないのか、と頭に浮かべ、私は自滅的に悶絶した。血迷ったいつかのカミロを思い出し、同時にそのときの私自身の見苦しい困惑まで思い出したのだ。
月光差し込む物置で、私は一人床の上でのた打ち回った。人に見られていないのが幸いである。
「……なにをしていらっしゃいますの」
見られていた。
突然の声に、私は跳ね起きた。どこから聞こえたのかとあたりを見回すが、物置に私以外の姿はない。さては幽霊か、幻聴か、それとも妖精か、と私は震えあがった。幽霊だったならば私の息の根が止まる。
「こちらですわ、ナツ様」
こつこつと石壁を叩く音がして、見上げてみれば、窓に見知った顔がある。私は目を丸くした。
「イレーネ様?」
あまりに予想外であった。高い窓から顔をのぞかせ、胡乱な瞳で私を見つめるその姿はまぎれもなくイレーネだ。夢でも見ているのだろうか。それならこれはまぎれもない悪夢である。
「なんですの、その表情。せっかく逃がして差し上げようというのに」
「逃がしてくださるのですか」
なぜに?
「あなたを帰してカミロ様をお救いするためですわ」
ほほう、なるほどわからん。混乱を隠さずイレーネを見上げれば、彼女は不愉快そうに顔をしかめた。
「あなたのような売女から、カミロ様の目を覚まさせて差し上げるんですの。……無駄話はいいから、早く逃げますわよ。窓から登って出られるでしょう? ナツ様は、そういうのがお得意ですから」
以前のように、私を置いて行った時のように、と恨みがましくイレーネは言う。根に持つタイプである。
いやしかし、あれは椅子を踏み台にしたからこそできたのだ。ここの物置にあるのは古びた道具ばかりで、到底役に立ちそうにない。
私が救いを求めると、イレーネは仕方がなさそうに手を伸ばした。
「引っ張りますから、掴まってください」
伸ばされた手は白く細く、筋力とは無縁のものであった。
本当に引き上げられるのだろうかと疑いながらも、私は迷わず彼女の手を取った。
○
イレーネは二段階層だった。どうなっていたかと言えば、彼女の下にけなげなボディガードの踏み台があったのだ。
ちなみにやっぱりイレーネの力では私を引き上げられず、ほとんど自力で壁を這い上がる結果となった。人間、生爪を剥ぐくらいの覚悟でいれば、だいたいのことはやればできるものである。
私の無事な姿を確認すると、イレーネはすぐさま逃げるように促した。
「逃げますわよ」と言われれば当然のごとく異論はないが、イレーネの存在には異論がある。当たり前のように物置から裏門までまっすぐに駆け、当たり前のように「ここの錠前、ちょっと壊れているんですの」と鍵もなく器用に開けるとなればなおさらだ。
どうやってここまで来たのか。そしてどうして鍵が壊れていることを知っているのか。聞けばやはり当たり前のように、イレーネは答えた。
「何度ここに来たと思っていらっしゃるんですの?」
「何度もここに来たんですか」
ストーカー怖い。
「おかげで助かるのですから、感謝していただきたいですわ」
もちろん、その一点においては心の底から感謝はしている。今ならイレーネの足も舐められる。
裏門を出たところで、馬車が一台待ち構えていた。イレーネに足蹴にされていたボディガードはそのまま御者台へ向かい、イレーネ自身は後ろの座席に乗り込む。さて私も続こうと馬車に歩み寄ったところで、私は何気なく背後を振り返った。
夜闇にカミロの館がシルエットとして映る。
深夜、金持ちの邸宅前にあからさまに怪しい馬車が一台。警備兵は見とがめなかったのか、そもそも見回りはないのか、と思ったが、考えないようにした。
きっとこの屋敷の危機管理能力の低さがストーカーを助長させ、こうして私の脱走を手伝ったのだ。
○
このたびの盲目な恋に任せたイレーネの行動に、私は賛辞と拍手を惜しまない。
彼女は城で秘密裏に行われようとしている、帰還の魔術について知っていたのだ。
私の帰還は私の悲願でもあり、ある意味イレーネの悲願でもあった。カミロの恋人の座を狙うイレーネにとって、私の存在は邪魔そのもの。元の世界に帰ってくれるのなら、願ったりかなったりである。
しかし私は囚われの身となり、魔術の恩恵を受けられない。ならばと立ち上がり、私の救出を果たしたイレーネこそが、私にとってのヒーローである。素敵である。抱いてくださいと額を地にこすりつけて懇願するのも無理はない。
いや、だがしばし待て。帰還の魔術とはそれほど大々的に知られているものだったのだろうか?
城暮らしの長い箱詰め聖女である私、世間様の事情はそうそう知らないが、魔術とはそれほど広く知らしめられているものであっただろうか。いつもこそこそと影に隠れて会話をしていた印象しかないのだが。
馬車が動きだし、強張った肩の力を抜いて息を吐くと、イレーネは言った。
「私にそれを教えた人間がいるんですのよ」
そんなあからさまに胡散臭いやつがいるのか。
「秘密親衛隊の諜報の女ですわ。ナツ様は元の世界に帰られるのだと。だけど今は、カミロ様のもとに、ナツ様がいらっしゃって、帰さないように閉じ込められているのだと。魔術はもう完成しているけれど、今ならまだ間に合うのだと」
あからさまに胡散臭いやつだった。間違いない。
「カミロ様のお屋敷に関しては、私ほど詳しい人間はいませんもの。それで私を頼ってきたのでしょうけれど……」
あの女、なにものかしらとつぶやいて、イレーネは親指の爪をかんだ。
まったくもって同意である。得体が知れない。
○
これから、城の近くで私の引き渡しをするらしい。
馬車は石を蹴って揺れながら進む。舗装の甘い道路が悪いのか、それともできそこないの車輪が悪いのか。コンクリートの道路とゴムタイヤのありがたみをしみじみと感じながら、私はイレーネとともに搬送されていた。
「それにしても物置に詰め込まれてくださって助かりましたわ」
などとイレーネが相も変わらずとげとげしい口調で言う。箱詰め聖女であるからには、物置に詰め込まれることもまた私の得意とするところだ。空間収納もどんと来い。
「それまではカミロ様のお部屋でしたもの。さすがの私にも、そこまでは入れませんわ。なにより入ったとしても、ナツ様を助ける前に絞め殺してしまいますもの」
「絞め殺す前に、イレーネ様が嫉妬で憤死されると思います」
私の言葉にイレーネは、条件反射のように憎しみあふれる視線を向けた。が、すぐに苦い顔で首を振る。
「いえ、いえ、もうわかっていますわ」
「わかっているとは」
「純潔なんですって。聞きましたわ。そうでなければ、魔術は成功しないのだと」
イレーネは苦い顔に更なる苦味を加えるべく唇をかんだ。そして独り言のようにつぶやく。
「……あなたに、長く聖女をさせたくなかったのね。そう思うと、余計に憎らしいわ」
徹底的に憎まれていたと思ったのだが、どうやら今まではまだ上限に達していなかったらしい。恐ろしいことである。
しかしてかくいうこの私。胃痛の苦悶を除けば、実はイレーネのことはそれほど嫌いではないのだ。今回の件で私の中でのヒーロー度も急上昇。今年のバレンタインは期待するといい。出来合いのチョコレートを年の数だけ投げつけてしんぜよう。
このようなことを殊勝な私が言えば、イレーネは私を訝しげに見やり、「私は嫌いですわ」と答えた。もちろん、言われなくとも知っている。
私はイレーネの横顔と、けしからん横乳を眺めながら、心ひそかに思った。
なにを言っても嫌われる。
だから逆に、安心できるのだ。
○
馬車は城にほど近い裏通りで止まった。顔を上げれば城壁が見える、建物の密集した薄暗い道である。足元の石畳は裏返り、舗装などなんのその。城下町というのに清潔さとは無縁で、我が道を行く薄汚い独特の空気を醸し出していた。
エンカウント率が倍になりそうなその場所に私を放り出すと、イレーネは「絶対に必ず帰ってくださいませ!」と叫んで去って行った。
遠ざかる馬の足音を聞きながら、私はぼんやりと空を見上げた。
我が身の引き渡しとは言うが、思えば相手が誰かは未だ聞いていない。果たして相手は敵なのか味方なのかさえ分からない現状。イレーネが騙された可能性も、イレーネに騙された可能性さえある。
そのことを今更に思い出して小刻みに震えた。怒りに震え恐怖に震え。私の体の、実に振動伝達が滑らかであること。そのまま震度計に転職も夢ではない。
などと現実逃避をしても恐怖が収まるはずもなし。しかし思考の片隅で、なんだか大丈夫という根拠のない自身があるのもまた事実。
耳の奥で、聞き慣れた声が何度も繰り返される。
――――「俺が」お前を逃がすわけにはいかない。
いや、考えるまい。考えるまい。




